あなたと出会えたから①
家の鍵が開く音がした。
時々来るお母さんの開け方、じゃない。もっと乱暴で、思い切りがいい感じだ。
まさかと思って、そんなはずないと首を振る。
でも、リビングに歩いてきた人はやっぱり私が思っていた通りの人で、思わず立ち上がる。
立ち上がる、けれど。
私は何をすればいいんだろう。何をしていいんだろう。
固まっていると、その人は私の胸に飛び込んでくる。
椅子を巻き込んで、私たちは床に転がった。前よりも力はずっと上がっているのに、受け止めきれなかった。
「桃だぁ」
彼女……実來さんは、私に頬擦りをしてくる。
お酒臭い。
実來さんはまだ二十歳じゃないはずだけれど、飲んでいるらしい。
「実來さん?」
「ももぉ。おひさー」
呂律が回っていない。実來さんは私にぎゅうぎゅう抱きつきながら、猫みたいにすりすりしてくるから、顔が熱くなってくる。
実來さんだ。
ずっと会いたくなくて、でも会いたくて、どうしようもなく大好きな、私の元恋人。実來さんがここにいるってだけで、心がふわりと浮き上がる。
なんでここにいるのかとか、今までのこととか、全部がどうでもよくなってくる。
でも。恋が見えなくなってしまった実來さんに触れるのは怖くて、私から手を伸ばすことはできない。
「やっと会えたぁ。全然会ってくれないし会わせてくれないんだもん。寂しかった」
私も寂しかった、と言えればよかったのだろうか。
この二年間、ずっと実來さんのことを好きでいたのに、いざこうして顔を合わせたら彼女の好意を信じられない自分に愕然とする。
恋が視認できないだけで、こんなにも不安になる。好きな人の言葉すら、信用できなくなる。
私は二年前からずっと、弱いままだ。
「生桃だー。やらかいなー」
「なんですか、生桃って」
くすりと笑うと、実來さんはへにゃっと笑った。
「思い出の中の桃じゃない。現実で触れる。話せる。そういう桃」
思いがけないほどしっかりした声で言うものだから、心臓の鼓動が速くなる。
「名前を呼んだら、返事してくれる。それだけで……」
実來さんは私の頬に触れて、そのまま……目を閉じて、眠ってしまった。
すうすう寝息を立てながら眠る実來さんの表情は、二年前と変わっていない。でも、服の趣味とか化粧はちょっと変わったかもしれない。前より派手になった気がする。
私は実來さんを抱き抱えて、部屋のベッドまで運ぶ。
胸が規則正しく上下していて、ぐっすり眠っているのがわかる。私は実來さんの首に何かがかかっているのに気がついた。
ペンダント、だろうか。
チェーンを引っ張ってみると、鍵がくっついているのが見えた。どこかで見たことのある鍵だ。
少し考えて、その鍵が以前二人で買った南京錠のものだということを思い出す。
実來さんが私との思い出を肌身離さず身につけている。そう思うだけで、胸が高鳴る。
「……実來さん」
私はそっと、実來さんの服に手をかけた。
明日二日酔いになったらかわいそうだから、力を使って治癒力を上げないといけない。自分に言い聞かせるようにそう思いながら、以前よりも構造が複雑になっているらしい服を脱がしていく。
以前、私は実來さんの制服を脱がした。あの時高校生だった実來さんはもう大学生になっていて、制服なんて着なくなっている。
なんだか実來さんが遠くに行ってしまったような気がして、寂しい気持ちになる。
私はあれから、少しでも成長したんだろうか。
そう思いながら、自分の服を脱ぐ。
明るい部屋で裸になっていると、何か悪いことをしている気分になってくる。実來さんは裸で、私も裸。
これから何かが始まりそうな感じではあるけれど、別に、何も始まらない。始めるつもりも、ない。
「大好きなのに。信じられないのは、私が最低だからで……。でも、もう。離れるのは嫌です」
ベッドに眠る実來さんの胸に、そっと耳を当てる。
心臓の音がした。
人の心臓の音を聞くと安心すると、前にどこかで見たことがある。でも、それって赤ちゃんが母親の心臓の音を聞くと落ち着く、とかそういう話だったような。
私は赤ちゃんではないし、実來さんは母親じゃない。
それでも、落ち着く。
私は力を使って、少しずつ実來さんの治癒力を上げていく。
あまり力を多用すると寿命が縮むから、気をつけなければならない。
私は実來さんの恋をもらったおかげで生きられているのだ。それを忘れてはならないと思う。
「好き。好きです、実來さん」
二年経っても、気持ちは変わらない。
恋魔としての責務を理由にして実來さんから逃げていたけれど、こうして会ったらやっぱり気持ちが止まらなくなった。
結局私は、恋魔らしくは生きられなかった。他の人の恋を食べることはできない。人に恋するというのは辛いけれど素晴らしいことで、他者からそれを奪うなんて、私には無理だった。
お母さんには恋魔失格だと言われたけれど、その通りだと思う。
実來さんの恋を食べたのが、最初で最後だ。
私は人間にはなれないけれど、悪魔にもなりきれない。
実來さんと離れ離れになりたくはないが、実來さんの気持ちを信じることができない。見えていた恋が見えなくなったことが、ひどく恐ろしかった。
実來さんはあったかい人だから。私が気に病んでいると思って、前みたいな態度を演じてくれているだけかもしれない。
恋がなくなった後に、本当に愛が残っているのかもわからない。
わからないから不安になって、信じられなくて、それでも一緒にいたくて。
わがままな気持ちは膨らむばかりで、このままだとどうにかなってしまいそうだった。
でも、今は。
今は実來さんのことを感じていたくて、胸に強く耳を押し付ける。これは治療のためだと言い聞かせて。
鼓動の音は、前に感じた時と一切変わっていなかった。
「おはよう、桃」
朝起きると、実來さんの顔がすぐそばにあった。実來さんは二年ぶりなのに、昨日も一昨日もずっと会ってきたみたいに前と変わらない態度だった。
私がそれに安堵していると、実來さんの顔が近づいてくる。
キスされる。そう思った私は咄嗟に顔を逸らしてしまった。もし実來さんが私に気を遣って、以前のように接そうとしてくれているとしたら。
嫌だ、と思う。
でも、恋も何もかも無くなった実來さんと友達に戻るのも嫌だ。
あれも嫌、これも嫌だと言っていたら、私は何にもなれないしどこにもいけないと思う。
実來さんとまた恋人になりたい。
なりたいけれど、実來さんの気持ちが信じられない。本当に私のことが好きなのか見えないと不安で、どうすれば信じられるのかもわからない。
「……桃。私の治癒力、上げてくれてたの?」
実來さんは何もなかったように聞いてくる。
それに安心して、でも、強引にキスして欲しいなんて気持ちもあって。
わがままで、どうしようもない。
「はい。二日酔いは、辛いと聞くので」
「そか、そか。ありがと。桃は優しいね」
優しく頭を撫でられていると、二年前のことが今日のことのように思い出せるようになる。
あの頃はいつもこうやって二人で触れ合っていた。
今の私は理由をつけないと自分から実來さんに触れられなくなっている。触りたくて、キスしたくて、好きって言いたくて。
なのに何もできない。
実來さんはそのまま、私のことをそっと抱きしめてくる。その柔らかさで頭がくらくらして、ふわりと心に安心感が広がる。
私は抱きしめられるままに、彼女の胸の中に収まった。
「少しだけ、こうしていてもいい?」
小さく頷く。
実來さんは私のことを抱きしめながら、背中を撫でてくる。
裸で触れ合っていると、感情がよくわかる気がする。実來さんは確かに私に愛おしさのようなものを向けてくれている。私の気持ちは、伝わっているのだろうか。
「色々言いたいことはあるけどさ。まずは。……本当に、久しぶり。また会えてよかった」
「私、も。……会いたかった、です」
「うん。桃、ちょっとおっきくなったね。それに、前よりもっと柔らかくなった」
「実來さんは、変わりません」
「そうね。成長期じゃないから。一センチだけ、身長伸びたけど。……心も、変わってないよ」
ずっと聞きたいと願ってきた実來さんの声が鼓膜を震わせる。
それだけで止まっていた心が動き出す。
実來さんがこうして私に囁いてくれているという事実だけで、鼓動がこの二年間で一番速くなる。
「好きだよ、桃。ずっと、変わらない。これからはもう離れたくない」
「……ごめんなさい」
私も離れたくない。
でも、実來さんの感情を信じられない状態で、私も好きだと言うことはできなかった。
「やっぱり、信じられない? 私のこと」
「ごめん、なさい」
「謝らなくていいよ。絶対、信じさせてみせる。私が桃のこと、本気で愛してるってこと」
実來さんは力強い声でそう言って、私をぎゅっと抱きしめてきた。
鼓動を感じる。
匂いも、温もりも。変わらない彼女の感触は何よりも心地良くて、心がずんと重くなって、ふわりと浮かび上がる。
相反する感情でおかしくなりそうだったけれど、それが嫌じゃないのは、やっぱり実來さんがここにいてくれているからだ。
実來さんはそのまましばらく、私を抱きしめていた。
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