第9話

「桃。星、好きなの?」

「わかりません。でも、きっと綺麗だと思うんです」


 桃は私を強く抱きしめながら言う。

 気づけば尻尾まで、私の体に巻きついている。


「好きなものも、嫌いなものも。考えたことがあまりないですけど……でも」


 桃の翼が動き始める。

 あっと思った時には、桃に横抱きにされて、空を飛んでいた。

 ひゅっと、喉が小さな音を鳴らした。


「これから探していきたいです。実來さんの好きなものも見つけ出して、感情を共有したいと願っています」


 内臓が引っ張られるみたいな感覚がして、地面が遠ざかっていく。

 ありえない。ありえない、ありえない。

 馬鹿じゃないの。人間は空なんて飛ぶようにできていないってのに。


「実來さんが、私が好きになれそうな映画を選んでくれたみたいに。私も、実來さんが好きだって言ってくれそうなものを、探し出したい」


 空が近付く。

 重力が逆さになったみたいに。地面からは高く見える建物も小さくなっていき、暗い空が落ちてくるかのように視界に広がってくる。


「……別に私、桃に気ぃ遣ったわけじゃないけどね」

「わかってます。実來さんがどんな人か、少し。少しだけ、わかってきましたから」


 桃は私に笑みを向けてくる。その笑みは想像以上に綺麗で、優しいものだった。大切な思い出の品に笑いかけるみたいに、彼女は愛おしむような表情を浮かべている。


 なんなんだ、その顔は。

 いや、それ以前に。


「好きなものとか、知らんけど。嫌いなもの、一つわかったわ」

「なんですか?」

「……高いところ」


 桃は目を丸くしてから、にこりと笑った。


「大丈夫です。尻尾も巻き付けていますし、私、こう見えても力持ちですから」


 力があることは嫌と言うほど知っている。

 それでも怖いものは怖いっての。


「何も大丈夫じゃないって。怖いの。嫌いなの。わかる? 星が見たいなら、山でも行きゃいいでしょうが!」


 いっそ暴れたくなるくらいには、高いところが怖い。

 初めての経験だ。あまり高いところに来たことはないから、今まで気づかなかった。自分でも驚くくらいに恐怖を抱いていて、心臓が早鐘を打っている。


 それでも桃は笑っている。

 やっぱり、こいつ悪魔だわ。

 このまま落とされたりとか、しないよな。


「私は二人きりで星を見たいんです」

「いや、だから——」


 その時、空からこぼれ落ちた星が、線を描いて流れた。

 一筋、だけではない。いくつもの星々が自分も自分もと言うように流れていき、漆黒に染まった空を彩っていく。


 広いキャンバスに、子供が自由に線を描いているかのようだった。流れる方向も、生まれる光の大きさも違って、目が回りそうになる。瞬いている星にぶつかるみたいに流れて、消えて、また別の星が流れていく。


 世界が遠ざかるような感覚だった。

 私を包み、私と同化していた世界が羽ばたきの音と共に私から引き離されていく。


 桃の体温が、体に伝わる。その細いようで力強い感触が、規則正しく鼓膜を震わせる翼の音が、私に染み付いて離れなくなる。星野実來という存在に、佐藤桃の全てが刻み込まれていくような。


「綺麗」


 気づけば私は、そう呟いていた。

 地面に目を向けることができないのは、高さを確認するのが怖いせいじゃない。瞬き、流れる星の綺麗さに、何よりも目を奪われているせいだ。


 星なんて、ただ輝いているだけで、そこになんの意味もないと思っていた。

 でも、その輝きは確かに私の胸に何かを残している。

 一人で見たって同じ結果が得られたとは、思えない。


 桃と一緒だからなのかもしれない。五感のほとんどを彼女が支配しているから、彼女の感情までも私に流れ込んできて、柄にもなく星に感動なんてしている。


 私の感情は、彼女に伝わってはいないだろうか。諦めて、冷めて、消えかけた私の感情が彼女に伝播して、彼女までそうなってしまったら嫌だと思う。

 しかし、そんな私の心配とは裏腹に、桃は幸せそうに笑っていた。


「本当に、綺麗です。……実來さんと星を見られて、よかった」

「そんなしみじみ言うことでもないと思うけど」

「言うことですよ。私にとっては、大きいことなんです」


 桃は私をじっと見つめている。私なんかより、星を見た方がよっぽど楽しいと思うのだが。


 何かを待っているかのように、桃は青い瞳に私を映す。星の光に照らされた私の顔は、いつもより少しくらいは、生きているって感じだった。


 何を待っているのか。何を求めているのか。よくわからないけれど。この胸に今宿る感情を顔に出したら、どんな表情になるのか。


 それを私は、きっと知っている。

 だから、私は素直な感情を顔に出した。桃は目を瞬かせて、心からの幸せを表現するかのように、満面の笑みを浮かべた。


「……実來さん。私たち、二人で。星に願いをかけてみませんか?」

「願いって、どんな」

「たとえば、もっと仲良くなれますように、とか。ロリコンになれますように、とか」

「いや、こんなとこでロリコンとか言うなし。ムード台無しだから」


 そういえば、そうだった。私たちはそういう契約をしているのだ。

 星に願ったって、ロリコンになんてなれるとは思えない。


 願うなら、もっと桃のためにそうなことがいい。星に願っても何も叶わないとは思うが、それでも。今日の星には、願いを聞き入れてくれるかのような、純粋な輝きがあるような気がした。


 いや。

 それは星ではなく、もっと近くにあって、私に今触れているものの輝きなのかもしれない。


「……じゃあ、そうね。これから先の人生が、幸せでありますように、とか」


 私の言葉に、桃は目を細めた。


「やっぱり、実來さんはあったかいです」


 どうしてそうなるのか。

 別に桃の人生が、とは言っていないのに。まあ、実際そう思ってはいるんだけど。


 桃の言葉を否定するのも馬鹿馬鹿しい。それに、この星の下であれこれ言うのは、無粋なように思えた。

 だから私はまた、素直に感情を表に出した。


「二人で願いましょう。……これから先、あなたの人生が幸せでありますように」


 私の人生ではなく、桃の人生に幸せが訪れればそれでいい。

 そう思いながらも、私は桃の願いを否定しなかった。


「これから先、あなたの人生が幸せでありますように」

「これから先、あなたの人生が幸せでありますように」


 二人合わせて、三回。

 願い事を唱えた。


 どの流れ星に願いが聞き届けられたのかは、わからない。無数に流れる星々は私たちのことなんて見ていないし、願いなんて関係なく空を彩っている。


 それでも私たちは、星に何かを見出して、願いを口にした。

 一人で三回ではなく、二人で三回。

 まるで、二人の境界線がなくなっているかのように。

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