第19話
お化け屋敷を一通り回った後、桃は遊び疲れたのか、眠ってしまった。最近は桃がこうして遊んでいる最中に眠ることが多くなった気がする。
それは彼女が私に無防備な姿を晒すことに慣れてきたためなのか、別に原因があるのか。わからなかったが、私は桃をおんぶして人気のない場所を探す。
文化祭当日の学校に静かな場所があるわけもなく、私は近くの公園まで足を運んだ。体育祭の時にも使われる広い公園は、人気がほとんどない。私はベンチに座って、自分の膝に桃を寝かせた。
こうして改めて見ると、桃の寝顔は天使のようだった。
まだ幼さが残る端正な顔には穏やかな表情が浮かんでいて、思わず頭を撫でる。
「ん……お母、さん……」
私はゆっくりと頭を撫でいく。
桃にもやはり、お母さんはいるらしい。でも、前に桃の家に一晩泊まった時、家族の気配はしなかった。
愛を知っちゃいけないと、前に桃は言った。
未だに私は、あれがどういう意味だったのかわからずにいる。
家族が家にいなくて、愛を知っちゃいけないって、桃の家庭環境は一体どうなっているのだろう。私だって、両親には愛されていないけれど。しかし、私の置かれている環境は、桃のそれに比べればまだマシ、なのかもしれない。
こういうのって、比べるものではないけれど。
親に愛情を教えられないと、誰かを愛するのも一苦労だと思う。最初に無償の愛を知らなければ、条件付きの愛すら抱くことはできない。そんな風に思うのは、私が親からの愛を受け取ったことがないせいなのだろう。
甘いというか、子供というか。
桃を撫でる。
桃と一緒にいる時に生まれるこの感情は、なんなんだろう。
私だって、愛がどういうものかはわからない。妹たちには懐かれていて、仲も良かったけれど、あの時抱いていたものは愛だったのか。
何が愛で、何が恋?
それもわからないけれど、私は桃に恋するという契約を結んだ。だからいつかは桃に恋することになって、それで。
その後は、どうなるんだろう。
付き合う、とか。
年下で、しかも同性の桃と?
想像できない。でも、桃と一緒にいて、好きだと言い合うのは、決して嫌じゃない。しかし、付き合うとなると、キスとかもするってことで。
「お母さん、行かないで……」
安らかな表情から一転して、桃は悪夢にうなされているようだった。
撫でても彼女の表情は変わらない。
私はそっと、桃の前髪を上げた。
相手に恋できるかどうかは、首から上に唇をつけられるかどうかで決まるんじゃないか、なんて少し思う。
指を舐めるくらいは妹にもしていて。でも、妹にキスをしたことはない。どこでもいいが、首から上。顔のどこかにキスを落とせれば、付き合えるってことなんじゃないだろうか。
それって、子供っぽい考えかな。
「桃」
彼女の額に顔を近づける。
「私は、桃のお母さんじゃないけど。……どこにも行かない。桃が望むなら」
眠っている桃に、言葉が届いたかどうかはわからない。
だから私は、彼女の額にそっと口づけをした。
特に、感慨はなかった。やっぱりキスは唇にしないと意味がないのかもしれない。でも、何も思わないってことは不快感もないということで。
自然にキスをできるってことは、付き合うことだって、できるってことなのではないか。そんなことを思っていると、桃の目がゆっくりと開いていく。
「あ、れ。実來、さん?」
私は彼女の額から顔を離して、微笑みかけた。
「おはよう、桃」
「あれ? え? 今、のって。え? 実來さん?」
桃は顔を真っ赤にしている。青い瞳がぐるぐるしていて、そこに映る自分の姿がちょっと、いつもと違って見えた。
「悪夢、見てるみたいだったから。ちょっとしたおまじない。効いた?」
「それは、もう。はい。……私、変な寝言とか、言ってました?」
顔の熱が、徐々に引いていっている。私は桃の頭を撫でた。桃は目を細めながら、私を見上げている。
「……お母さんって、言ってた」
人の深いところを知りたくない。自分の深いところに触れさせたくない。その思いは、今もある程度胸にある。でも、桃のことをもっと知りたいと願っている自分もいる。それは、契約をしているから、ではない。
桃だけが特別で、桃のことを誰よりも知りたい。
そういうわけじゃ、ないと思う。
それでも桃のことを求めているのは確かで、心の奥底に、指先だけでも触れさせたいと思っているのもまた確かだった。
桃の心に触れられるのなら。自分の心に触れてもらっても、いいと思う。桃に比べたら、きっと大した心じゃないと思うけれど。
「そう、ですか」
桃はそう言って、目を瞑った。
「手、握ってくれませんか?」
桃の手が、そろそろと私の顔に伸びてくる。
私は指を絡めるようにして、その手を握った。
その手の熱さは、いつだって変わらない。最初に繋いだ時も、同じだった。でも、込められている力の大きさは前よりももっと、ずっと自然になっている。
私たちは少しずつ変わっていって、互いに互いの心を、体を同調させていっている。私と桃を隔てる境界線がどんどん曖昧になっていて、繋がって、溶けていって、触れ合うことが自然になっていく。
「私、お母さんの顔って、ほとんど覚えていないんです」
「……え」
「何年前、でしょうか。私がずっとずっと小さい頃に、お母さんは出て行ってしまいました。それが私たちの掟だから」
掟という言葉に、悪魔を感じる。
人間の文化とはあまりにも違いすぎるから、私は何も言えなかった。
「私たちは恋しちゃいけない。愛を知っちゃいけない。そうじゃないと、駄目だから」
駄目って、何が駄目なんだろう。
疑問に思うが、桃の表情を見るに、聞いても答えてはくれないと思う。
本当は。桃は、どんな悪魔なんだろう。
ロリコンのエネルギーを吸う。そんな悪魔が実在するとして、愛や恋を知ってはならないなんて教えたりするだろうか。むしろ、愛や恋を知っている方がロリコンなんて量産できそうなものだが。
やはり、桃は別の種類の悪魔か何かで、だからこんなにも苦しそうにしているのかもしれない。
しかし、だとしても。私に何か、できることがあるのだろうか。
「ずっと私は一人で過ごしてきました。……愛を知っちゃ駄目だから、誰かに深く触れることなんて、できなくて」
桃のことを離さないように、ぎゅっと指に力を込める。
込めた分の力が、桃から帰ってくる。
桃は切なそうで、でも愛おしそうな表情で私を見ていた。
「……実來さん」
「うん」
「私、実來さんに触れたいです。お母さんがいなくなってしまった時みたいに、手を伸ばさずに後悔するのは、もう嫌なんです。だから……」
鈍色の空が、私たちを見下ろしている。
私は桃と両手を繋ぎながら、彼女と目を合わせた。
青い瞳が、私をじっと見つめている。私もそれに応えるように、彼女を見つめた。お互いの瞳に、お互いの姿だけが映し出されていく。
遠くで、雷の音がした。
「触りたい。触られたい。全部教えたい。全部知りたい。私は、もう。実來さんじゃないと、駄目だから」
辺りが白く光って、私は思わず目を瞑った。
雷の音は、少し苦手だ。
雷が何度も地上に落ちる度に、私は体を震わせた。そうしている間に桃の手が離れて、指が宙を掴む。
雷よりも。桃がいなくなってしまうのが怖くて、私は目を開けた。
その時一際大きな音を響かせて、雷が地面に落ちた。白い光が何度も瞬いて、目が眩む。
桃は私の前に立っていた。
どす黒い空の下で、黒い翼を広げて立つ桃の姿は、確かに悪魔然としているように見える。
でも、その尻尾は不安げにゆらゆらと揺れていて、悪魔だからって怖がるには、あまりにも弱々しい。
「これは、私のわがままです。本来実來さんは私みたいな悪魔とは関わらないで、平和に暮らすはずだった」
桃は空を仰ぐ。
いつの間にかすっかり暗くなった空から、ぽつぽつと雨が降り始めている。夏の雨とは違い、ひどく冷たくて、思わず身震いしてしまう。
次第に強くなる雨の中で、桃はそれでも私をじっと見つめている。
だから私も立ち上がって、桃と目線を合わせた。
「でも。もう私は、この気持ちを抑えてはおけない。実來さんと一緒にいたら、きっと溢れてしまう。だから。嫌なら、突き飛ばしてください」
いつも私の体に巻きついている尻尾は、今は寂しげに揺れるのみだった。
行く当ても、触れられるものも、どこにもないみたいな様子で揺れる尻尾を目で追っていると、桃が一歩私に近づいてくる。
青い瞳が、私に近づく。
私の瞳に映った桃が。
桃の瞳に映った私が。
重なった、気がした。
雨が世界の音を遠ざけて、私たちをあらゆる存在から孤立させていく。騒がしい雨の音が全ての音を飲み込んで、単一の響きとなって私たちの鼓膜を震わせる。
唇が触れた時、たった一つだけの音すら聞こえなくなって、私たちの世界に静寂が訪れた。
代わりに、雨の味がした。
いつも地面を叩くだけの雨が私たちの顔を伝って唇を濡らし、唇から舌に落ちていく。
何度も唇を合わせていると、雨が気にならなくなってくる。
ただひたすら、互いに貪るように唇をくっつけて、離して、また別の角度で繋いでいく。
気付けば桃の尻尾が私の全身に巻き付いていた。私はその尻尾をそっと撫でながら、桃がもう不安な顔をしなくて済むように、彼女の細い腰に腕を回した。
体温は、伝わってこない。それでもぎゅっと彼女を抱き寄せて、二人の唇が自然と離れようと動くまでずっと、体をくっつけ合う。
どちらからともなく唇が離れると、遠ざかっていた世界の音が再び耳を打ち始める。
ざあざあと降り注ぎ、ばちばちと弾けて、雨粒が一つの大きな液体になっていく音。それに混じって、雷鳴が辺りを震わせた。
「桃」
「実來さん」
桃の瞳は、どろりと溶けている。
私の瞳もきっと、そうだ。どうしようもなく色んなものが溢れて、溶けて、視線を交わすだけでそれが混ざってしまう。
桃の感情と、私の感情。
混ざって、とろけて、後戻りができなくなる。
桃と離れて一人になった時の私は、きっと。今までの私ではなくなっている。そんな確信めいた予感があった。
「今日は、このまま全部、予定キャンセルしちゃおっか」
「いいんですか? 文化祭も、出欠とかあるんじゃ……」
「いいよ。私も多分、桃じゃないと駄目だから」
「……ごめんなさい」
「ん、何が」
「私、きっと。もう止まれませんから」
「あはは、いいって。私も、うん。きっと、そうだから」
桃は私をいつものように横抱きにして、そのまま羽ばたき始めた。
勢いよく降る雨を退けて進む桃の姿は、いつも以上に力強かった。
だからなんだってわけじゃ、ないけれど。
この体を預けてもいいかなんて。ちょっと、思った。
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