第26話

 最寄駅に着く頃には、大雪と言えるくらいに雪の勢いが強くなっていた。

 電車が止まらなかったことに感謝しながら、私は桃と一緒に改札を出る。すでに雪はそこそこ積もっていて、歩くとぎゅっぎゅと音が鳴った。


「実來さん。ちょっと、公園に寄ってもらってもいいですか?」

「ん、いいよ」


 暗黙のルールは雪に飲まれて消えていく。私たちはそのまま、手を繋いで公園へと歩いた。


 その途中。

 桃が不意に、足を滑らせた。私は咄嗟にその手を強く握るが、桃から返ってくる力は弱い。桃が私の表情を窺っているのが、その視線から伝わってくる。


 私は、多分。一瞬、ひどい顔をしそうになったと思う。

 だから意識して、いつものように笑ってみせた。


「ほら、桃。足元ちゃんと気ぃつけな。転んだら痛いぞ?」

「は、はい」


 桃が安堵の息を吐いたのを、私は見逃さなかった。その安堵はきっと、転ばずに済んだことに対するものではないのだろう。


 私たちは話す言葉を失って、でも手を離したいとは思わなくて。だからずっと口を閉ざしたまま、雪が視界を埋める中公園まで歩いた。


 公園にはすでにかなり雪が積もっている。いつの間にか風も強くなってきていて、気を抜けば桃の姿を見失ってしまいそうだった。


 桃の手を強く握りしめようとしてた時、彼女が私の傍を離れる。

 風が雪を運んでくる。私は思わず目を細めた。街灯に照らされた公園はいつもと同じように静かだったが、その静けさの意味が違うように感じられた。


 耳に痛い静寂だ。

 誰かの吐息のように聞こえる不気味な風の音すら、ありがたく思えてしまうほどに。


「実來さん!」


 風に混じって、桃の声がした。

 かと思えば、雪の玉が私の頭に直撃する。

 目を丸くしていると、雪の向こうで桃が笑う。


「雪合戦をしましょう!」


 私の了承を待たず、桃はいくつも雪玉を放ってくる。

 私はそれを体で受けながら、柔らかな雪を手で固めていく。


「明日やった方が、雪いっぱい積もってていいと思うんだけど!」


 雪玉を放る。桃はそれを避けて、雪を丸めた。


「時間は待ってくれませんよ! 明日積もってるって保証もありません!」

「そりゃそうだけどさ!」


 桃は焦っている。

 その焦りが、私の胸をちくちくと刺してきていて、胸を押さえたくなるくらいに痛い。


 桃は何に不安を抱いていて、何を恐れているのだろう。私に隠しているものは、なんなのだろう。


 言ってこないということは、恋人にすら隠したいことなのだ。それはわかっている。


 でも、私は彼女が隠した不安だとか恐怖の正体を知りたいし、拭ってあげたいと思っている。


 早くしないと手遅れになる気がするのに、触れたら雪みたいに溶けて消えてしまいそうな気がして、触れられない。

 でも、触れたい。

 触れたいからって心に伸ばした手に、気づいてほしい。


 気づいて、桃の方から言ってほしい。人の心の深いところに入るのは、難しいのだ。あっちから手招きしてくれないと、不安になる。


 それは、桃も同じなのだろう。

 だから一時期、私に好きと言ってこなくなっていたのだ。


 私たちはお互いに臆病だから、心の表面を繋いで楽しむことはできても、深いところを繋げて一緒に悩んだり悲しんだりすることはできないのかもしれない。


 それでも、恋人なのだ。

 願うままに、望むままに、全てを教えてほしい。全てを受け止めたい。


「二人で雪合戦ってさぁ! 楽しいの?」

「楽しいです! 実來さんと一緒なら!」


 言葉と一緒に、私たちは雪の玉を互いの体に投げ合う。

 玉は体に当たったり、当たらなかったり。

 言葉もそうなのかもしれない。言葉は心に響いたり響かなかったりするけれど、発した言葉がどうやって受け止められたかを見ることはできない。


 雪の玉みたいに、当たったかどうかすぐにわかったらいいのに、と思う。

 心の形も、言葉が響いたかも、全部わかったら。

 きっと私たちは、もっと深く繋がれるのに。


「実來さん! 実來さんの時間を、私にください! まだまだ二人でしたこと、たくさんあります! 私は! 私は実來さんのことが、世界で一番大好きです!」


 雪の玉があらぬところに飛んでいく。

 当たりに行くことはできないから、私は桃に雪を投げる。

 空から落ちてくる雪の勢いは、強くなるばかりだ。


「私だって! 桃のこと、地球で一番好きだから!」


 子供か。

 自分でも馬鹿馬鹿しくなるようなことを、私は大声で叫ぶ。


 雪に閉ざされた世界には私たちしかいないから、大声を出したって桃以外の誰にも聞かれない。


 閉じた世界で雪をぶつけ合って、言葉もぶつけ合って。

 心がマグマみたいにどろりと溶けて、泡立って、よくわからないものになっていく。そこから生まれる感情がどんなものなのか、もう自分でもわからない。


 体は冷えていくばかりなのに、心はどこまでも熱くなっている。


「だったら私は、銀河です!」

「じゃあ私は全宇宙!」


 今時小学生だって、こんな子供っぽいことは言わないんじゃないかと思う。

 でも、私たちは真剣だった。


 馬鹿みたいで、子供っぽくて、人に笑われるようなことを、誰よりも真面目な顔をして言い合っている。


 きっと、桃と出会う前だったら、こんなことをしたって意味がないなんて斜に構えていただろう。

 桃と出会って、私は変わった。その変化を良いものだと、信じたい。


「時間だって、なんだって、全部あげる! だから桃の全部、私にちょうだい!」


 桃と私がどろどろに溶け合って、境界線がわからなくなるくらい、混ざった存在になってしまえばいい。


 痛みも苦しみも、二人のものにして。

 そうすれば、桃の心についてで悩むことなんてなくなるはずだ。


「それは! ……それは」


 ひょろひょろと宙に浮かんでいた雪玉が、音もなく地面に落ちる。そのまま積もった雪と同化した雪玉はもう、桃が投げたものだとはわからなくなっていた。


 私は白い息を吐いて、桃に雪を放った。

 寒さで体がやられているのか、私の雪玉も桃まで届かずに、途中で落ちて消えていく。


「ほしいです、私も。実來さんのことが。でも……」


 桃の声が、ひどく小さくなる。

 風の音にかき消されそうな声を拾うために彼女に近づくと、雪の玉が私の胸に当たった。


 何回外れて、何回当たったのか。

 そんなのもう、わからない。


「実來さん。私は今が一番幸せです。実來さんと好きって言い合えれば、他に何もいらない。このまま死んでも、いいってくらいに」


 私は雪玉を軽く放って、桃の頭に当てた。

 私の雪玉が当たったからって、桃は変わらない。

 わかっているのに、当たったことに少し安心してしまう。


「好き。好きなんです。大好き。この関係がなくなるくらいなら、死ぬ方がいい」

「ずっと一緒にいる。だから、関係がなくなるとか心配しなくていいって」


 桃は母親と同じように私がいなくなることを恐れているのだろうか。

 いや、違う。


 それだけでは、説明がつかない。桃の不安や恐怖は、彼女が最近妙によく眠っていることに何か関係があるはずだ。


 それに、桃の力が最近弱くなってきているのも、無関係ではないと思う。

 教えてほしい。私にできることなら、なんだってする。


 でも、もしかしたら。それを言ったら、私たちの関係は終わってしまうのだろうか。だからこんなにも怖がっている?


 だとしたら、私に何ができるのだろう。

 抱きしめたって、気休めにもならないと思う。でももう、抱きしめずにはいられない。心に触れられないなら、せめて体だけでも、彼女を暖めてあげたいと思う。


 雪で重くなった足が、桃に近づいていく。

 遠い。桃が、どこまでも遠い。


 雪の勢いが弱まって、閉じていた世界がひらけていく。桃の後ろに、歩道が見えた。この時間でも意外と人は歩いていて、傘を差して早足で歩いていく人々の姿がいくらか目に入ってくる。


 その中に、よく知っている少女たちの姿があった。

 何年か前にプレゼントしたお揃いの傘を差した二人の少女が、街を歩いていた。


 千珂と、紗夜。

 私の妹たちだ。こんな時間に小学生が何をしているのか。そう思っていると、不意に千珂と目が合った気がした。


「お姉ちゃん」


 彼女の口が、そう言っているように見える。

 目を細める。


 現実には、見たくないものが多すぎる。でも、生きている限りそこから逃げることはできないのだ。


 視線を逸らして、桃の方を見る。

 いない。

 さっきまで立っていたはずの桃の姿が見えない。


「桃?」


 慌てて辺りを見渡しても、桃の姿はない。慌ててさっきまで桃がいた場所に駆けていくと、彼女が倒れているのが見えた。


「桃! 桃! 大丈夫!?」


 倒れている桃を抱き抱える。

 静かに目を瞑った桃は、気絶しているというよりは眠っているようだった。


 こんなところでいきなり眠るなんて、普通じゃない。桃の体に一体何が起こっているのだろう。


 いや。そんなことを考えている場合ではない。

 救急車を呼ばないと。スマホを取り出そうとすると、腕に何かが巻き付いてきた。

 尻尾だ。見慣れた愛おしい尻尾が、私の腕を止めている。


「大丈夫、です。ちょっと、疲れちゃって。家まで、送ってくれませんか?」

「……桃」

「大丈夫。大丈夫なんです。だから、お願いします」


 うっすらと開いた目で見つめられると、嫌だとは言えない。

 私は桃をそのまま抱えて、彼女の家に向かった。

 気づけば妹たちの姿はなくなっていた。

 幻だったのだろうか。


 わからない。でも、今は。

 今は桃を家に送らないと。

 私は早足になった。

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