第13話

 死んだ後に行くのが天国か地獄か考えたことはなかったけれど、多分地獄だろうと思っていた。


 だから目を開けた時に普通の天井が広がっているのを見て、意外と地獄って安らかなんだな、なんて思った。


 ゆっくりと体を起こそうとするが、起きられない。

 あれ。


 何か温かいものが直接肌に触れていて、そのせいで起き上がることができないらしい。視線を下げると、桃が私に抱きついてきているのが見えた。

 ……全裸で。


「……え?」


 よくよく見れば、私も全裸だ。

 しかも全身に桃の尻尾が絡みついていて、そういう変態的なプレイでもしているみたいになっている。


 いやいやいやいやいや。

 私、そんな趣味ないし。

 え、何?

 これ桃の趣味?


 緊縛的な。いや、そんなわけないでしょ。いやいや、でも、縛られてるっていうか拘束されてるのは事実だし。いやいやいや、そうは言っても。


「ん……」


 桃はぐっすり寝ているらしく、私にぎゅっと抱きついたまま目を瞑っている。


 めっちゃ楽しそう。

 どんな夢を見ているんだろう。すごい笑っている。そういう顔を見ていると、起こすのが忍びなくなってくる。


「……はぁ。これだから子供って、ずるい」


 手だけは動くみたいだったから、そっと桃の頭を撫でる。柔らかな髪の感触。桃は幸せそうにむにゃむにゃ言いながら私に抱きついていた。


 可愛い、けどさ。

 状況とか色々、説明してほしいんだけど。


 爪は傷ついていないし、手に土もついていない。腰も痛くないし、さっきまでの全部夢だったのかってなる。でも、部屋の机に置かれている私のスクールバッグには、確かにあのペンギンがくっついている。


 うーん。

 そもそもここ、どこ?


「ふあ……ん……あ、れ?」


 ようやく目が覚めたらしく、桃はうっすらと目を開ける。


「あ、えっと。お、おはようございます」

「はいおはようございます」


 私がにこりと笑うと、桃は顔を真っ赤にした。


「ご、ごめんなさい!」


 メジャーを巻き取るみたいに、尻尾がしゅるしゅる私から離れていき、桃の体も離れていく。


 そこで気付いたけれど、私は桃の感触をごく自然に受け入れて、自分の体みたいに思っていたらしい。だから桃の体が離れると、少し物足りなくなる。


「それはいいんだけど、これどういう状況?」

「えっと、ですね。実來さんの怪我を治すために、私の力を使っていたんです」


 そういえばさっき、治癒力を上げることができるとか言ってたっけ。それで治したのか。すごいな、悪魔の力。


「早く治して差し上げたくてですね、裸にしたんです。あ、その、裸で密着した方が力を伝えやすいのがあって、あのあの、だからその、別に不埒な考えとか——」


 必死になっている桃を静めるために、ぎゅっと抱き寄せる。桃は少し体をビクッとさせたが、すぐに私のことを受け入れて、抱きしめ返してくる。


 生まれたままの姿で抱き合うと、胸と胸がくっついて、心臓の鼓動までもが同調していくような感じがする。


 どくん、どくん、どくん。


 桃の小さな胸から伝わってくる鼓動の速度は、私よりもずっと速い。その鼓動が私の鼓動と混ざり合って、ゆっくりといつもの調子を取り戻すまで、ずっと抱きしめている。


 跳ねるような調子から、ただ穏やかに生を感じさせる、ゆっくりとした調子へと。変わっていくのを感じながら、髪を指で梳かす。


 金糸のような髪は、指の通りがいいし、触り心地もいい。

 変なことをしているとか、裸で抱き合うのなんておかしいとか。抱き合っているとそんな考えがどこかに行ってしまう。


 目覚めるまでずっと抱き合っていたためか、私はすっかり裸で抱き合うのに慣れて、桃のあるがままを受け入れている。


 愛おしいと、思ってしまったら。

 もう戻れない気がするのに。

 そう、思ってしまう。


「落ち着いた?」

「……はい。でも。もう少しだけ、こうしていてもいいですか?」

「いいよ。治してくれたお礼って、ことで」


 理由がなくても抱き合えるはずなのに、私はわざわざ理由づけをしてみせた。それはやっぱり、私がまだ自分の感情に戸惑っていて、恐れているためなのかもしれない。


 桃の前にいる私は、もう。

 どうしようもなく、星野実來で。他の誰でもない。世界に溶け込んで無になっていた私ではなく、心の痛みを恐れていて、桃のことを愛しく思っている、確立した一個の存在である私だった。


 こんなんじゃ、駄目なのに。

 わかっているのに、桃とこうしていると、無になる方法を忘れてしまう。


 さらりとした肌の感触。肩にかかる金色の髪のくすぐったさ。首元を包む、桃の吐息。強い生命力を感じる熱さに、少女的な柔らかさ。


 そういうものがどうしようもなく心を穏やかにして、温かくして、私という存在を引き出してくる。


 変になりそう、というより。

 変になっている。


 気持ち良くて、離したくなくて、愛おしい。そんなことを思ってしまうくらい、一糸纏わない姿で抱き合うというのは、私にとって意味のある行為だった。


「生きてて、よかったです」

「うん。桃も、あの子たちも。無事でよかった」

「私、実來さんが死んじゃったらどうしようって。……本当は、実來さんより力がある私が受け止めないといけなかったのに。ごめんなさい。痛かったですよね。辛かったですよね」


 桃は泣きそうな声色で言う。

 せっかく抱きついて落ち着かせたのに、泣かれたら嫌だ。

 私は少し体を離して、彼女の瞳を見つめた。

 青い瞳からは、今にも雫が落ちそうになっている。


「あのさ。桃は確かに私より優れてるかもだけど、私の方がお姉ちゃんだから。痛いのとか強いし、そういうのは私に任せておけばいいって」


 私の言葉に、何を思ったのか。

 桃は泣きそうな顔から一転して、何かを決心したかのように、真剣な表情を浮かべた。


「嘘つき」

「……え」

「嘘、つかないでください。本当は、痛いの苦手じゃないですか」


 あれ。

 割と格好良く決めたつもりなんだけど。

 え。もしかして最初から、無理してんのバレバレだったの?


「我慢して、必死に耐えてるのくらい、わかります。私を、他の子を安心させるために、強がってるんだって、わかります。本当は辛いのに、自分を押し殺して、それで人にためにって」


 いや。やめてほしい。めちゃくちゃ恥ずかしいんだけど。

 でも、桃は言葉を止めない。


「立派だと思います。あったかい人だって、思います。でも、私には。私にだけは隠している素顔を、見せてほしい。本当を、教えてほしいんです」


 桃は私の瞳を見つめながら言う。

 いつだってその瞳は、まっすぐ私を見ている。


 青い瞳に、吸い込まれそうになる。体じゃなくて、心が。それだけの力が彼女の瞳にはあって。私の心も、彼女の瞳に吸い込まれそうなくらい、彼女に近づいているような気がして。

 境界線が、崩れる。


「痛いのを隠して笑わないでください。自分の気持ちに嘘をついて、痛そうな顔をしないでください。全部、教えてくれたら。私が受け止めます。癒してみせます」


 なんで、そこまで言うんだろうと思う。

 裸になっていることで、心に本来備わっているはずの、言っちゃいけない言葉を止める機能が働かなくなっているのかもしれない。


「実來さんのこと、癒したいです。契約だからじゃなくて、実來さんだから」


 私だからって、言われても。

 そこまで言われるほどのことを、した覚えはない。


 いや、しかし。ここまで言われているのに、それを無視することなんてできるはずがない。


「実來さんのこと、守りたいです。癒したいです。……お願い、します」

「私は、そんな言われるほどの人間じゃないって」

「私にとっては、そういう人間なんです。実來さんがどれだけ否定しても、実來さんのことが好きです」


 胸が痛くなる。それは決していい痛みではなく、骨折した時みたいに、心臓の音に合わせて訴えかけられる、苦しい痛みだ。


 誰かに好意を抱いても。

 私の喉は好きと伝える機能が完全に潰れているから、言葉にすることはできない。


「……わかった。できるだけ、隠さない。だから、ちゃんと癒してよ」

「はい!」


 桃は元気良く返事をして、私を押し倒してくる。

 ……ん?


「え。ちょっと、桃?」

「癒しといえば、マッサージです。まだ腰、完治したかわからないので、マッサージさせてください」

「いや、まあ、うん。いいっちゃいいんだけどさ。いきなりじゃない?」

「マッサージ自体は、ずっと勉強してきましたから。今日こそできる気がします」

「死にゃしないってわかってるけど、桃にマッサージされるの、怖いんだけど。え、ほんとに大丈夫?」

「お任せください!」


 桃は譲りそうにない。

 空気が完全に変わっている。こういう時、どんな顔をしていればいいんだろう。耳かきの時みたいにひどいことにならないといいんだけど。


 私は仕方なくうつ伏せになった。

 せめて下だけでも、履かせてくんないかな。


 そう思ったけれど、脚の上に乗られてしまったからもうどうしようもない。私は観念して、小さく息を吐いた。

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