○○をたべるあくま③

 肌寒さで、目が覚めた。

 体が揺れている。目の前には実來さんの髪があって、自分が背負われているんだとわかった。


「……実來さん」

「おはよ、桃」


 気付けば空は真っ暗になっていた。周りには光でできた木みたいなものがたくさんあって、ここのイルミネーションを見に行きたいね、なんて二人で話していたことを思い出す。


「歩ける?」

「……もう少しだけ、このままで」

「了解」


 光のツリーが並んだ道を、実來さんはゆっくり歩いていく。くっついた体が温かくて、気持ちいい。


 吹く風は冷たいのに、実來さんの体はいつだってあったかかった。前に裸で抱き合ったことを思い出す。あの時が一番あったかかった。できることならもう一度、ああやって抱き合いたいと思う。


 実來さんの背中から見る景色はいつもと高さが違うから、新鮮だった。

 同じ視点でものが見られるのは、幸せなことだ。私は実來さんと同じくらいの身長になる前には死んでしまうから、人生の前借りをしたみたいで、ちょっと楽しく思う。


 光の道を抜けると、広場があった。

 そこには大きなシャンデリアが設置されていて、かなりの人が写真を撮っている。


「綺麗だね」


 実來さんが言う。

 その顔が見られないのが少し、残念だった。

 でも、きっと。実來さんの方がずっと綺麗なんだと思う。


「はい、とっても。今日は、二人で来られてよかったです」


 大好きな実來さんの体温を感じながら、綺麗なイルミネーションを見る。

 こんなことができる日が来るなんて、思っていなかった。


 実來さんと出会ってから私の世界は暖かさで満ちて、暑くて熱くて溶けてしまいそうなくらい。


 実來さんの存在が私の中で溶けて、もう実來さんがいないと生きられなくなっている。私の世界には実來さんがいて、実來さんの世界には私がいる。それが一番幸せだって思う。


「桃」


 名前を呼ばれる。

 その度に私は、心がぎゅっと締め付けられて、綿毛みたいにふわりと色んな気持ちが溢れ出す。


 口から言葉を出さなくたって、壊れたみたいに心が好きだって叫ぶから、大好きだって気持ちがどこまでも止まらなくなる。


 ……好き。

 心に二文字浮かべるだけでどうしようもなく幸せだから、自分でもちょっとおかしくなってしまう。


「私、桃に出会えてよかった」


 静かな声だった。私も前、同じことを言った記憶がある。

 私の声は、今の実來さんと同じだっただろうか。


 実來さんの声を聞いているだけで、私が変わっていく。世界が色めいて、輝いて、生き生きしていく。


「最初はほんと、なんなのって感じだったけど。……前も言ったけど、桃には色々もらったから」


 冬の乾いた空気に、実來さんの言葉が乗る。

 そうして私の耳に、ふわりと舞い降りた。


「今まで私は、幸せだった。……本当は私ね。ずっと、他の誰でもない私を必要にして欲しいって思ってきたんだ」


 白い息が浮かんでは消えていく。

 辺りの人の幸せで楽しそうな声を受けて、私たちは静かに呼吸をする。


「でも、それってやっぱ、無理なんだろうなって思って。心に蓋をして、自分を殺して世界に溶け込もうって思ってきた」


 世界が遠ざかるような感じがする。

 実來さんと私だけが世界から切り離されて、他に何も見えなくなる。

 綺麗なイルミネーションすら、実來さんの言葉には敵わない気がした。


「でも、桃に実來さんって呼ばれる度に。桃が私を肯定してくれる度に。桃のことが、わかっていく度に。私が私になって、止まらなくなった」


 私の吐息と実來さんの白い吐息が、宙でうっすらと混ざる。


「今の私は、きっと。桃が見つけてくれた私だから。……だから、桃」


 そっと、地面に下ろされる。

 実來さんは私の方を振り向いた。

 その顔は、今まで見たことがないくらい優しくて、でも、子供を受け止めた時よりもずっと、ずっとずっと痛そうだった。


「私の恋を、食べて」

「……っ」


 なんで。

 なんで実來さんが、そのことを知ってるの。

 ありえない。でも、いや。私は、どうすれば。


「なん、で」

「プラムさんから聞いた。恋魔のこと。桃が今、どういう状態なのかも」


 お母さんの名前だ。

 お母さんが、実來さんに私のことを教えた?

 なんでそんなことを。

 いや、それよりも。


「いや、です」

「桃」

「いやです! 絶対にいや! 実來さんの恋を食べるくらいなら死にます!」

「桃」

「今が一番幸せなのに! 実來さんと一緒にいるのが一番幸せなのに! 奪わないでください!」

「……桃!」


 実來さんに抱きしめられた。

 優しく。でも、強く。


 涙が溢れてくる。最初は生きるために実來さんの恋を食べるつもりだったのに、今はもう、絶対に食べたくないと思っている。


 このまま死にたい。

 実來さんと恋人じゃなくなったら、生きていけない。


「愛と恋の違いって、なんだと思う?」

「そんなの、知らないです」

「私もわからない。でもね。私は桃に恋してるけど、愛してもいる。だから、きっと。恋を食べられても、桃のことは好きなままだと思う」

「そんなの、わかんないじゃないですか。もし恋を食べて、実來さんと別れることになったら。私、生きていけません」


 今の私は、完璧な状態だ。誰よりも大好きな実來さんと恋人で、好きと言い合えて。


 これから先この関係が崩れるようなことがあったら耐えられない。

 だから、完璧なまま死にたいと思う。

 今を壊してまで生きようとは思えない。


「保証する。何があっても、桃の傍にいるって」

「信じられないです」


 実來さんの言うことを、信じたい。

 でも。恋を食べて、実來さんの恋が見えなくなったら。私は何を信じて実來さんと一緒にいればいいんだろう。


 恋心が最初から見えていたから、私はある程度行動方針を決めることができた。それがなくなったら、実來さんの言葉を信じられるだろうか。


 実來さんのことなら、信じられるかもしれない。

 でも、信じられないかもしれない。

 わからないから、怖い。


 愛を知らないように、他者との深い関わりを避けてきた私は、ひどく臆病になっている。


「信じさせてみせる。好きなものは好きでいいって、桃が私に信じさせてくれたみたいに」


 実來さんの言葉は力強い。私の言葉とは正反対だ。


「私は、桃に死んでほしくない。桃には生きてほしい。たとえそれで、桃が辛い思いをするとしても」

「……実來さん」

「辛くなっても、私が支える。何があっても、好きって言い続ける。だから、お願い」


 実來さんのお願いは、聞きたい。

 でも、怖い。


 今まで見えていたものが見えなくなるのも、実來さんの中から恋が消えてしまうのも。恋が消えた後に愛が残るかどうかなんて、わからない。


 愛も恋も、私は実來さんから受け取った。実來さん以外の感情を知らないから、実際愛や恋がどんな性質で、どういうものなのか知らないのだ。

 恋がなくなった未来に、希望を持つことができない。


「やだ。やです。やだぁ……」

「……ごめん。でも、桃が死んだら私も、生きていけないから」

「そんなの、ズルです」


 涙が瞳の奥から溢れて止まらなくなる。

 私が死んだら、実來さんまで死んでしまうのなら。

 もう選べる選択肢なんて、一つしかない。


「……わかり、ました。食べ、ます」


 実來さんには死んでほしくない。

 私が死んだ後も覚えて欲しいと思ってはいるけれど、死んじゃうなんて絶対嫌だ。本当は、実來さんには私以外愛してほしくないし、私がいなくなった後に誰かと付き合うとか子供を作るとか考えただけで、おかしくなりそうだった。


 ……食べるしか、ない。

 実來さんのために。私のために。


「でも、最後に一つだけ、お願いを聞いてください」

「……なあに」


 実來さんの声は優しい。

 優しいから、痛い。


「キスしてください。好きって言いながら。愛を込めて」

「……わかった」


 一度、離れる。

 実來さんは私の頬に触れてから、髪を抱くようにして距離を近づけてくる。いつも通り実來さんの艶やかな唇が近づいてきて、私のそれと重なった。


 柔らかい。あったかい。潤った唇は私のものみたいにぴったり唇にくっついてきて、同化していく。


 少し離れては、またくっつく。私たちの吐息も唇も、全部が混ざり合って境目がわからなくなる。切り離せない一つになって、また別々の二つになって、何度も一つになる。


 その度に愛おしさが胸から溢れて、心臓がひどく小さくなったかと思うほどきゅっとなって、爆発したみたいに鼓動が早くなる。


「好き」


 実來さんの言葉で、溶ける。弾ける。浮かび上がる。

 私が鮮やかになって、煌めいていく。


「私も好き、です」


 悲しいけれど、嬉しい。

 やっぱり、誰よりも好きだ。離れたくない。離したくない。私はぎゅっと実來さんを抱き寄せて、何度もキスをした。


 残った力で周りの視線を逸らして、二人だけの世界に浸る。

 もう最後かもしれないから、一生覚えていられるように、抱きしめてはキスをする。


 冬の寒さとか、周りの明るさとか。

 全部どうでもいいくらいに自分たちの世界に没頭して、実來さんだけを求める。今この時得た感情だけでこれから先も生きていけるって言えるほど、私は強くない。けれど、きっとこの時のことを、永遠に忘れないと思う。


 私たちの世界は容易に崩れてしまうほどに脆く、弱く、何よりもあったかい。


「実來さん」

「なあに、桃」

「……ごめんなさい」

「……桃は、何も悪くないよ」


 私が悪魔じゃなかったら、ずっと一緒にいられたんだろうか。

 実來さんの心に触れたいと願いながら、私は結局ずっと臆病で、目視できる恋に甘えていただけなのだろう。


 恋なんて、心なんて、目には見えないのが普通で。

 そういう状態で育んだ恋や愛だったら、きっと信じられるはずなのに。


 大好きな人の感情を信じるのが難しいのは、私が悪魔の性質に頼りっぱなしだったせいだ。


 だから、私は。

 私は最低だ。

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