第3話:戦火を裂くは翠緑の刃

グラシアルにとって最も恐れていた事態が現実のものとなった。ギルドマスター、すなわち指揮官不在の危機的状況で、哨戒の兵より一報が入ったのだ。

「歪みより魔物が姿を現した。」

その一方告げた声は、今まで聞いたことがないほど震えあがっていたと言われている。

先のギルドマスター暗殺の一件で、ギルド内部には命令を下せる人間はおらず、指揮命令系統が完全に崩壊してしまっていた。

そんな中でも魔物との交戦は絶対に避けることができない事態だ。

疲弊し尽くした兵士たちは、ずいぶんと手入れされていないであろう埃の被った武器を手に取り、1人また1人とギルドの建屋を後にした。この時点で皆覚悟を決めていたのかもしれない…


魔物の出現が確認された場所に兵士たちが武器を手にし集結していく。

もはや作戦や陣形などといったものはどこにもなく、ただ一個人の総当り戦といったところだ。

周りを小高い丘に囲まれたその土地は、少し前まで民家が群れそして耕地が広がっていた場所だ。

人々が長い年月をかけ生活の基盤を作り上げてきたそんな場所でさえ、魔物の出現により家も耕地もそして家族でさえも理不尽に、そして無慈悲に奪われることになったのだ。

彼らの足元に散乱している家屋の瓦礫は、決意の元に集った彼らの心を深くえぐっていく。


すでに先発部隊が魔物の数をある程度減らしていたようだ、後発組は倒し損ねた魔物たちを確実に倒していく。

自然と武器を握る手に力が入るが、その一振り一振りは確実に事態を好転させていくものとなっていた。

次第にこちらが優勢となっていくと、部隊の士気は自然と上がっていくものだ。

このまま一気に押せるのではないか…度重なるピンチの中で見出した活路は、大層輝かしいものに見えたであろう。

そんな彼らの目の前に、地面を覆い尽くさんばかりの黒い魔物の影が姿を現したのだ。

もはや濁流のように一気に押し寄せてくる魔物の群れ、10人そこらの先発部隊では足止めをすることさえも叶わなかった。

一瞬で彼らは魔物の群れの中に飲み込まれて行ってしまった。


「まずいぞ!撤退だ!」

「いや.今更撤退なんて間に合わない…」

地形が完全に仇となってしまった。

逃げ道がないのは魔物だけではなかったのだ。

魔物が押し寄せてくるスピード、そして自分たちの撤退するスピードを考えると逃げきる事は到底できなかった。

もし少しでも長く生き延びたいのであれば、魔物に背中を向け全力で逃げればいいだろ…だがそんな者の末路は歴史書の片隅にも登場することなく、見るも無残な骸は野生動物の糧になるほかない。

もうどうしようもない…そこにいた皆の手から武器がするりと地面に滑り落ちていった。


「ギルドは命を対価に何かを得るものではない…それは武器商人の仕事だ…」

その声は魔物の群れが押し寄せてくる音ですら引き裂き、彼らの耳に届いた。

絶望に立ち尽くす彼らの前に1つの人影が立ちふさがる。ロングコートにレザーの靴、今のこの状況に恐ろしく不釣り合いな身なりの獣人だった。

きれいに手入れされた銀色の髪、そしてそれと対照的な深い群青の毛並みが彼らの目に焼き付く。

「お前は…?」

「糸魚川翡翠…もし生きていればこの名をもう一度聞くことになるだろう…」

そう言い残すと、糸魚川翡翠と名乗るは魔物の群れへと駆け出していった。

そんな翡翠の後ろ姿を彼らはじっと見守り続けることしかできなかった。


翡翠は手に武器を持つことなく魔物の群れの前に立ちはだかる。

翡翠の足元には木製の大きな柱の残骸があった。おそらく一般的な住居の一周も一回りも大きい建物はここにあったのだろう。

それを見たとき、ふと故郷のことが頭をかすめる。遠の昔に記憶の奥底に沈めてしまった翡翠自身の負の遺産とでも言えようか。

「思い出したくもない…」

明瞭かつ強い言葉で脳裏に浮かんだ風景を書き消そうとする。

そんな翡翠の頬一陣の風が撫でる。その風は周りの荒廃した風景も相まって翡翠の心に深く染み入る。

「らしくないな…」

その言葉は感傷的になっていた自分の感情を否定し、それと同時に翡翠自身が戦闘に移るための暗示のようだった。


「氷狼(ひょうろう)…」

翡翠の周りに強力な冷気が集まっていく。冷気はやがて複数の氷塊を形成し、その形は徐々に野生の狼のものへと姿を変えていった。

まるで意思を持っているかのように、その氷の狼は魔物に向けて走り出しその喉元に食らいつく。

急所をつかれた魔物は姿を保てなくなりその場で灰塵となり消え失せて行く。

10体の氷の狼が、魔物を1体ずつ倒していくがそれでは全く追いつかないほど魔物の群れは密になりこちら側に攻め寄せてくる。

氷狼だけでは対処しきれないことを翡翠は最初からわかっていた。だからこそ彼の手にはすでに一振りの刀が握られていた。

美しく緑色に輝くその刀身、身の丈ほどの長さのある翡翠の愛刀”カワセミ”だ。

向かって来る魔物に対しその一太刀を浴びせる、翡翠の太刀筋であれば一定範囲の魔物たちを一掃するくらい造作もないことであった。

「やはり数が多いか…」

翡翠の左目がほのかに光を帯びた。それに応じるように氷の狼の口元には、刃物のように研ぎ澄まされた氷が姿を現す。同時に狼特有のふさふさのしっぽを模していた尾の部分が、鎌のような形の鋭い氷へと変化する。

破壊力を増した氷狼、そして翡翠による斬撃で魔物の群れをなんとかその場で滞留させることに成功した。

だがその時間的猶予はかなり瞬間的なものだったと言える。

翡翠自身の力も無限ではない…氷狼を十体も意識支配下におけば、体力や精神力も確実に削られていく。

「もはやここは押し切るしかないか…」

翡翠の左目の光がいっそう強くなる。

まるで足かせが外れたかのように翡翠と氷狼の動きが変わった。

視認できるのは空中に煌く翠緑の一条の閃光、身の丈ほどもある刀が空中で鳥のようにその身を翻し再び攻撃に転じるのだ。

刀の一振り一振りが確実に魔物なぎ払い、わずかにできた空間に氷狼が突撃し魔物の群を引き裂いていく。

これほど無理のある戦い方を繰り返していれば、翡翠の体力の消耗は先程の比にならないものとなっていた。

やがて少しずつ氷狼の制御に隙ができてしまい、一頭ずつまた一頭ずつただの氷の塊へとなり果てていった。

徐々に劣勢へと追い込まれていく翡翠、だがその瞳に宿した光は衰えることはなかった。


「兄ちゃんらしくないよ?」

翡翠の耳に聞き慣れた声が入ってきた。

その声は翡翠が一番待ちわびていたものだった。

声が聞こえるとほぼ同時に、辺にいた魔物の群れが炎で焼き払われた。

「遅いぞ…」

白銀の髪、そして深緑色の見た目をした狼獣人…翡翠の弟、糸魚川瑠璃だった。

「1人で無理しすぎだよ?」

そんな瑠璃の手には一振りの剣が握られていた。その刃は陽の光を反射し深く、そして濃い青色をあたりに晒していた。

全く同じタイミングで2人が魔物の群れに対して駆け出す。

もはや小細工なしの真正面からの激突…魔物一体一体は取るに足らない存在だろうが、それが群となってこちらに押し寄せてくれば話は別だ。

翡翠との瑠璃の一振り一振りが確実に戦況を好転させていく。

どこでそのような戦いの術を身につけたのであろうか…もはや2人の太刀筋は常人では到底目で追うことすらできない領域へと達していた。

翡翠が操る冷気により、太刀筋上の水蒸気が一瞬にして氷結する。

その時生成された氷の塊を、翡翠は弾丸のように魔物の方へと発射する。

本来どれほど高速で氷の塊を放とうと相手にダメージを与えづらいものだが、翡翠は生成する氷の物性値を自分の好きなようにコントロールできる。

翡翠が発射している氷は硬度が異常に高く、そして高速回転を加えることで貫通力を爆発的に上昇させていたのだ。

一方の瑠璃であるが、瑠璃の剣には常に炎がまとっている。

この炎は両断した相手から周囲へと広範囲に延焼するようになっていた。

延焼といっても、もはやその火炎伝播速度は爆発と言っても過言ではない速度を誇っていた。

氷を縦横無尽に操る翡翠に対し、瑠璃は炎の制御に関し長けていた。

一気に広範囲を焼き尽くすことのできるその炎は、こういった多対一の場面において非常に有効なものとなっていた。


確かに翡翠たちの力だけでは、魔物の群を一時的に滞留させることが限界ではあった。

だがそれだけで十分だったのだ。

本来、これほどの群に対してたった1人で立ち向かうことなどただの無謀というものだ。

どれだけ熟練した兵士であっても数秒とて耐えることはできない。

だが、彼らにとってはこの数秒は戦況を大きくひっくり返す乾坤一擲の一撃を放つには十分な時間だったといえる。


翡翠が瑠璃に目線だけで合図を送った。

瑠璃は魔物の群のど真ん中に身の丈ほどの火球を打ち込んだ。

火球の軌道上、そして着弾地点の魔物が一瞬にして消し飛んだ。

「悪いが、一瞬で終わらせる…」

翡翠の両目の光が強くなり、駆け抜けた後には琥珀色と翠緑色の残光が尾を引いていた。

それはまるでこの戦いを終わらせんとする一陣の彗星のようであった。

その彗星は瑠璃が切り開いた道にその身を投じていった。

翡翠がカワセミを鞘に収めると、戦場特有の熱気に包まれていた周囲の気温が肌で感じとれるほどに下がっていく。

それは涼しいや寒いとは全く異なる、あえていうなら全身を刺すような痛みとそして体の芯から熱を奪い取ろうとする圧倒的な凍気だった。

すでに足元に微かに残っていた草花が瞬間的に凍りついていき、その範囲は急激に広範囲に拡大していった。

やがて空気中の水蒸気すらも凍り始め、結晶化した氷が太陽光に反射し煌びやかな風景を描き出していた。

翡翠によって極限まで圧縮された凍気、それは完全に翡翠が自身の制御化に置いていたのだ。


これほどのエネルギーを一瞬にして炸裂させることはおそらく翡翠であれば不可能ではないだろう。

だが、所構わず凍気を炸裂させて仕舞えば周囲の環境や撤退が遅れてしまった兵を巻き込んでしまうことになる。

また、可能な限り多くの魔物を引き寄せ一撃でより多くの魔物を巻き込む必要もあった。

そのためには、兵の撤退の時間を近接戦闘で稼ぎつつ、同時に魔物の群の流れを滞留させる必要があった。

しかし、近接戦闘で魔物の群を足止めしながら凍気を高精度にコントロールするというのは容易ではなかった。

それだけに瑠璃の戦闘介入によって翡翠の負担は大幅に軽減されたことであろう。

瑠璃の一撃は魔物の群に対しては大したダメージを与えることはできなかったであろう…しかし、その一撃は次の一手へと確実に繋がっていった。

翡翠が魔物の群の中心で圧縮していた凍気を一気に解放したのだ。


魔物の群の中心から凍気が拡散していく。そのスピードはもはや全力で走る魔物さえもあっという間に追い越していくほどの脅威的なものであった。

次々と体が氷漬けになっていく魔物、勢いのあった群も瞬間的に凍結していった。

あまりにも圧倒的な凍気は、範囲内の生きとし生けるすべてのものの生を徹底的に刈り取っていく。

もしかすると自分の体が凍ってしまったことにすら気づいていないものもいたのかもしれない。

地面を伝って凍気が広範囲に拡散していったのだろう、あたりはまるで雪山のように地面が氷に覆われてしまっていた。

さらに凍結した水蒸気が氷となって空から降り注ぎ、パラパラと音を立てて地面に落ちていく。

まさに一面が銀世界といえるような光景となった。


「終わったな…」

氷が煌く白銀の帳に一つの人影が映し出された。

「瑠璃、助かった…」

「兄ちゃん、無理はしないでよ?」

凍気の及ぶ範囲外まで撤退していた瑠璃と合流した翡翠は、グラシアルの兵が待機している場所へと向かっていった。


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