トワイライト・オブ・エデン

瑞乃画虎

プロローグ

「これより、定命不滅ていめいふめつの儀を執り行う‼」


 白亜の大聖堂に教皇の低い声が響いた。


 大階段の下に立つ一際豪奢ごうしゃな装いをした男の声に聴衆が水を打ったように静まり返る。すると、大階段の奥にある両開きの扉から巫女装束に身を包んだ女性が神官を伴って現れた。


 白を基調に水色の刺繍ししゅうがあしらわれた衣装に身を包んだその女性は、腰まで伸びたプラチナブロンドの後ろ髪を腰のあたりで切り揃えており、胸のあたりまで垂らしている前髪の間からうかがえる容貌ようぼうは白く美しく、丸みを帯びている。


 祭場さいじょうへと続く通路に現れた巫女はなぜか両目を閉じたまま、二人の神官に手を引かれて大聖堂の中央にそびえる大階段を上っていく。

 巫女が階段上部にある祭場に辿り着いた時には、二人の神官は階下に消えていた。


 ひとり祭場に上がった巫女が台座の手前で立ち止まり、おもむろに天を仰ぐ。

 巫女のまぶたがゆっくりと持ち上がった拍子に、プラチナブロンドの睫毛まつげがふるふると震える。

 瞼の下から現れた彼女の瞳は、恐ろしいほどの美しい金色の光を宿していた――。


 大聖堂の天井は祭場の真上にあたる部分だけがステンドグラスで作られており、それが太陽光を透過することで祭場全体に色彩豊かな大きな魔法陣を映し出している。

 祭場の中心に置かれている大きな台座のその奥には、聖杯を慈しむ様に抱える女神リュテイアの石像が鎮座していた。そこへゆっくりとした歩みで近づいた巫女は、女神像の手からうやうやしく聖杯を受け取ると、両手で持ったそれを台座の直上へと掲げたのだった。


「女神リュテイアに祈りを!」


 威厳を孕んだソプラノボイスが耳が痛いほどに静かな聖堂に良く響いた。


 巫女の言葉を合図にして、祭場をぐるりと囲んでいた聴衆が一斉に祈りを捧げ始める。一万もの人々を収容できる儀式場を持つ、この儀式のためだけに造られた大聖堂は今、その内も外もが祈りを捧げる人々であふれかえっていた。


 女神リュテイアのその威光は他国の王族にまで及んでいることから、年に一度の儀式が行われている今この瞬間、中央大陸中の人々の祈りがここ――大聖堂セントラムに集約していた。


 その大聖堂の中心で、巫女が人々の祈りを一身に受けとめている。


 それを表すかのように聖杯が金色の光を放ち始め、巫女の体が金色の靄のようなものに包まれていく。その時になって、掲げ持っていた聖杯を台座の上に置いた巫女が、呪文のようなものを口にしたのだった。

 途端に巫女の全身を覆うもやが両掌へと集まり、それらをすくうように差し出されていた両手から、聖杯へと金色の雫が零れ落ちていく。

 器の部分に雫が注がれると、その下のドラゴンの飾りの持ち手へ、そしてさらに下の高台こうだい部分へとその模様を変じていき、金色に輝き始めた。


 人々と女神との橋渡しこそが巫女に与えられた役目であり、この『定命不滅の儀』は聖杯に溜められた神力の源たる『神の雫』を天に御座おわす女神リュテイアへと届けることによって完成するのである。


 聖杯に『神の雫』が全て落ち切る。

 それを見届けた巫女は、聖杯の口縁こうえんにそっとくちびるをつけ――そして、器に溜まっていたそれを一息に飲み干した。


「うっ……」


 苦しみの声を上げた巫女の手から聖杯が滑り落ち、ガランガランと音を立てて祭場の床を転がっていく。輝きを失った聖杯がとうとう女神像の足元にぶつかって止まった。

 その時には、巫女が台座へと俯せに倒れ込んでいたのだった。

 ややあって台座の上でその美しい容貌を苦痛に顰めていた巫女は、ピクリとも動かなくなった。

 そう、巫女は絶命したのだ。

 そして巫女の命が尽きたその瞬間から、彼女の体が四肢の先から白い光の粒子に変わり始め、肉体の欠損した箇所から溢れ出す金色の雫と混ざり合っていく。

 それが巫女の全身にまで及んだその途端――。

 巫女の全身が弾け、台座の上に淡い光を残して消えた。

 台座の中央にある小さなくぼみに、卵のような形をした宝玉だけを残して。


「巫女が玉化ぎょくかなされた! また一年、女神リュテイアは我々に安寧の時を約束されたのだ‼」


 祭場に現れた教皇が台座の上にある乳白色の宝玉――オーバルと呼ばれるそれを己の頭上に掲げ高らかに宣言すれば、聴衆が沸き立ち、その歓喜の波は聖堂の外へと伝播でんぱしていった。

 そして、儀式の成功が口伝くちづてに広がったその先から大聖堂の周囲は祭りの様相を見せ始め、それを合図としたかのように女神リュテイアを祝した祭りが始まった。






 ◇ ◇ ◇






 聖都ケイラスの中央に聳える大聖堂セントラム。


 その周囲には広場を挟む形で商店などが軒を連ね、広場から続く大通りからは規則性など微塵もない形でいくつもの道が伸びている。その道からはさらに住宅街へと続く路地が幾重にも分かれて続いていた。


 大聖堂セントラムへと続くこの大通りのそこかしこでは、乾杯の音頭おんどを取り昼間から酒をっ食らう男どもの姿があった。そんな祭りの空気に浮かれた人ごみの中を、ジャックは祭りの出し物を見物しながら歩いていた。


「巫女サマのご尊顔を見ることも出来たし、俺も一杯引っかけてから帰るか……」


 巫女の顔を見れたことと、酒を飲むことには因果関係は何もない。しかし、幸運を分かち合えるような仲間を欲していたこの男にとって、その思考はあまりにも自然なものだった。

 ついでにアイツに顔を見せに行ってやろう、などと考えながら大通りを曲がったジャックは、軽い足取りで友人の経営する酒場へと向かった。


「さて、さかなは何にしようかね」


 酒場にたどり着いたジャックが少し寂れた雰囲気の扉に手を掛ける――。

 とその時、酒場の扉が勢いよく開け放たれた。


「暴れんなら余所でやれりやがれ! この馬鹿野郎どもがっ!」


 男の野太い怒声と共に酒場から勢いよく飛び出してきたのは、むくつけき二人の男ども。彼らは取っ組み合いをしたままの格好で、扉の前に突っ立っていたジャックへと勢いよく激突したのだった。


「ぐえっ‼」


 蛙を引き潰したような声を上げて弾き飛ばされたジャックは、受け身をろくに取ることも出来ないまま路面へと飛び出し、仰向けに倒れ込んでしまう。


「そこをどいてくれー‼」


 その時、ジャックの逆さまになった視界に、乗り合い馬車のような大きなほろを引く二頭引きの馬の脚がでかでかと映った。


 ――あ、これ死んだわ。

 と思った次の瞬間、ジャックの体を引き裂くような激痛が襲い――。

 そして、意識が暗転した。






 微睡まどろみの中、誰かに体を揺すられた気がしたジャックは「はっ⁉」と声を上げると、ベッドから飛び起きた。

 彼の目に映ったのは、妙に見慣れた調度品の置かれた室内。

 それを見た途端にジャックは「なんだ、教会か」と呟いて、そそくさとベッドに寝転んでしまう。

 ベッドの側に立っていた女性と目がバッチリ合っていたにもかかわらずに――。


「もう一回死んどきますか? 隊長?」

「……いっそ殺せよ」


 ジャックは自身の部下であるその女性に背を向けながら、どこかねたように返事を返した。

 そんなジャックの背には哀愁のようなものが漂っていたが、部下の女性は無視されたお返しと言わんばかりにそれをスルーした。


「さっさと着替えてしょに来てください。さもないとそのボロボロの服を剥ぎ取って、裸のまま連行しますよ? ……はぁ」


 しかも、とても面倒くさいと言わんばかりのため息のおまけつきである。


 彼女の反応が自分の予想していた最悪のものからは遠いものだったため、もしかしたら気づいていないのかもしれない、という淡い期待を抱きながら、ジャックはベッドサイドに置かれた警備隊の制服へと手を伸ばした。


「――ところで隊長、なぜ酒場の前で死んでいたのか理由をお聞かせいただいてもよろしいですか?」


 心なしか酒場の部分が強調された彼女の台詞を聞いた途端、ジャックは制服へと伸ばした手を力なく脚の上へと降ろす。

 とてもわかりやすく項垂うなだれてみせた彼は、苦し紛れに口を開いた。


「そんなもの、たまたまに決まっているだろう……」

「たまたま大聖堂から隊長の家への帰宅ルートから外れた道で、たまたま酒場の前にいて、たまたま酒場の喧嘩けんかに巻き込まれて、たまたま馬車にねられた……と。すごい偶然ですね?」

「そ、そうだ……ちょうど野郎どもの喧嘩の仲裁に入ろうとして――」

「へぇ……隊長は一般人の喧嘩も止められない程度の実力しかなかったのですか……初耳でした」

「うっ……サリア君、いつもより口がきつくありませんかね?」


 おそるおそるそう尋ねるジャックに、サリアと呼ばれた女性はわかりやすくまなじりを吊り上げた。


「このくそ忙しい日に非番で居ないと思ったら、酒場に行って事故に巻き込まれて、余計に仕事増やしたバカ野郎に一体なんて声を掛けたらいいんですかね⁉ そもそも仮に事故に巻き込まれなかったとしても、酒飲んだら服務規程ふくむきていに違反するでしょうが‼」


 ケイラス聖国の警備隊の服務規程だけに関わらず、おおよそ全ての国でも非番の日における警備隊の飲酒は禁止されている。それは、いつ現れるかわからない『有事』にあたる、魔獣への対処に当たるために必要なことであるからだ。

 というより、そもそも非番とはただの休日ではなく任務中に該当するため、前半の八つ当たりはともかくとしてサリアの言い分は至極真っ当なものであるといえた。


 そして、ジャックが気づいて欲しくなかったのはまさにそのことだった。


「……め」

「め?」

「女神リュテイアに誓って、俺は酒を飲んでいない! 酒場に入ろうと扉に手を掛けただけだ! まだ未遂なんだって――」

「そうですか……問題ないのなら、オットーさんに報告しても構いませんよね?」

「――申し訳ありませんでした!」


 さっさと部屋を出ていこうとするサリアに、ジャックは即座に土下座を発動した。

 誠意の籠った彼の謝罪に流石のサリアも扉へ向かう足を止める。


「……ねこの翼停」

「へ?」

「そこの最高級ディナーで手を打ちましょう」

「はい……………………それでお願いします」




 聖都の東西南北の四方に設けられた教会のうち、その西側にある教会を後にした警備隊の隊服に身を包んだ二人。片やその肩を落とし、とぼとぼと歩く天然パーマの男と、片やその隣をきびきびと歩くショートヘアの女。

 そんな対照的な二人を、教会の出口からシスターが微笑まし気に見送っていた。


「リュテイアの加護がありますように」


 そう言うと、シスターは胸の前に円を描いてから祈りを捧げた。

 二人の未来に幸多からんことを――と。






 寿命以外で死ぬことが無くなった人間という種族。

 彼らの間では、死もまたありふれた日常の一部に過ぎない。

 だからこそ人々は、死の恐怖から解放してくれたリュテイア教を称え、巫女を称える。

 そうして女神リュテイアの恩恵に浴していた人々は、現世を指して――



『楽園』と、そう呼んだ。

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