第20話

「すげーびしょびしょになったねー。帰るまでに乾くかな」

「後で乾燥機にかけておきますね」

「あー、うん。よろしく。……この服って、どうしたの?」

「実來さんのサイズが分からなかったので、色んなサイズを片っ端から買いました」

「わお。大富豪じゃん」


 桃の家に来るのは、これで二度目になる。

 一度目の時は着てきた制服をそのまま着ることになったが、今回は、桃の家にある服を着ている。


 着心地が良くて、抵抗がないというか、何も着ていないみたいな感じ。下着がないのが少し落ち着かないけれど、まあ、今更だろう。


「桃ってさ。いつからここに住んでんの?」

「あんまり、覚えてないです。小さい頃に色々力で誤魔化して、ここに決めたことはちょっとだけ覚えてますけど」

「そっか」


 私たちはベッドに座りながら、肩を並べて話をしていた。

 自然と肩がくっついて、頭が寄っていく。さらりとした感触の髪が、鎖骨の辺りにかかってくすぐったくなる。


 今日は忙しく動いていた狭い世界とは比べ物にならないほど、この部屋は静かでほとんど動きがない。時間がゆっくりと流れていて、心がとろりと溶けてしまいそうな、そんな感じがする。


「桃の翼と尻尾っていつも服着てる状態で生やしてるけどさ。破けたりしないの?」

「してますよ。でも、恥ずかしいので……力を使って見られないように誤魔化してます」

「ふーん……それ、見せてもらってもいい?」

「え?」

「穴、空いてるの。私も見たことないし」


 さっきのは、ファーストキスだった。それになんの意味があったのかはわからないけれど、心が妙にふわふわしていて、いつもは言わないようなことを言えるようになってしまっている。


「駄目ならいいけど」

「駄目じゃ、ないです」


 桃は微かに顔を赤くしてから、翼と尻尾を生やした。回り込んでみると、肩甲骨の辺りとお尻の少し上に穴が開いているのがわかった。


 私は桃の翼にそっと触れた。骨張っているけれど、適度な弾力がある。ほのかにあったかくて、触っているとちょっと気持ちいい。桃の上半身くらいなら完全に包めそうな大きさだけれど、だからって人型の生物が空を飛べるのだろうか。


 物理法則が無視されている気がする。

 いや、そもそも悪魔の力で人の意識を逸らすっていうのがこの世の法則を無視してるんだけど。


 私は骨に沿うようにして指を動かして、翼の付け根に触れる。

 桃はびくんと体を撥ねさせた。


「くすぐったい、です」

「ごめんごめん。でも大きいよね、桃の翼。黒くて、ちょっと透き通ってて。かっこいいかも」


 翼は肩甲骨と融合しているみたいな見た目だった。桃の白い肌が段々と翼の黒と混ざって、付け根の辺りはグラデーションが綺麗だ。私はそこにそっと指を這わせて、感触の違いを楽しんだ。


 翼は少しざらりとしていて、桃の人間らしい肩甲骨の部分は、さらさらしている。骨の硬さもやっぱり翼とその他の部分では違っていて、一粒で二度美味しいというか、一人で二度楽しいというか、そんな感じだった。


 なんだろう。

 こうして穴が開いた場所から翼が生えているのを見ると。

 ちょっと、えっちかもとか、そんなことを思う。


「実來、さん……」


 熱のこもった声が聞こえる。

 翼を触られるとそういう気分になるか、あんのかな。


 私は背骨をなぞるように指を下に滑らせる。お尻のちょっと上辺りで、尻尾にぶつかった。


 ぬるいくらいの温度で、掃除機のコードみたいに伸縮する不思議な尻尾。最近はいつもこの尻尾を体に巻かれているけれど、改めて触ると不思議な感動がある。


 尻尾に触れられるのと自分で触るのでは、やっぱり抱く感情も変わるものらしい。


「尻尾はつるつるしてる。いつもこの尻尾が抱きしめてくれてるから、空飛んでてもちょっとだけ安心なんだよなー」


 自分が高所恐怖症だと気づいたのは桃のせいだけれど、桃の尻尾には何かとお世話になっている。


 そう考えるとこの長くてつるつるしたしっぽにも愛着とか感謝の気持ちが湧いてくる。私はそっと彼女の尻尾を手に取って、キスをしてみせた。


 桃が何をされているかわかるように、わざとちゅっと音を立てる。桃は分かりやすく体を跳ねさせて、顔を真っ赤にしていた。


 可愛い、と思う。

 あんまり考えないようにしていたけれど。私は最近いつも、桃に愛おしさを抱いている。今だって、もっと色んな顔が見たいって思ってしまうくらいに、私は桃に感情を寄せている。


 駄目だ。

 一度桃と共鳴してしまった心はもう、平静な状態を保つことができない。凪いでもいないし、ぐらぐら揺れたままだ。


「み、みみ実來さん!? 何してるんですか!?」

「んー? ほら、いつもこれで支えてもらったりしてるからさ。感謝の気持ちを伝えようと思って」


 尻尾がうねって、私の両腕に巻きつく。腕を動かせなくなると同時に、ベッドに押し倒された。


 桃の瞳はとろけている。

 純真無垢だと思っていた青い瞳にはどろりとした感情が満ちており、今にも私の体に滴り落ちてきそうだと思った。


 でも。

 そんな瞳を何より綺麗だと思ってしまうのは、多分私の心がかなり乱れているせいなのだろう。


 だから、仕方ない。

 私は笑った。


「なーに、桃」

「実來さんの、せいですからね」


 何が、とは聞かなかった。


「だったら、どうするの?」


 なんで私はこんなにも余裕で笑えているのだろう、と思う。こういうことをするのは初めてだし、私はロリコンでも同性愛者でもないし——。


 どうでもいいか、そんなこと。

 男とか、女とか。初めてとか、そうじゃないとか。考えたって無意味だし、今ここでしていることが全てだ。


 私は変わってしまっている桃の瞳を綺麗だと思って。今ここで、何をされてもいいだなんて、そんなことを思っている。そこに理由はつけられないけれど、あえてこうなった原因を考えるとしたら。


 多分、これまでの四ヶ月間の積み重ね、なんだろう。

 桃だけを見て、私だけに笑いかけられて。忘れようとしていた自分を曝け出して、桃の心を受け取った。


 そしたら自然と、こうなった。

 うん。

 自然だ。必然で、当たり前で、何もおかしくはない。

 全部、おかしいのかもしれないけれど。


 でも今はどうでもいい。今だけは、桃と私がこうしていることだけが世界の全てだ。


「こうします。実來さんが悪いんですよ。実來さんが……」


 桃は私に顔を近づけてくる。


「私を、受け入れてください」


 別に、そんなこと言わなくても拒まないのに。

 大丈夫だよと言われないと、やっぱり不安なんだろうか。

 私はにこりと笑った。


「いいよ、桃」

「……!」


 桃の瞳から、どろりと何かが溢れ出したように見えた。


「目、閉じないで。私を、見てください」

「見てるよ、ずっと」


 普通、こういう時は目を瞑るものな気がするけれど。

 でも、見てほしいならいい。


 私の知識もきっと、そんなに豊富なわけではないから。実際は、目を開けてするのが普通なのかもしれないし。


「実來さん。私、実來さんのことが、その……」


 私は桃を完全に受け入れる体制でいるのに、桃はあと一歩、何かが足りないみたいな様子で近づいてこない。


 桃は私の上に乗っかっているから抵抗できないし、するつもりもない。

 桃の心にある不安や恐怖は、どれだけのものなのだろう。さっきは勢いのままにキスしてきたのに、今できないのは、そういうもののせいなんだろうか。


「何も言わなくていい。無理に言ったら多分さ。傷ついて、壊れちゃうから」


 桃はかつて、好きなものに私を平然と挙げてきた。夏休みに海に行った時だって、大好きだと伝えてきていた。


 そして、今。彼女が言おうとしていたのは、そういう類の言葉だった、と思う。


 でも、彼女はそれを口にできない様子だった。

 なんでなのかは、わからない。単にあの頃と今で好きの種類が変わったせいなのか、それとも、そう言えなくなった理由が他にあるのか。


 わからないけれど、彼女の好きは伝わっている。

 だから言葉にしなくてもいいと思う。無理に言葉にして心が傷つくくらいなら。私がそれを読み取って、伝わっているんだよと安心させてあげる方がいい。


「もう何も言わなくてもいい。全部、わかってる……つもりだから。今だけは、何も考えなくていい。桃のしたいこと、しなよ」

「……実來さん」

「今日のことは全部、私のせい。年下をたぶらかす、悪いロリコンのせいってことで一つ、どうよ」


 桃は答えない。代わりに尻尾の力が緩んで、両手を動かせるようになった。


 だから私は、こんなにも短い距離を埋められずにいる桃の首に手を回して、私の方に抱き寄せた。


「おいで、桃」

「全部、実來さんのせいです」

「うん」

「実來さんが悪いんです」

「そうだね」

「……ごめん、なさい」


 桃の吐息が、首にぶつかる。

 首が湿って、桃の吐息が食い込むみたいに染みていって、私になっていく。


 桃はそのまま少しずつ、啄むように私の肌に赤い跡をつけていく。まるで、自分のものだと主張しているかのように。


 そうして段々と顔を上に近づけていって、ようやく私の唇まで辿り着く。

 随分と長い旅路だった。


 私は桃の唇を静かに受け入れた。約束通り、目は閉じない。ある種の狂気を孕んだ青い瞳が瞬くことなく私を見つめて、その瞳の中に閉じ込めていく。世界が変わっていくような感じがした。


 溶けているみたいに柔らかくて温かい唇が、私の唇に吸い付く。

 舌は、入ってこなかった。


 桃はずっと入り口で足踏みをして、扉をノックすらしない。私から扉を開いたら多分、逃げてしまうから。だから私は何も言わず、されるがままになった。


 キスだけで彼女の不安を全部取り除けたら、と思う。

 でも、その不安の正体すら掴めていない私は、全てを自分のせいにして彼女を受け入れることしかできそうになかった。


 桃は愛おしそうに、でもどこか苦しそうに、私の唇を貪っている。

 全部溶けてしまえばいいのに。


 いっそ私と桃の境界線が完全に崩れて、考えていることも見ているものも共有して、なんの不安もなく生きられたら、なんて。


 そう思うってことは、やっぱり。

 私はもう、どうしようもないほどに。

 桃のことが、好きなんだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る