第9話 黒猫は魔物の仮の姿
店の床をほうきではくと、砂ぼこりが集まっていく。
「そっちにいくから、スレーはあっちに行ってね」
リズミカルにほうきを動かしながら、イーリスは黒猫に声をかけた。ほうきは花屋でも使っていたから扱いは慣れている。
「邪魔になっていましたね。すみません」
黒猫はイーリスの脇をすり抜けて、後ろへ移動する。
「……あれ?」
と、スレーは足を止めて振り返った。
「どうしたの?」
「イーリスさんから、なにか甘くていいにおいがします」
「いいにおい? ……あ、これね」
一つ思い当たって、スカートのポケットの中にあるものを取り出した。花柄の布袋だ。
「わたしの手づくりのポプリよ」
スレーは布袋に鼻を近づけてクンクン。
「わぁ。いいかおりですね!」
「花屋で売れ残ったお花をもらって、乾燥させて作ったの。これはラベンダーのかおり」
「ラベンダーですか。いいですね」
気に入ったみたい。他にも余っていればプレゼントしたいくらいだけど、今はこれだけしかない。あげることができなくてごめんなさい、と心の中で言った。イーリスもすごくお気に入りだ。
「見せていただいて、ありがとうございました」
スレーは、かおりをかいだだけで満足したようだ。
(もし、お花が手に入ったらスレーにも作ってあげたいな。……でも、ここは一日中暗いから、お花が育てられないわ)
もんもんと考えながら、ちりとりに砂埃を集めて、ゴミ箱の中へ。薄暗い店内では、しっかりゴミを取れたかはわからないけれど、イーリスの気分は爽快になった。
「よし、終わった!」
「掃除してくださって、ありがとうございます」
本棚のかげから顔をのぞかせたスレーは、ピョンと降りてきた。
「わたしの趣味みたいなものなの。店内が綺麗になると気持ちがいい! スレーもそう思うでしょう?」
「そうですね……ところでイーリスさん。普通に僕と話をしていますが、黒猫は怖くありませんか?」
「え?」
ふと、スレーから聞かれて、イーリスは目をぱちくりとさせる。最初にトンネルで見かけたときは、怖いというよりはふわふわの尻尾にさわりたいと思った。ずっと撫でていたいくらいだ。
「そんなことはないよ。中身がスレーさんだと知っているんだもん。それに、尻尾は手ざわりが良さそうだし、クリクリした目をしていて、とてもかわいい」
スレーは緑色の目を大きく見開いた。
「かわいい……? 黒猫は魔物の仮の姿と言われていますから、そのような反応は初めてです」
道端の子どもにでも、黒猫の姿でいじめられたことでもあったのだろうか。彼のまん丸の大きな目は悲しげな光をおびていた。
「中身はこんなに優しくて頼りになる人なのにね。噂や迷信で物事を判断しちゃいけないんだわ」
「……ありがとうございます。そんなことを言われたのは初めてです」
イーリスは黒猫にジッと見つめられて、視線が合うとふいに外された。思ったことを言っただけなのに、彼は恥ずかしかったのだろうか。
それよりも気になるのは。ふさふさと揺れる毛並みのよい黒い尻尾。ふにふにのやわらかそうな肉球。こぼれ落ちそうな緑色の瞳。
イーリスの中にふつふつとした感情が浮かび上がる。
(さ、さわりたい!)
ごくり、と唾を飲む。どうしても欲求をおさえきれない。
「スレーさん、背中をさわらせてください!」
本当はベタベタとくまなくさわりたかったが、背中だけにとどめた。
「い、いいですよ」
イーリスの熱意に、スレーは少し引いている。そのことにイーリスは気づいていない。
許可をもらったことしか、頭に入っていないのだ。
「やったぁ!」
嬉しくて叫んだ。おとなしくさわらせてくれる猫に出会う機会なんて、そうはいない。
「そんなに喜ぶんですね……どうぞ」
スレーが四つんばいのまま、背中を見せてくれた。
「では、いきます」
気合を入れて、手の神経に集中。
ゆっくりと優しく、猫の背中をなでた。
「あたたかい! やわらかい! ずっとさわっていたい!」
なでると気持ちがいい。数回なでて、毛並みの尊さをかみしめる。本当は数十回くらいはなでていたかったが。これ以上は我慢した。
「ありがとうございました」
お礼を言って、泣く泣く、このもふもふとはお別れだ。
「いえいえ」
黒猫は棚を伝って歩き、天井近くの棚まで軽々と登って行った。ふいに姿を消すこともあるし、動物になると、性格もそれに近づくのだろうか。
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