第7話
好きなところにお出かけしましょうとは言われたが、特に好きなところがないため、私はとりあえず映画館に向かった。
見たい映画もなかったが、桃ならハートフルストーリーだとかそういうものが好きだと思い、心温まると話題の映画を選んで見る。
内容は、過去の失敗で心を閉ざしていた主人公が家族や友達の優しさに触れていく中で成長し、再び前を向いて生きるといったものだった。
二時間で凝縮された彼らのストーリーは、感動するには薄っぺらく、陳腐なものに思えた。
そんな簡単に心の傷を忘れて前を向けるなら、誰も苦労してないし。
八つ当たりめいたことを思いながら、席を立とうとする。しかし、エンドロールも終わって館内が明るくなっているのにもかかわらず、桃は立とうとしない。
「桃?」
「み、実來、さ、ん」
大号泣である。
このストーリーで、ここまで泣けるのか。
感心するというか、ちょっと引くというか。まあ、でも。感性は人それぞれだ。私はバッグからハンカチを取り出して、彼女の涙を拭おうとして、やめた。
「ほら、ハンカチ」
ハンカチを渡すと、桃は自分の涙を拭き始めた。
自分で拭けるなら、私が拭く必要もない、と思う。
桃は肩を震わせながら泣いている。本当に、純真というかなんというか。私にもこういう時期、あったっけ。
小さかった頃のことを、あまりよく思い出せないのは。自分で蓋をしているせいなのか、単純に忘れてしまったのか。
わかんないけど。
桃の涙を見ていると、自分がひどく汚れた存在に思えた。実際、その通りだろうけど。
「そんなに感動した?」
「感動しました!」
声が濁りすぎていて「がんどうじまじた」に聞こえる。
いや。
どんだけ感動したらそんな声になるんだ。
これはもう私が汚れているとかそういう話じゃなくて、桃の感受性が豊かすぎるのではないか。
「どの辺りが」
「主人公が両親の愛情でもう一度立ち上がろうって決意するシーンです」
「……そ」
両親の愛情。
そんなもの、この世に実在するんだろうか。私の知っている両親というのは、子供を能力という物差しで測る生き物だ。
能力ある者に報酬として渡される褒め言葉に、果たして価値はあるのだろうか。
別に、無償の愛情を求めているとか、今更そんなのないけど。
映画の主人公みたいに優しい言葉をかけてもらって、寄り添ってもらって、愛してもらって、とか。
笑ってしまいそうになった。
全く想像できない。馬鹿じゃないの。本当に。
「出よ。感想戦はどっか、カフェとかでやろうよ」
「そう、ですね」
ようやく落ち着いてきたのか、桃の涙が止まる。私は返してもらったハンカチをバッグにしまった。
その時、桃に手を握られる。
そこで、私は自分から彼女に手を差し出していたことに気がついた。
え。
何してんだ、私。
まさか、ハートフル映画なんて見て、柄にもなく人に触れたくなったとか?
いや、んな馬鹿な。
混乱したまま、彼女の手を引いて映画館の外に出る。映画を見るのは久しぶりだが、毎回映画を見終わった後、外に出た時に感じるこの奇妙な疲労はなんなのだろうと思う。
暗い室内で一つの物語に真正面から向き合うというのは、存外に体力を消費するものなのかもしれない。人と関わる時と、同じだ。
粘度の高い液体が流し込まれたみたいに心が重くなって、息をするのも億劫になってくる。
呼吸って、こんなに疲れるっけ。
こんなに面倒臭かったっけ。
「実來さん」
名前を呼ばれて、我に返る。
アクション映画とかにしときゃよかったかも。
映画ひとつでここまで心を乱しているなんて、馬鹿みたいだ。
私は一度目を瞑ってから、ゆっくり開けた。心が乱れてきた時は、こうすると少しだけ落ち着く。感情を殺して笑顔を浮かべるくらい、余裕だ。
「何、桃」
「映画、つまんなかったですか?」
「んなわけないじゃん。私が選んだんだし、楽しかったよ」
私はにこやかに言う。
「本当ですか?」
「いや、ほんとだって。こんなことで嘘つく理由ないでしょ?」
「……でも。なんだか、痛そうな顔してます」
桃は両手で私の手を包み込んだ。
熱い。ミツバチはこんな風に敵を殺すらしいけれど、私も熱さでやられてしまいそうだ。
いや、そんなことよりも。
「どこが痛いか、教えてください。癒してみせますから」
桃は私をじっと見つめている。青い瞳は今日も透き通っていて、それを汚すのはとてつもなく罪深いことのように思えた。
しかし。嘘をついても、煙に巻いても無駄そうだから、結局は思ったことをそのまま言うしかないんだろう。
こんなこと、桃に聞かせてもなぁ。
「……本当は、まあ。あんまり好きな内容ではなかったかな」
桃は何も言わず、手を握って私を見ていた。
痛そうな顔をしているとは言うが、その視線が何よりも痛いと思う。
「友情とか、家族とかさ。そんないいもんじゃないっしょ。言葉だけで元気になれるほど、人間単純でもないと思うし」
自分の好きなんてとっくに忘れているから、桃を楽しませるために映画を選んだのに。それが裏目に出て、こんなことになっている。
桃は私の言葉を聞いて、穏やかな笑みを浮かべた。
「私も、そう思います」
「え」
思わぬ言葉に、私は目を丸くした。桃がそんなことを言うなんて、思ってもみなかった。
「家族は血が繋がっててもやっぱり私とは違う人で。友達も、心に触れるには遠すぎて。心の表面をなぞるだけの言葉に、意味なんてあるのかなんて、考えたりします」
その言葉を聞いて、桃も私と似たような人生を送ってきたのだろうかと、少し考える。だとしたら、なんなんだろう。
共感? 同情? 私は桃に、どういう感情を抱こうとしているのか。
どういう感情を、抱きたいのか。
「でも。それでも。物語の中でくらい、救いを信じたいんです。……そうじゃないと、辛すぎるじゃないですか」
「……桃」
「それに。できるなら私も、現実で救いがあるって信じたいです」
知りたくないことを、否応なしに知っていく。
桃という存在が、私の心に刻まれていく。契約だけで繋がれていた私たちの関係が言葉によって肉付けされていき、胸の中で息づいていくのを感じる。息づいてしまったら、もう無視することもできなくて、私は少し息が詰まるのを感じた。
「だから、実來さんのことをもっと教えてくれませんか?」
「いや、なんでそうなるの」
「実來さんの好きなことが、好きなものが、知りたいです。癒して差し上げたいんです」
桃は私に自分を重ねているのだろうか。少し戸惑っていると、桃は強く私の手を握って笑った。
「癒すのが契約なら、それに必要なことを知るのもきっと、契約です。必要なことだと、思います」
思いがけないほど強い声だった。私は小さく息を吐いた。
「私だって、知らないけど。……ちょい、待って。考えるから」
癒すというのが契約で、そのために私の情報が必要なら。
それなら、仕方がない。自分が何を好きかなんてわからないし、全部見失っているけれど、必死になって考えてみる。
それでもやっぱり、よくわからなかった。
何十秒経っても、何分経っても、私は空っぽだ。
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