第2話

 私の住んでいる街は田舎だ。

 休日には他県からレジャーを楽しみに来る人々が後を絶たない程度には田舎で、グランピングやらキャンプやらの施設が非常に多い。


 住んでいる人間からすると、この辺の自然にそんな魅力があるのかって感じだ。


 わざわざ自然の中で遊びたいなんて思うほど子供でもないし、都会の喧騒を忘れて静かな時間を楽しみたいなんて思うほどくたびれてもいない……はずだ。


 だから電車で栄えている都市まで出て遊ぶのが常、なんだけど。


「わー! 見てください実來さん! 水が透き通ってます!」


 悪魔が死ぬほど浮かれている。

 桃はわざわざワンピース水着なんて着て、川にじゃぶじゃぶ浸かっている。


 田舎に飽き飽きしている私とは対照的に、彼女は川を見るのなんて初めてです、みたいな顔してはしゃいでいた。


 水が流れているだけなのに、何が楽しいのだろう。

 まして今は五月。水遊びをするにはまだ早いし、どうせ水遊びするなら川より海とかプールの方がまだ楽しいと思う。


 水着、何年くらい着てないんだろう。

 いや、そもそも水辺に近づくのすら久々な気がする。昔はよく妹たちを連れて遊びに行ったものだが。


「実來さん実來さん! ちょっとこっち来てください!」

「はいはい。な——ぶっ」


 近づいた瞬間、水をかけられる。

 冷たい水が髪どころか全身を濡らす。冷えていく体とは反対に、頭が熱くなっていくような感じがした。

 何をしてくれているのか。


「メイク、落ちるんだけど」


 桃はにこにこ笑っている。そんなに私の顔が面白いのか。


「いいじゃないですか。実來さんも遊びましょう! 楽しいですよ!」

「あのさ。私、もう水なんかじゃぶじゃぶやって楽しい歳じゃ——」

「えいっ!」


 悪魔だから力も強いんだろうか。

 小さな両手から放たれた大量の水が、的確に私の顔にぶち当たる。


 ばしゃ、と音がして、顔から水が流れる。水遊びなんて最近していないし、する予定もなかったから、それ用のメイクなんてしてきていない。


 なんで野外ですっぴんを晒さねばならないのか。

 私はため息をついて、サンダルを脱いだ。


 素足を水につけると、ひどく冷たかった。気温もそんなに高くないのに冷たい水に足をつけていると、足から背筋を伝って、頭まで冷えていくような感じがする。


 水だ。

 冷たくて、常に動いていて、私の足をさらうみたいに下へ下へと流れていく。すっかり忘れていた水の感触が、確かに足にあった。


「あんた人の話聞かなすぎ! 悪魔ってもっと人の話よく聞くんじゃないの!」


 私は手で水を掬って、桃にかけてやる。

 水に濡れた桃は小型犬みたいに体を震わせて、「やりましたね!」なんて言って私に水をかけてくる。


 先にやったのはそっちだろうに。

 ムキになっているわけじゃない。わけじゃないけど、私は桃にさらに水をかけた。


 桃も水をかけてくる。冷たい水が全身を濡らして、服がべったりと肌に張り付いた。

 何やってんだ、私。


「悪魔にも色々あるんです! 色々!」

「知らんし! あんたのせいで服は濡れるわメイクは落ちるわ最悪だから!」

「ここまで来たんだから、濡れなきゃ損ですよ!」

「わけわからん!」


 楽しそうに遊んでいる子供たちに混じって高校生が水遊びしているのって、どうなんだろう。


 まだシーズンじゃないとはいえ、ゴールデンウィークだ。グランピング施設のすぐ横にあるこの川は、多くの家族連れで賑わっていた。


 そんな中で家族でもない悪魔の子供と高校生が二人、水を掛け合って遊んでいる。どう考えてもおかしい構図だ。


『施設の予約をしたので、一緒に遊びましょう!』


 悪魔は昨日、メッセージを送ってきた。

 苗字は佐藤で、スマホも持っていて、見た目だって普通の少女。

 でも悪魔なんだよな、と思う。


 私が彼女に付き合っているのは面倒を避けるためだ。変に断り続けたら面倒臭いことになりそうだし、痛いこととかされたら嫌だ。


 殺すなら一思いに殺してくれって感じ。

 今のところこの悪魔は楽しそうに水遊びをしているだけで、私に何か危害を加えてくるような気配はない。


 ロリコンになれ、なんて言ってきたのが嘘みたいだ。





 私たちはしばらく水を掛け合っていたが、流石に寒くなってきた私がくしゃみをすると、桃は川から上がってきた。


 よっぽど彼女の頭を叩いてやろうかと思ったが、その顔があまりにも楽しそうだったから、やめる。


 水、掛け合ってただけなのに。なんでそんな楽しそうなのよ。


「あんたほんと、勝手すぎ」

「桃、です」

「え?」

「桃って、呼んでください。あんたじゃ嫌です」

「……はぁ。ほんっと、人の話聞かなすぎだから。わかったわかった。桃ね。桃」

「はい。桃、です」


 桃は名前を呼ばれているだけなのに、誕生日に欲しいものをプレゼントされたみたいな顔で笑っている。


 そんなに嬉しいんだろうか、名前で呼ばれるというのは。


 名前なんて個人を識別するためのコードみたいなものであって、そこにはなんの意味もないはずだ。どんな声、どんな顔で名前を呼ばれたって、それは単なる音以外のなんでもない。

 なんでもない、というのに。


「実來さん」


 桃は私の目をまっすぐ見つめながら、名前を呼んでくる。

 別に、どうってことはない。


 毎日友達にも呼ばれている、ただの名前だ。しかし、桃はなぜか楽しそうに、私をどこまでも澄んだ瞳で見ながら呼ぶものだから、妙な感じがする。


 青い瞳が、川の水よりも透き通っている。

 吸い込まれそう……だなんて、思わない。瞳はものを見るために存在しているのであって、ものを吸い込むために存在しているわけではない。


 だから、見つめられたってこの体が、心が吸い込まれるわけはない。


「楽しかったですか?」


 私は軽く息を整えた。


「言ったでしょ。水遊びで楽しくなれる歳じゃないって」

「実來さんって、何歳なんですか?」

「十六だけど」

「私と三歳しか違わないじゃないですか! まだまだ水遊び、楽しめる歳ですよ!」

「……桃って、十三なの? 中学生?」

「はい! 中学一年生です!」


 それにしては、小さい気がする。

 中学一年生って、こんなものだったか。


 私はどうだっただろう。何歳の時に今と同じくらいの身長になったかとか、全然思い出せない。思い出す必要もないだろうけれど、中学生の頃、私はどんな感じだったっけ。


「見た目相応なんだ。悪魔だから、百歳とかいってんのかと思ったけど」

「それくらいの歳の悪魔はいますけど、私はまだまだです」

「ふーん……桃もそんくらい、生きるってこと」


 百年も生きていたら、人生の全てが嫌になりそうなものだが。

 しかし、悪魔と人間の価値観が同じかどうかは、わからない。思えばこんなにも水遊び程度で喜んでいるのは、彼女が悪魔であるためなのではないか。


 悪魔は人間よりも精神的に成長するスピードが遅くて、それで、とか。

 いや。人間の中学生も、水遊びで楽しめるのか、普通は。


 最後に家族でこういうところに来たのは、いつだったか。その時私は楽しんでいただろうか。ずっと妹の面倒ばかり見ていたような気がする。


「多分、私はそんなに生きられないと思います」


 桃はそう言って、微かに笑った。

 その笑顔にどんな感情が含まれているのかは、わからないし知りたくない。人の深いところに踏み込むのなんて御免だ。


 自分の深いところすら見たくないし知りたくもないのに、人の心に踏み入れるはずがない。

 私は服を絞りながら、何にも気づいていないフリをして鼻を鳴らした。


「ふーん。ま、いいけど。それでこれからどうするわけ」

「実來さんに癒しを届けるプラン、色々考えてます!」


 桃はそう言って笑う。

 癒し、ねぇ。


「……そもそもさ。なんで私を癒すとか言ってんの」

「現代人は皆疲れているって聞いたことがあるんです」

「で?」

「だからです!」

「……」


 なんだそれは。

 悪魔の考えることは全くもってよくわからない。


 常識の埒外にいるのが悪魔だとわかってはいるが、なまじこうして普通に会話できてしまうから、余計に混乱する気がする。


 いっそ悪魔語とか話してくれれば。

 いや、それはそれで怖い。


「実來さんも、疲れた顔してますから」

「はぁ?」


 青い瞳が私を見つめている。悪魔のものとは思えないほどに綺麗な色で、怖いくらいに混じり気がない。


 私の姿がその瞳に映ると、瞳が汚れてしまうんじゃないかと思う。

 コップ一杯の綺麗な水に泥水を一滴混ぜたみたいに。


 彼女の瞳に映った私の姿は、いつもより余計につまらなくて、醜いものに見えた。

 そんなことを思うなんて、馬鹿みたいだけれど。


「だから、癒してみせます。その代わり、私のことを好きになってください」

「ロリコンになれって、あんた……桃のこと、好きになれってこと」

「はい。私を好きになってください。私に恋してください。それが、私という悪魔が実來さんという人間に求めることです」


 穢れを知らない、綺麗な声だった。この世ならざる響き、とでも言えばいいんだろうか。聞いていると鼓膜がどうにかなってしまいそうだった。


 彼女はどこか不安げにしながらも、まっすぐ私に言葉を届けてくる。他の誰でもない、私だけに向けられた言葉。視線。表情。


 そういうの、全部が煩わしい。私はただ、いくらでも代わりのいる何者かになりたいだけなのだ。だから、星野実來として私を見ないでほしい。

 なんて、悪魔に言ったって無駄だろうけれど。


「癒す、とか。できるなら、やってみれば。癒しなんてよくわからないけど」

「はい! やってみせます! やらせてください! 実來さんがとろとろになるまで癒しちゃいます!」


 とろとろ。

 シチューにでもされるんだろうか。


 桃の考えている癒しは、一般的なものとズレているような気がする。別に、どうでもいいけど。


 一度付き合うと決めたからには、逃げるつもりはない。そもそも悪魔との契約から逃げたら、絶対ろくでもないことになる。


 私は色々なことを諦めて生きてきた人間だ。今更他者に興味を持つことなんてないし、自分自身をどうにかしたいと思うこともない。


 悪魔との契約の先に何があるのかは、わからないけれど。

 それでもいい。


「そ。じゃあ、契約成立ってことで」


 そうして私は、改めて悪魔と契約をした。

 私はその時、何かの足音を聞いた気がした。それが破滅の足音なのか、もっと別のものなのか。

 それはきっと、いつかわかることなのだろう。

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