第18話

 学校というものは閉じた世界だ。

 大人の世界とはまた違ったルールが敷かれていて、それに従わないものは排斥される。ひどく狭くて苦しい世界で日々私たちは喘ぐように、必死に生きている——のだが。


 今日はそんな世界が外部に開かれ、賑わう日だった。

 文化祭。生徒たちはにわかに色めき、はしゃぎ、外部との接触を恐れなくなる。


 そんな騒がしい日の午後、私は学校近くのファミレスで時間を潰していた。


 スマホをいじりながら、安いポテトをつまむ。

 桃と出会ってから四ヶ月。最近はすっかりネイルをつけることも無くなっていて、気遣わなくていい反面少し物足りないような気がしている。

 ネイルよりも大事なものがあるから、別にいいんだけど。


「実來さん。おはようございます」

「……ん。おはよ」


 いつの間にか来ていたらしい桃が隣に座ってくる。見れば、桃は珍しく制服を着ていた。どこの制服かはわからないが、セーラー服ではなくブレザーというのがちょっと桃らしいと思う。


 九月下旬にしては寒い日だから少しテンションが下がっていたが、桃の新鮮な姿を見られたから、むしろ得したかもしれない。


 自分の学校で文化祭がある私はともかく、なんで桃が休日に制服を着ているのかは、さておいて。


「制服、初めて見たけど。似合ってんね」

「あ、ありがとうございます。実來さんも、似合ってます」

「私のはいつも見てるでしょ。ま、あんがと」

「いつも似合ってるって思ってますから」


 私は桃の口にポテトを持っていった。

 桃は小さな口でポテトを少しずつ噛んでいき、最後には私の爪ごと口に含んだ。


 昔、牧場かどこかでヤギに餌をあげた時、こんな感じなったなぁとふと思い出す。


 あの時はすぐに手を引っ込めたから、ヤギがどんな温度だったのかは思い出せない。でも今は。手を引っ込めようと思えないから、桃の口の温度を強く感じる。


 熱いくらいで、柔らかくて、少し指を動かすと歯にぶつかる。

 軽く指の第一関節を噛まれると、体が微かに震えた。


 別に私たちは、いつもこんなことばかりしているわけではない。ただ、時々こういうことをしてもいい雰囲気になる時があって、今たまたまそれが訪れただけである。


 最初に桃の指を舐めたのは、私だけど。

 でも、桃と私は舐め方が違う。私はあの時桃を泣き止ませるために舐めたが、桃はどう考えても別の意図で私の指を舐めている。


 それは、まるで。

 愛撫でも、しているみたいな。


 こういうことを考えると、変に意識してしまって駄目だ。これは桃なりの愛情表現であって、変な意味なんてない。


「桃。思うんだけどさ」

「なんですか?」


 桃は私の指を口に含みながら声を出す。

 くすぐったいから、やめてほしいんだけど。


「最近結構力を使ってる気がするけど、大丈夫なの? まだ私ロリコンとか、なってないし。エネルギー枯渇したりとかさ」

「……大丈夫、です」


 桃は私の指を解放して言った。

 桃の唾液で濡れた指が、鈍く輝く。

 私は少し迷ってから、お絞りで手を拭いた。

 外でこういうことするのって、どうなんだろう。

 色々間違っている気がする。


「ちゃんと、考えてますから」


 桃はにこりと笑った。

 その笑顔を見ていると不安になるのは、なぜだろうと思う。


 桃は最近、スキンシップを求めることが増えた。それは単に私たちが以前よりも仲良くなったためではあるのだろうが、本当にそれだけなのかと、少し考えてしまう。


 何か、悪いことが起こったりしないだろうか。

 誰かに好意を向けて、関係の終わりと共にその好意が行き場をなくして胸が痛くなるのは、もう嫌だと思う。


 人との関係に期待を抱いて、それが砕けて、破片が胸に刺さって。そんなことを繰り返していたら、私はどうにかなってしまう。


 それでも、何も特別なことができないのなら。

 せめてこうして、穏やかに過ごしたいと思う。


「なら、いいけどさ。……どうする? 桃もなんか頼む? それとも、これ食ったら出る?」

「早めに出ましょう。今日は文化祭を思いっきり楽しみたいです!」

「ん、おけ。じゃ、さっさと片付けちゃうか」


 私たちはポテトを互いに食べさせ合いながら、いつものように世間話をして、笑い合った。


 触れ合っている間は不安も和らいで、私は普段と変わらない笑みを浮かべることができた。



「す、すごい活気ですね」


 校舎の中を歩きながら、桃は言う。

 校舎では数多くの生徒たちが呼び込みをしている。文化祭には人々を興奮させる効果があるのか、普段はそんなに騒がしくない生徒たちも今日はかなり騒がしい。


「そうね。桃も高校生になったらあんな感じでやるんだよ」

「……そうですね。私も、高校生になったら」


 桃はぼんやりと生徒たちを見つめていた。

 その青い瞳に浮かんでいる感情がなんなのか。わからないまま、寂しげに揺れている手を握った。


「実來さん? こんなところで手を繋いだら、周りの人に見られるんじゃ……」

「別に、いい。好きなものは好きでいいんでしょ」

「……はい! えへへ」


 桃は腕を私にくっつけて笑った。

 私は手を一度離して、腕を絡ませながら桃の手を握り直した。


 クラスメイトに見られたら何を思われるかは、わからないけれど。でも、今は桃とこうしていることの方が重要だと思う。


 私も、好きなものは好きなままでいいんだと信じたい。桃のおかげで、そう思うようになった。


 他者とのズレは面倒ごとを生むとわかってはいるけれど。

 それでも。桃との間にあるこの気持ちには、嘘をつきたくないと思った。


「あ、実來さん実來さん! あれってなんですか?」


 桃は暗幕で閉ざされた教室を指差した。

 見るからにお化け屋敷だ。暗くておどろおどろしくて、扉の前では全身に包帯を巻いた生徒が呼び込みをしている。


 お化け屋敷を選ぶクラスは多いから、そこら中にお化け生徒が立っている。まるで墓場にでも迷い込んだかのように。


 ベッタベタだけど、文化祭って感じするなぁ。

 まあでも、ああいうお化け屋敷っていうのはやっぱり学生クオリティだから、怖くはないのだ。桃は楽しんでくれるかもしれないけれど。


「お化け屋敷」

「それってどういうものなんですか?」

「まー、あれよ。学生がお化けに扮して人脅かすの。入ってみる?」

「入りましょう!」


 私たちはすぐ近くにある教室でやっているお化け屋敷に入る。

 中は和風といった感じに整えられていて、段ボールに襖っぽい絵が描かれている。


 うん。やっぱり学生クオリティだ。

 そう思いながら足を進めると、井戸らしきものが見えた。

 あー、はいはい。そういう感じね。


「ヴァアアアアァ」


 井戸から飛び出してきたのは髪の長い女——ではなく、顔面から目玉がこぼれ落ちそうになっている男だった。

 心臓が止まりそうになる。


「……!? ちょ、え」

「すごいですね。リアルです」


 戦慄する私をよそに、桃は感心したように言っている。

 え。怖くないの?


 正直私はめちゃくちゃ怖い。メイクのクオリティが高すぎて、マジで目玉が溢れているようにしか思えないし、声も怖いし。


 いや、段ボールのクオリティとお化けのクオリティがどう考えても合っていない。ありえない。


「さ、次に行きましょう!」


 桃はずんずん先に進んでいく。

 窓を叩くようなばんばんという音が響く。顔を上げると天井から吊るされた壊れた人形が目に入る。目を逸らしたら今度は口が裂けた女が姿を表して、金切り声を上げた。


 私は声にならない悲鳴をあげることしかできない。

 ありえないって。馬鹿じゃないの。こんなクオリティでやったら子供が泣くわ。私ですら泣きそうだし。


「実來さん、怖いなら手、強く握ってもいいですよ?」

「べっつにー。怖くないし? ぜんっぜん余裕よ」

「そうですか? なら、もっとお化け屋敷に行きましょう!」


 桃は教室から出た直後に、私の腕を引っ張って別のお化け屋敷に向かっていく。


「え、何? 気に入ったの、お化け屋敷」

「はい! すごくリアルで、面白いです!」

「ふ、ふーん……?」


 別にいいけど。桃が楽しいなら、別に。別に、これくらいどうってことないし。


 私は頬を引き攣らせながら、桃と一緒にお化け屋敷を巡った。どう考えてもこれは拷問の類だけれど、桃のために我慢する。


 今日は桃を楽しませるために文化祭に誘ったのだから、私は我慢するべきなのだと思う。


 いや、しかし。

 今まで気づかなかったけれど、私はこういう怖い奴が嫌いらしい。嫌いというよりは、大っ嫌いだ。


 でも桃はホラー的なのが大好きなのか、目をキラキラさせてお化け屋敷を巡っていた。


 そんな顔でお化け屋敷行く?

 ちょっとだけ、そう思う。もしかすると桃が悪魔だから平気なのかと思ったけれど、多分関係ないんだろう。


 桃の好きなものが見つかって、よかった。私も大嫌いなものを見つけて、ちょっと新鮮な気分だ。決していい気分ではないけれど。

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