第12話

 公園は広く、一周するのも一苦労だ。

 私たちは森みたいになった道を歩いたり、季節の花が咲いている花畑を見たりした。のどかと言えば聞こえはいいが、実際は何もない田舎らしい、刺激が少ない施設だと思う。


 それでも桃は楽しげに笑って歩いていた。

 だから私も釣られて笑い、なんでもない自然を楽しんだ。


 普段は騒がしいところにいることが多いから、これはこれで新鮮だ。思えば桃に出会ってから、騒がしいところだけでなく静かなところにもよく行くようになっている気がする。


 私は騒がしいところが好きだ。

 誰も私を見ていなくて、私という存在が一個の確立したものではなく、世界の一部のようになるから。


 世界に溶けて、痛みも苦しみも、自我すら全部なくなって、空気のように街を歩く感覚を私は何よりも愛していた。


 でも、こうして桃と手を繋いでいる間、私は世界の一部ではなく、星野実來に戻る。


 嫌なはずなのに、嫌じゃない気がする。

 私は一体、なんなのか。


「桃って、どこ行っても楽しそうにしてるよね」


 植物に囲まれた道を歩きながら、桃に声をかける。


「はい。これまであまり遠出をしたことがなかったので、どこも新鮮で楽しいです!」


 本当に、桃はどんな人生を送ってきたのか。

 ちゃんと0歳から時を刻んできたのか。それとも、生まれた時からこの姿なのか。


 中学生と言っていたから学校には通っているはずだが、友達とはどんな遊びをしているのか。


 色々気になるが、聞かない。

 人に深入りしようとする自分を止める機能は、まだ健在だ。


「でも、最近はそれだけじゃなくて」


 桃は私の手を大事そうに握る。

 私の手なんて、そんな大事にするものじゃないんだけど。

 そう言っても、多分無駄だと思う。


「きっと、ううん。絶対、実來さんが一緒だからです」

「ん? どゆこと」

「実來さんとだから、楽しいんです。こうやって手を繋いで、何気ない言葉を交わして、笑い合うことが。私にとっては、一番幸せなことだって……そう、気付いたんです」


 桃はそう言って笑いかけてくる。

 その笑みは年下の少女のものとは思えないくらい、成熟しているように見えた。


 私が桃に向けている笑顔は、桃にはどう見えているだろう。


「……そんなにいいもんじゃないと思うけどね、私との関係なんて」

「私にとっては、何より価値あるものです。……できれば、実來さんにもそう思ってほしいです」


 大袈裟な。

 私程度との関係がそんなに価値あるものならば。世の中の大半の人間との関係は、千金よりも価値があるということになる。


 桃はやはり、狭い世界しか知らないのだろう。

 井戸の中では、宝石もくすんだ石ころも同じ価値があるように見えてしまうのかもしれない。


「ま、あれだ。桃が癒してくれたら、私もそうなるかもね」

「が、頑張ります!」


 桃は少し緊張した面持ちで言ってから、ぴたりと足を止めた。

 視線が固定されて、動かなくなっている。何事かと思い、彼女の視線を追うと、地面に何かが落ちているのが見えた。


 目を凝らしてみると、それはスズメの死骸のようだった。

 翼が傷ついているのを見るに、どこかで怪我をして、そのまま力尽きてしまったのだろう。


 桃は駆け寄って、スズメの死骸を両手で持ち上げた。

 その表情は見えないが、背中がいつもよりも小さく見える。


 生きた命に触れるのすら初めてだった彼女は、消えた命に触れるのも初めてなのだろう。飼っていたカブトムシとかザリガニの死を何度も見てきたから、私は今更小さな生き物の死に動じたりはしない。


 少し哀れとは、思うけれど。


「冷たい、です」

「……そうね」

「硬くて、冷たい。これが、死ぬってことなんですか?」


 私の方を向いて、彼女は問う。その顔は死んでしまったスズメよりも凍りついているように見えた。さっきまでの笑顔が、嘘みたいだ。


 私が初めてカブトムシの死を目の当たりにした時は、どうだっただろう。幼すぎて、死という概念すらよくわかっていなかったはずだ。


 桃は今、何を思っているのだろう。その凍りついた顔には、どんな感情が秘められているのか。

 わからないが、私は彼女の頭に手を置いた。


「……どこかに埋めてあげよっか」


 虫の死骸くらいなら、田舎だから毎日見かける。セミだって毎年死んでいるし、その度に何かを思うなんてことはない。


 けれど桃が生き物の死を見て暗い顔をしているのは確かだ。

 なら、私にできることは多分、彼女と一緒にスズメをどこかに埋めてあげることくらいだろう。

 私は震える彼女の背中を摩った。


「はい。そうです、ね。そうしましょう」


 桃はぎこちなく笑って、消え入りそうな声を出した。

 私はそれ以上何も言わず、彼女の一歩前を歩き始めた。




 少し歩いたところに広い原っぱがあったのは幸運だった。私たちは原っぱの端にある巨木の下まで歩いた。


 桃はまだ暗い顔をしている。私は木の根っこの近くに爪を立てて、穴を掘り始めた。こんなことならネイルをオフしてくればよかったと思うが、今の桃の表情を前にしたら、爪が痛むことくらいどうでもよくなる。


 少し深めに穴を掘って、桃にスズメを入れるよう促す。

 桃はゆっくりと穴にスズメを置く。私はそこに土を被せて、上から軽く叩いた。


 そして、小さく手を合わせる。

 天国とか、地獄とか。スズメの世界にあるかわかんないけど。

 あるなら、まあ。

 天国に行けたらいいね、なんてことを思いながら。


「ごめんなさい」

「何が?」

「爪。私のせいで、汚しちゃって」

「……あのさ。埋葬してあげるのと、爪を守んの。どっちが大事かなんて、言うまでもないでしょ」

「……でも」

「桃のせいじゃない。埋めてあげようって言ったの、私でしょ。言い出しっぺがやんないでどうすんのよ」


 桃に手を伸ばして、やめる。

 流石に、頭を撫でるには手が汚れすぎてるよな、と思う。


 いや。そもそも自然に頭を撫でようとしている自分に驚きである。私も少し、今までとは変わってきてしまっているのかもしれない。


 いつか、この体が死を迎えるまで。

 変わらずにいられたらいいと、前まで願っていたはずだ。


 今も多分、変わらずそう願っているはずなのに。すでに私は、無意識のうちに桃の頭に手を伸ばしてしまう程度には、変わっている。


 ほんとは、駄目なのに。

 思い通りにいかない自分の心が、面倒臭い。


 私の心なんだから、私の言うこと聞けって。そんなこと思っても、しょうがないけど。


「きっと、天国に行けるよ。桃が見つけてあげたから」

「あのスズメが、天国に行けるとしたら。それは私じゃなくて、実來さんのおかげです」


 桃はそう言って、土まみれの私の手を握った。


「ありがとうございます、実來さん」

「どういたしまして」


 こう真正面からお礼を言われると、少し困る。

 スズメの代わりに、言っているんだろうか。それとも、穴を掘ったことに対するお礼なのか。


 わからなくても、桃の言葉は全部受け止めたいと思う。

 そんなことを思ってしまう私は、とっくの昔に桃に心を侵食されているのかもしれない。


 小さく息を吐いた時、頭上からガサガサという音が聞こえてきた。

 子供の悲鳴が聞こえる。


 木の上を見上げると、桃の方に子供が落ちてきているのが見えた。桃はまだ、それに気付いていない。


 咄嗟に桃を突き飛ばす。驚愕した瞳が、私を見ていた。そのまま子供を受け止めようとするが、無理な体制になってしまう。


 広げた両腕に子供が飛び込んできた時、枯れ枝が折れるような音が体に響いた、ような気がした。


 桃の耳かきで鼓膜をぶち破られそうになった時とは、違う。

 腰の辺りがひどく熱を持っていて、呼吸が詰まるのを感じた。


 痛いのかどうか、よくわからない。感覚が麻痺しているのか、痛みが遅れてやってこようとしているのか。


「あ……う……」


 地面に倒れ込むと、子供が怯えた様子で私を見ていた。仕方がないと思い、私は土のついた手で子供の頭を撫でた。


「木登り、するときは。バランスにちゃんと気、つけなさいよ」

「お姉ちゃん、大丈夫?」

「だーいじょうぶよ。私、鍛え方が違うから。でも、今日はもう木登りやめときな。また落ちたら危ないからさ」

「う、うん」


 子供は私から離れて、まだ木の上にいるらしい他の子供に声をかける。

 彼らは口々に礼を言いながら、走り去っていく。


 それを見送ってから、私は大きく息を吐いた。痛みが遅れてやってくる。心臓の鼓動に合わせて腰が痛み、脂汗が出た。


 一人だったら泣いていたかもしれないけれど、桃が私を見ているから、必死になって耐える。


 やばい。

 めっちゃくちゃに痛い。

 絶対骨折れてる。息すんのも辛いし。


「み、実來さん!」


 桃の声が遠い。意識が痛みに集まってしまって、桃の声がよく聞こえない。いつもならその一言一句、聞き逃さないのに。


 だから痛いのって、嫌いなんだ。

 咄嗟に体が動いたとか、馬鹿みたいだし。別に子供を助けたって一銭の得にもならないんだから、無視しときゃよかった。


 いや、でも。

 あの子供たちが怪我なく家に帰れたのなら。

 体を張った甲斐、あったのかな。


 うーん。でも痛い。いっそ殺してくれって思うくらいには。救急車とか、呼んでほしいかも。


「実來さん、実來さん! 実來さん!」


 体をゆすられる。

 ちょ、マジで勘弁して。人が痛がっているときは動かしたりしないようにしましょうって、保健の授業で習うじゃん。

 そう思いながらも、私は笑った。


「平気だから。大丈夫。んな、必死にならんでも……」


 段々眠くなってくる。

 私は目を瞑った。痛みが遠ざかって、それに伴って意識も遠くなっていく。


 このまま死ぬんだろうか。だとしたらろくでもない人生なんだけど。

 誰かが泣いている声が聞こえる。子供の泣き声って、すごく嫌だ。嫌いだ。泣かないでよとは、言えないけれど。


 せめて泣き声がする方に手を伸ばそうとしたけれど、届かない。そのまま私は、意識を手放した。

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