第10話
手持ち無沙汰、とはこのことだった。
バイト先の店長が風邪を引いたとかで、バイトの時間がなくなり、私は暇を持て余していた。街の小さな喫茶店で働いていると、こういうことが時折あるのだ。
今更友達と合流するのも面倒臭いし、早い時間に家に帰るのはなしだ。
どうしたものかと考えていると、不意に桃のことが頭をよぎった。
彼女と出会ってから早一ヶ月。最近はなんとなく彼女と会うことも多くなり、連絡するのを躊躇うこともなくなった。
未だ私はそこまで彼女に癒やされていないし、ロリコンにもなっていない。悪魔がどれだけエネルギーを必要としているのかはわからないが、彼女は餓死したりとか、しないんだろうか。
そう思いながら、彼女に『今から会える?』とメッセージを送る。
十秒も経たずに『行けます! どこに行けばいいですか?』と返ってくる。
毎度毎度のことだけど、早すぎでしょ。
私は苦笑しながら、今自分がいる辺りの情報を彼女に送った。
待つこと十分。遠くから翼の音が聞こえてくる。空を見上げると、翼を広げた桃の姿が見えた。自由に空を飛んでいると、彼女もちょっと悪魔っぽく見える。
悪魔っぽさとか、よくわからんけど。
「お待たせしました、実來さん!」
「んなお待ちしてないけど、おはよ、桃」
時間的にはこんにちはだが、今日初めて会ったからおはようと挨拶する。桃は地上に降り立って、私にひしと抱きついてきた。
それを受け止めて、抱きしめ返す。最近桃と会うときは、いつもこうだ。相変わらずどっちが癒やされているんだかよくわからないが、桃を抱き締めていると少しは心が癒やされるのも確かだった。
桃の情報源は信用ならないけれど。
ハグに癒しの効果があるというのは、本当なのかもしれない。桃は私以上にそれを感じているのか、抱きしめるといつも、数秒間は微動だにしなくなる。
なんだかな、と思う。
契約が続く限り関係が途絶えることはないという事実が、私の心の封印を少し緩めているのかもしれない。現実の悪魔が契約を重視する生き物だと、決まったわけではないのだが。
「おはようございます、実來さん!」
にこにこと桃は笑う。
その笑顔に絆されてんのかもなぁ。
意外にも私は、人を好きになる機能がまだ残っているのかもしれない。少なくとも桃に向けている感情は、好意に属するものだと思う。
「今日はどこに行きますか?」
「んー、決めてない。とりあえず、その辺歩くか。暇だし」
「はい!」
桃と手を繋いで歩き始める。
こうして手を繋ぐのにもすっかり慣れた。それは桃も同じらしく、今は自然と繋ぐ手の力をちょうどいい感じにできている。
初めて手を繋いだ時よりもずっと自然になった彼女の手は、繋いでいるのが普通みたいに私の手に馴染む。
何が馴染んでいるのかは、よくわからないけれど。
指の形、骨の硬さ、肉のつき方。私たちはそういうのが、うまく噛み合うようにできているのかもしれない。隣り合ったパズルのピースのように。
相性抜群というのは、本当なのかもしれない。
なんて、ありえないだろうけれど。
「時々飛んでくるけどさ。見られて平気なの?」
「大丈夫です。悪魔には視線や意識を逸らさせる力があるので、飛んでるところを見られることはないんですよ」
「ふーん。そんな力があるんだ。他になんか、できることとかあんの?」
「うんと……治癒力を上げたりとか、腕力を上げたりとか……」
桃は一瞬、ひどく悲しそうな顔を浮かべた。
しかし、すぐにいつものように笑ってみせる。
私は少し訝ったが、それについて聞くのもおかしいと思い、言葉を飲み込んだ。
「そんな感じです」
翼と尻尾がしまわれると、桃は普通の人間と変わらない。それでもやはり、こうして話を聞く限りでは、桃だって悪魔なのだ。
悪魔と手を繋いでいると考えると、すごいことをしているような気がしてくる。
桃が悪魔で、契約を交わしたからこそ、私はこうして彼女と手を繋いで歩いている。彼女が人間だったらこうはいかなかった。
好きとか嫌いとかは、あまり考えたくないけれど。
それでも私たちが手を繋いで、互いの瞳を見つめながら話をしているのは、事実なのだ。
「私、悪魔の力はあんまり好きじゃないんです。……でも、最近はちょっとだけ好きになった気がします」
優しく包み込むように、彼女は私の手を握った。
大事にされているのが、伝わってくる。
私はひよこではないが、彼女の中では同じなのかもしれない。
「そりゃまた、どうして」
「だって、翼があるからこそ、実來さんのところにすぐに飛んでいけるんです。それに、この前は誰よりも高いところで、二人きりで流れ星も見られました」
穏やかな微笑み。
私は少し迷ってから、笑みを返した。
他者の深いところなんて、知りたくない。そう願っても、桃は言葉や態度でそれを伝えてくるのだ。
伝えられてしまったら、それについて考えずにはいられない。無視することなんてできない。だから必然的に私の頭は桃についての情報を処理して、その過程で否応無しに、桃に近づいていく。
今自分と桃との間にある心の距離がどれくらいか。
測れないから、慎重に進みたいと思う。思うのに、桃から伝えられる情報が、それを許さない。
心の脈動が聞こえる距離まで近づいたら。
私たちは、どうなるのだろう。
「確かにあれは綺麗だった。……もう二度と、あんな高いとこには行きたくないけど」
「怖いなら、もっとぎゅってしてくれてもよかったんですよ?」
くすくす笑いながら、桃が言う。
「これでも私、桃より年上だし。んな情けないことできないって」
「私に抱っこされるのは、いいんですか?」
「いや、それも別にいいってわけじゃないけどさ。まあ、綺麗なもん見せてもらったしとんとんってことで」
「……ふふ」
のんびりと歩きながら、笑顔を向け合う。
これってほんとに、いいんだろうか。
少しだけ、妹たちのことが思い返されて、心が軋んだ。
「あの日は本当に、綺麗なものをたくさん見られました」
桃はそう言って、愛おしそうに笑った。
同じ笑みかはわからないが、私も笑った。
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