第3話
私たちは部屋にある風呂に交互に入って、ダイニングでぼんやりとテレビを見ながら時間を過ごしていた。
二人してソファに座っているものの、私たちの間には一人分の隙間がある。その隙間こそが心の距離であり、いわゆるパーソナルスペースってやつなのだろう。
肩を並べられるほどの心の距離じゃない相手と、一泊とはいえ泊まりで遊ぶ。
中々貴重な経験だと思う。
正直言って、年下で、しかも同性の悪魔に恋するのなんて不可能だ。それなのに彼女と契約してしまったのは、その場しのぎばかりしている私の性格に問題があるためなのだろう。
別に、相性抜群という桃の発言を信じたわけでもないし、これから楽しい日常が待っているかも、なんて馬鹿げた期待をしているわけでもない。
大抵のことはどうでもいいで済ませて、流れるままに生きているからこうなったってだけだ。
子供の不安そうな顔とかそういうのを見たくないなんて、そんな気持ちも。一ミリくらいは、契約の理由になってるんだろうけど。
ぼーっとくだらないバラエティ番組を見ていると、不意に何か生温かいものが私の腕に巻き付いた。
黒くて細長いそれは、桃の尻尾だった。
あっと思った時には、尻尾にぐいと引っ張られ、彼女の膝に頭を乗っけることになった。
「何、桃」
「今日は、ごめんなさい」
桃は私の頭を撫でながら言った。
謝るか撫でるかどっちかにしなよ。
そんな言葉は、どうしてか出てきそうになかった。
「本当は自然に癒されてもらうつもりだったんですけど、私の方が楽しくなっちゃって」
「……」
桃が楽しければよかったんじゃない、と言うのもおかしいよな、と思う。
気を遣っていると思われるのも面倒臭い。こういう時に何を言えば元気になってもらえるかとか、どういうことをすれば喜ぶかとか、大体わかっている。
わかっているけれど、何も言わない。しない。
私の体には、何もしないというのが染み付いている。何もしなければ、私は星野実來ではなく、他にいくらでも代わりのいる存在になれる。
それに。
好かれるか嫌われるか。どちらかしか選べないのなら、好かれるよりも嫌われる方がまだマシだと思う。
好かれるというのは、実は嫌われるよりも厄介なのだ。
一度そういう関係性が築かれると、それが崩れたときにどうしようもない痛みと苦しみが胸を突き刺すようになる。
築かれた関係が深ければ深いほど辛くなり、心には消えない痛みが残ってしまう。
嫌われるのもそれはそれで、面倒だけど。
「そこで、です!」
耳元で大声を出される。
きーんという音が耳朶に響き、私は思わず眉を顰めた。
子供というのはどうして、こんなにも声が大きいのだろう。
「これも用意してきたんです!」
桃はソファの下に置いてあったバッグからごそごそと何かを取り出す。
細くて先端がくるりとしていて、反対にはふわふわ。
それは、どこからどう見ても耳かき棒だった。
「耳かきに癒される人は多いって言ってました。なので、やらせてください」
いや、誰が言ってたのよそれ。
聞くのも面倒臭くて、私は小さく息を吐いた。
「やれば。私を癒すのが、契約でしょ」
桃は私を癒し、私は桃を好きになる。
そういう契約だが、桃を好きになるなんてありえないよな、と思う。好意くらいなら持ってもおかしくはないかもしれないが、恋まで行くとはやはり思えない。
そもそも私に、人を好きになるなんて機能がまだ残っているのだろうか。
わからない。
契約不履行に対する損害賠償は、どのようなものになるだろう。魂を食べられたり、痛めつけられたり、あるいは私も悪魔にされたり?
想像すらできないが、なるようになるだろうと思う。
私はいつも、そうやって生きている。
「では、僭越ながら私がやらせていただきます」
「丁寧すぎだから、言葉」
悪魔は私の頭を横に向けて、耳に触れてくる。
温かな指先が耳たぶに触れると、ビクッと体が跳ねる。
考えてみれば誰かに耳を触られるのなんて初めてだ。親に耳掃除なんてされた記憶もないし。
だからといって耳掃除をしたことがないわけじゃない。やりすぎも良くないらしいけれど、ちゃんとこまめに自分でしているし、妹にだってやってあげたことはある。
「い、いきます」
緊張しすぎじゃね。手ぇめっちゃ震えてるけど、大丈夫かな。
ぶすっというか、ぐさっというか、そんな音が響いた。
……気がした。
「いっっっっ!!」
「ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
めちゃくちゃに耳の穴が痛い。
もしやこやつ、こうやって人の鼓膜を貫いて殺すようなタイプの悪魔だったりするんだろうか。私は跳ね起きて、耳を押さえた。
手を見ても、血はついていない。
流石にそこまではいっていないらしい。ちゃんと耳も聞こえるし、鼓膜は無事みたいだ。
「ちょい待って。あんたもしかして私を殺す気だった?」
「ごめんなさい。耳掃除は思い切ってやった方がいいって見たので……」
「見たって、何で」
「ネットの記事です!」
「……あんたには玉石混交という言葉を教えたいわ」
「……あの、あんたじゃなくて桃って」
「あんたなんかあんたで十分だから。もうちょっと力強かったら鼓膜死んでたわ」
痛いのは嫌いだ。
直接的な痛みもそうだし、精神的な痛みも、どっちも。
痛みなんてどこにもなければいい。いつだって心も体も凪いでいて、何もない状態が一番いいと思う。
桃はしょぼくれた様子で頭を下げている。
気を遣っていると思われるのは嫌だ。嫌だけれど、子供がこういう顔をしているのを見るのも嫌だ。
わがままだ、と思う。
優しい言葉ひとつかけるのにこんなにも苦労する私は、きっとどうかしているのだろう。思春期を拗らせすぎて心がどうにかなっているのかもしれない。
ああもう、マジで。
面倒臭いにも程があるって。
「貸して」
「え?」
「棒。私がやるから。手本見せるわ」
「あ、はい」
桃から耳かき棒を受け取って、彼女を自分の膝で寝かせる。
久しぶりの感触だ。最後に妹に耳かきをしてやったのは、いつだったか。人に耳かきをする感覚はまだ忘れていない、はずだ。
見れば、桃は不安そうな顔をしていた。
「別に、取って食ったりしないから。仕返しとかもしないし」
「ごめんなさい。こういうの、初めてなので」
どうなんだろう。
人にされたことないのが、普通なんだろうか。妹たちはしょっちゅう私に耳掃除をねだってきたものだが、あれが特殊だったのかもしれない。
曰く「お姉ちゃんの耳掃除は気持ちいい」とのことだったが、こんなので癒される人間が本当にいるんだろうか。
疑わしく思いながら、桃の耳に触れる。
柔らかく、適度な弾力を持った軟骨の感触が指先に伝わってくる。妹のものとは少し違うけれど、やっぱり人の耳の感触だ。実際は、悪魔なんだけど。
私はゆっくりと耳の穴に棒を入れていく。
見た感じ、ほとんど垢はないと思う。悪魔は綺麗なものなのかもしれない。少しやりがいがないな、と感じながらも棒を優しく入れて、小さな汚れを掻き出していく。
ティッシュを一枚とって、その上で棒をとんとんした。
「実來、さん」
「何?」
「気持ちいいです」
「ふーん、そ。じゃ、よかったんじゃない」
桃は私のお腹の方に顔を向けているから、表情がよくわかる。
確かに気持ち良さそうな顔をしている。
もしかすると私には耳かきの才能があるのかもしれない。耳鼻科の先生でも目指すか。
こんなこと考えていたら、本職の人に殴られそう。
「はい、終わり」
私は棒を引き抜いて、最後に梵天を彼女の耳の穴でくるりと回した。
仕上げにふっと耳に息を吹きかけると、桃は驚くくらい大きく体を跳ねさせた。
「ふぁっ……」
「あ、ごめん。癖でつい」
妹に耳掃除をするときはこういうことをしていたから、ついやってしまった。
身に染みついた習慣というものは恐ろしい。
私はほとんど耳垢の乗っていないティッシュを丸めて、ゴミ箱に投げた。
……ナイスシュート。
「い、いえ。驚いただけで、嫌では、ないです」
「それはそれで、どうなのよ」
耳に息を吹きかけられるのが好きだとしたら、変な趣味だと思う。
悪魔の間ではそれが普通なのだろうか。
んなわけないだろう。
人の耳に積極的に息を吹きかける趣味はないので、もしそれが悪魔の常識でも付き合うつもりはない。
そもそも家族でもない相手にそんなことするのって、おかしいだろうし。
それを言ったら、耳かきをするのもされるのも十分おかしい。
悪魔という存在自体がおかしいのだから、多少の行為は普通になるのかもしれないけれど。
相手が悪魔で良かったのかもしれない。人相手にやっていたら、ドン引きだっただろうし。
もしかすると。
私は悪魔の耳掃除をした、最初の人類だったりするんじゃないか。だとしたら歴史的快挙……でもないな。
おかしなことを考えている。
変なことが続きすぎて、脳が沸騰でもしているんだろうか。
「もう終わりね。耳垢、溜まってないみたいだし」
私が言っても、桃は膝から退こうとしない。
桃はうとうとしている様子だった。今にも瞼が落ちそうになっている。
こういう時に無理に起こすと、変に夜眠れなくなったりするんだよなぁ。
妹がそうだった。
悪魔も妹みたいなものだと思えば、可愛く感じるのかもしれない。
いや、まあ、でも。
やっぱり悪魔は悪魔で、妹は妹だ。
とはいえ桃も私からすりゃまだまだ子供で。なら、ちょっとくらいサービスしてもいいかな、なんて思ってしまう。
なんとなく。
意味なんてなく。
妹が好きだった子守唄を、歌った。ゆっくりと、懐かしい感覚を思い出すようにして頭を撫でて歌っていると、桃は完全に目を閉じて、静かに寝息を立て始める。
寝顔は天使みたいに安らかだ。悪魔なのに。
「……私の方があんたのこと、癒してない? わかってんの?」
頬を突くと、桃は微かに笑った。
赤ちゃんじゃあるまいに。
私は思わずため息をついた。
腕に巻き付いていたはずの尻尾はいつの間にか全身に巻き付いていて、私はここから離れることができなくなっていた。
なんなんだ、この空間は。
色々考えるのが馬鹿馬鹿しくなって、私は目を瞑った。
人の呼吸音がする中で眠るのは、久しぶりだった。
よく眠れそうな気もするし、眠れない気もする。そんなことを思っていたら、いつの間にか意識が飛んでいた。
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