あなたと出会えたから②

 冬の海は寒々しくて、見ているだけで凍りつきそうになる。

 時折橋の上に強い風が吹いて、誰とも手を繋がずに歩くのが難しいくらいに体が流される。


「時期、ミスったかもね」


 隣を歩く実來さんが言う。

 実來さんはコートの上にマフラーを巻いていて、さらに手袋までしている。私も同じだけれど、手袋をつけていると手を繋ぐ理由を用意できない。


 以前みたいに、どちらからともなく手を繋ぐということもない。私は実來さんに理由なく触れることができなくなっていて、実來さんはそんな私を尊重してくれている。


 だから私たちは肩を並べながらも、手を触れ合わせることなく海の上にかかった橋を歩いている。


 前よりも高くなった視点から見る実來さんは、前よりずっと綺麗に見えた。


 耳には相変わらずピアスがついていなくて、以前より少し鮮やかになった化粧は実來さんの綺麗な顔によく似合っている。


 変わっているところもあって、変わらないところもあって。

 実來さんが私に向けている感情はどっちなんだろうと、少し思った。


「冬でも夏でも関係なく、トンビは飛んでんねぇ」


 実來さんは懐かしむような顔で空を仰いだ。

 トビの鳴き声が辺りに響いている。


 前にここに来た時、私はあの鳥から食べ物を取り返そうとして失敗した。

 それで、実來さんに手当をされて、指を舐められて。


 あの時の感覚が、まだ思い出せる。指がくすぐったくて、でも気持ちよくて、ドキドキして。


 実來さんの指は柔らかかった。細くて長くて、綺麗で。ずっと舐めていたいなんておかしなことを思ってしまうくらいに、いい指をしていたと思う。


 手袋に隠されて、今は見えないけれど。

 舐めた時の感触も、繋いだ時の温かさも、忘れられない。


「覚えてる? あの時、桃に指ねっちょり舐められて、めっちゃ驚いたんだよね」

「……先に舐めてきたのは実來さんでした」

「あはは、そだね。なんか、桃と一緒にいると変なことしちゃってさ」


 冬の風が吹く中で、私たちは頑張って歩調を合わせて歩く。

 実來さんが少し先に行っては、気がついたように速度を落として。

 実來さんに合わせようとして前に行き過ぎた私が、時々立ち止まって。


 以前は手を繋ぐだけで自然に合っていた歩調が、合わなくなっている。それが私の心を、少し重くさせる。


「あ、桃。子供来てる」

「え? あ痛っ」


 私たちの近くを小さな子供が走り抜けていく。

 足に少しぶつかられて、私はよろめいた。

 実來さんは私の肩を抱き止めて、くすりと笑った。


「危ないよ、桃。周りはちゃんと見ないとね」


 そう言って優しく微笑みかけられると、二年前とは違う新たなときめきが私の胸に生まれる。


 二年間何度も思い出してきた実來さんとの記憶が、新しい実來さんに上書きされていく。


 古くなった好きが脱皮して新しくなって、前と同じくらい……いや、前よりももっと好きになっていく。


 離れていた時間が、新たな好きを大きくする。やっぱり私は実來さんが好きで、ずっと一緒にいたい。


「手、繋ごうか。危ないからね」


 実來さんは見透かしたように、理由を用意してくれる。

 だから私は、それに飛びついた。


「はい。繋ぎましょう」


 色の違う手袋が重なり合う。

 実來さん本来の温かさは伝わってこなかったけれど、それでも十分、心が温かくなった。




「み、実來さん。大丈夫ですか?」


 辺りを一望できる展望台の上。実來さんは膝を震わせていた。


「大丈夫……じゃ、ないわ。なんで皆わざわざ高いところに来ようとするわけ?」

「さあ……? あ、でも景色、すごく綺麗ですよ。海が綺麗に見えます」

「いきなり根本からポッキリ折れて落ちるとかないよね?」

「さ、流石にそれは……。実來さん、相変わらず高いところ苦手なんですね」


 なんで高いところが苦手なのに、展望台に来たんだろう。

 せっかく景色が綺麗なのに、実來さんは外じゃなくて私の顔ばかり見ている。

 じっと見られていると落ち着かなくて、顔が熱くなってくる。


「苦手も苦手よ。桃と一緒に飛んでる時は、なんだかんだ楽しかったんだって実感するわ」

「……そう、ですか」


 あの頃、私は何度か実來さんを抱いて空を飛んだ。それを実來さんも楽しんでくれていたのなら、よかったと思う。


 それを言うために、ここまで来たんだろうか。

 実來さんは微かに震えながら、私の頬に手を添えてくる。


「実來さん?」

「桃と一緒にいた時は、毎日楽しかった。これは私の本心だから」


 手が滑って、顎へ。

 細い指で顎を軽く掴まれて、実來さんと目を合わせることになる。


 実來さんは真剣な瞳で私を見ていた。黒い瞳には私が鮮明に映っている。こういう時の実來さんの顔は、まだ恋が視認できた頃から変わっていないように見える。


「好きだよ、桃。今も、昔も。環境がどれだけ変わったって、この気持ちは変わらない」


 実來さんの顔が近づいてきて、キスされるかと思ったら、耳に唇を寄せられた。


「桃が信じてくれるかはわからないけど。私のやり方で、愛を証明する。そのために、またここに来たんだよ」


 耳元で囁かれると、体が跳ねる。

 私の知っている実來さんは、ここまで積極的ではなかった。恋人だった頃は好きとよく言い合っていたけれど、その頃とは違う。甘く溶かすように囁いてくるから、耳がどこまでも熱くなっていく。


 実來さんはそのまま耳元に軽く口付けをして、私の手を引いた。


「だから、ほら。今日はいっぱい楽しもう」


 以前とは、関係が逆になっている気がする。以前の私は無垢を装って、実來さんを色々なところに引っ張って、連れ出していた。

 実來さんは、変わった。


 その変化は多分、いいものなのだと思う。今の実來さんの中にはきっと私の一部が混ざっていて、私の方も、同じなのだろう。


 私たちはそのまま、失った時間を取り戻すように二人で歩き始めた。

 最初はぎこちなかった手の握り方が段々と自然になっていって、以前とは違うけれど今の私たちに最適なものに変わっていく。


 手を繋いでいれば自然と歩調が合って、それに伴って会話も増えていく。

 二年という時は、長かった。


 実來さんとの思い出を何回も掘り起こしては握りしめて、眠れない夜を過ごして。十センチ以上伸びた身長とか、少し長くなった足とか、成長した体つきとか。そういうものが、時の積み重ねを表している。


 でもその時間が一瞬でなくなってしまったみたいに、急速に私たちは元の距離感を取り戻し始めた。


 観光地を巡りながら笑い合って、手を引き合って。

 どれだけ離れていても、私たちはやっぱり、私たちだった。


 私たちは二人でいたら、どんな時だって楽しく過ごせるものなのかもしれない。


「意外とここ、冬でも人いるもんだね」


 手を繋ぎながら、以前来たことがある鐘の前まで歩いてくる。

 十二月の休日。カップルと思しき人たちが鐘の前に何人かいるのが見える。私は実來さんに手を引かれるままに、鐘の前まで歩いた。


「やっぱ、撤去されてるかぁ」


 以前私が南京錠をつけた場所を見てみるけれど、そこには他の人の南京錠しかついていなかった。


 私と実來さんの名前が書かれた南京錠は、もうここにない。

 あの頃永遠の愛が欲しいと思って、その気持ちは未だこの胸にあるというのに。私は少しだけ、寂しい気持ちになった。


「もう一度、南京錠、つけますか?」

「ううん、やんない。永遠はあの頃誓ったから。あの頃は桃と恋人になるとか、考えてなかったけど。でも、きっと。鐘は叶えてくれるでしょ、永遠ってやつ」


 実來さんはそう言って、海のある方を見た。


「桃。今、飛べる?」


 何かを決心したような顔で、実來さんが聞いてくる。

 私は少し迷ってから、小さく頷いた。


「はい。飛べます。……行きますか?」

「お願い。久しぶりに、桃と一緒に空を飛びたい」


 悪魔としての力も、使い過ぎれば寿命を縮ませる。だけど、少しなら問題はない。実來さんからもらった恋は想像以上に大きいもので、それだけで後数十年は生きられるようなものだった。


 爽やかで、ほんのりと酸っぱくて、甘い。それが実來さんの恋の味だった。あの味を、私は今も覚えている。


 私は久しぶりに、翼と尻尾を出現させた。

 周りの目を逸らして、実來さんを横抱きにする。その体に尻尾を巻き付けて、ゆっくり翼を動かし始めると、不意に実來さんと視線がぶつかった。


 実來さんは穏やかな顔で私を見ている。

 これから高いところに行くのに。

 さっきの言葉は、本当だったんだと感じる。


 実來さんは、強がって嘘をつくことがある。でも、私への気持ちにはいつも嘘がないように思えた。

 実來さんのことを、信じたい。

 私はそっと、空に飛び立った。

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