10.爪を隠して怯えるのは終わり

「あ……案内するよ」


 緊張した面持ちで歩く彼について、よく知る廊下を歩く。王妃殿下のお部屋はこの先を左、花瓶がある扉から3つ目の右側ね。歩数まで覚えているけれど、今は足の長さが違うから役に立たなかった。


 たどり着いた部屋で、イグナシオがノックして顔を覗かせる。返事がある前に扉を開けてはダメ、そう叱る王妃殿下の声が聞こえた。侍女によって開かれた扉の中に入り、二歩でイグナシオの手を離す。


 片足を引いて身を沈め、カーテシーを披露した。ダンスもそうだけれど、体幹がしっかりしてないと倒れてしまう。ふらついたら淑女失格なので、ご令嬢達のバランス感覚は鍛えられていた。私もその一人よ。


「あら、可愛らしい。今日は淡いオレンジのワンピースドレスなのね。とても似合っているわ」


「ありがとうございます、王妃殿下」


 声を掛けられるまで、下位の者から上位者に話しかけてはならない。礼儀作法に従い、その場で足を止めた。用があるなら呼ばれるし、そうでなければ少したら下がっていい。


「フランシスカ、こちらへお座りになって。イグナシオもいらっしゃい」


 恒例のお茶会ね。王妃殿下はほぼ毎日、お茶の時間に誰かを招く。王子妃教育を必死にこなした前回も、よく呼ばれたわ。あれこれ注意されて、口にした物の味なんて覚えていないけれど。緊張しながら、示された向かいの席に腰掛けた。


「こんなに愛らしい令嬢を婚約者に出来るなんて、お告げに感謝しなくてはね。イグナシオ」


「はい、母上」


 メイドが用意する紅茶は、赤い薔薇のお茶だった。これは渋みがあるから、少し蜂蜜を垂らすかジャムを入れる。今回用意されたのは、ジャムの方だった。


 ほっとする。蜂蜜を入れる方が難しいのよ。垂れてしまうし、蜂蜜が柔らかい時もあるの。ジャムならスプーンだから、失敗は少なかった。王妃殿下が先にジャムを入れ終わるのを待って、自分のカップにも入れる。


 イグナシオは困った顔できょろきょろしており、私は心で溜め息を吐いて、貼り付けた笑顔で尋ねた。


「イグナシオ王子殿下、ジャムはどのくらいがお好みですか」


「たっぷり、です」


 聞いた通りたっぷり掬い、カップへ流し入れる。表情を窺いながら、もう半分ほど足した。


「あらあら、仲の良いこと」


 ほほほと笑う王妃殿下に、私は穏やかな笑みで応じた。ここで取り乱したり、赤い顔になる理由がない。どんくさい弟分の面倒を見た、程度の気持ちだった。一度目は4歳離れた弟がいたのよ。あの子も鈍臭かったわ。


「お茶にお招きいただき、ありがとうございます。頂きますわ」


 爪を隠して怯えるより、完全に上に立つ気持ちで挑戦すべき。私は開き直りつつあった。三度目に当たる今回は、ボーナスみたいなものよ。後生大事に抱えて守ろうとしても無駄、ぱっと使い切った方がいい。


 あの崖っぷちで啖呵を切ったみたいに、ね。私はどこまで行っても私、なるようにしかならないわ。本来はやり直しなんてないんだもの。

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