Ep.5 愁雨 | ウレイノアメ

【愁雨】ウレイノアメ…嘆き悲しむような雨、シュウウ


Chap.15

八月二十六日(金)雨。夜から豪雨になるでしょう。


時節処暑にして、生ぬるい低気圧の予感。

今日も今日とて僕はアトリエにいる。

英文法に四苦八苦する受験生の面倒を見ながら、いくつか進めておきたい作業をする。

いつか来るだろう日は、こんな、なんてことないタイミングで来るものだ。


メッセージを受信してスマホを開いた。


ーシンガポール赴任が決まったよ

ー九月に出発します


しばし作業の手が止まる。


前々から海外転勤の打診が来てると言うのは聞いていたが、このところ進展があるようなことは言っていなかったので、驚いた。


アミは昔から僕とは全く違う世界線で生きている人だ。

そして、創作に対する、ある種の崇拝的なリスペクトを抱えているタイプだ。

それがどんなジャンルであれ、生まれてきた作品そのものを全力で受け止めようとする。さらに、それが完成に至るまでのプロセスや、作者のバックグラウンド、当時の心境など、この作品を構成する一つ一つを深く理解しようとする。(彼女曰く、作品そのものよりも人間らしくてドラマチックなんだとか。)

それこそが彼女の一貫したスタンスで、つまるところそれがアミ自身の生き方なんだろう。


教授同士の交流か何かで、この研究室に初めてアミが来てから、僕たちが恋に堕ちるのに、さほど時間はかからなかった。

彼女と会話するたび、僕の作品を聴いた時の顔を見るたび、僕はアミに、深く深く堕ちていった。


それ故に問題が生じる。


いつしか僕の作品を紡ぐ要素が全てになってしまった。

彼女はひどく悲嘆した。

それではいつか行き止まりになってしまうと。

無限に広がっているはずだった僕の創作の宇宙が、自分のせいで壊れてしまったと。

それはどうしても解けないパラドックスだった。


そして此処は

どこにも行けなくなった僕たちの、たどり着いた距離。


僕は僕の無限のそらを手に入れた代わりに、天空そらを自由に飛ぶあの美しい鳥を、もう二度とこの手に抱くことはできない。


最後に挨拶に行くよというメッセージが点滅している。


待ってるよ、アミ。

この子が、首を長くして。


「先生?…アミヌナ、次いつ来るかな。お盆の前に会ってから、しばらく会えてないんだ。仕事、忙しいのかな。また曲を書いたんだ。聴いてほしくて。」


ユンギのような若き創意の塊が、ミューズのような歳の離れた女性に夢中になるのは、水が流れるように自然なことなのだろう。相手がアミならなおさらだ、なんて、かつての自分を重ねてしまうほど、自分はどうやら歳をとったらしい。


—よくないな


2人には2人だけの世界がある。

僕には見えない世界で2人だけの音楽が流れているんだろうから。


—今から伝えることの結末は、オレが決めることじゃない


「アー、そのことなんだけど…。」

「先生?」

「アミは、最後に、八月最終週くらいに顔出せそうだって」


「最後…ってなんですか?」


「転勤だそうだ。海外に。今さっき正式に決まったって、連絡が来たよ。ユンギも、お世話になったから、挨拶しに来なさいね。」


「…うそ、ですよね?ヌナはそんなこと一言も…」


ユンギが激しく動揺しているのがわかる。

いや、動揺してるのはユンギ1人じゃないな。


ーオレもだよ


この距離感に、随分慣れたつもりでいたけど、

自分にもまだこんなに、動く場所があるなんてな。


「寂しくなるな。でもアイツはいつもそうやって、自由に飛んで見せてくれるから。アミが考えて決めたことだろうし、一生会えなくなるわけじゃない。ユンギは勉強に集中して、今やるべきことをやりなさい。」


「っ!?」


厳しい言い方かもしれない。

オトナはみんなこうやって、正論を振り翳すから嫌いだった。


—ずるいよな

今のユンギの表情には身に覚えがある。


「大人はみんなそう言って!やるべきことってなんですか?!

 今のこの気持ちが、僕にとって全てなのに!

 僕はまだ!そんな風に思えません!絶対に思わない!思いたくないっ」


「ユンギ!待って!」


完全に取り乱したユンギがアトリエを飛び出す。

もう少しタイミングを図るべきだったか?

でも、遅かれ早かれわかってしまうことだ。

自分だけが知らないというのも、それはそれで傷つけてしまうだろうから。


ー今この気持ちがすべて


あぁ、その通りだ。


何も間違ってない。

だからこそ、どうにもならないことに絶望するんだ。


この美しい羽衣のような現実を

ユンギは受け止めきれるだろうか。



Chap.16


頭を殴られたような衝撃が

何度も反響して止まない

高温注意報の自治体放送が

不協和音を奏でて吐き気がする


お願いだよ

誰か嘘だと言って

嗤ってくれよ

全部真っ白になるまで

最初から全部嘘だったほうがまだマシだ

夏が見せた幻だと

そんなものに現を抜かしてバカじゃないかと


甘美な音楽で満たされたセカイ

毎夜生まれるノクターン

いっぱいになった五線譜ノート


貴女がいなくなるなら

こんなものどれもこどもの

手慰みあそびじゃないか


あぁ、なんて滑稽だ

自分だけが、ずっと続くと信じて

終わりかけた夏に、まんまと取り残された


曇天そらを睨んでも

何も帰ってこなくて

貴女に会いたくて

どうしようもなくなって

飛び降りるように乗った

いつも貴女が帰ってしまう

家とは反対方向の電車に



Chap.17


日中にシトシト降っていた雨は、夜になるにつれて激しい雨に変わっていった。

今夜の会食は天候も鑑みて既に健全な時間で終了している。

課長特権の交通費交際費を使って、今夜も迷える部下を家まで送ることにする。

彼女は少し誤解しているようだが、僕が誰にでもそういうことをしてるわけじゃない。車の中はいわばカウンセリングルームのようなもので、個人面談1 on 1 meetingにはうってつけの場所となる。込み入った話や特別にケアが必要な部下を積極的に送迎していると思ってもらって構わない。まぁ、1人で帰ってもつまらないと言う理由も、ちょっとばかりあるんだけど。


「今日も遅くなってしまって、悪かったね。」

「いえ、今日はまだ9時前ですから、早く終わったほうです。すごい雨になってたので送っていただいて助かりました。」


「うん、週末ゆっくり休んで。来週からは突貫準備でバタバタすると思うし。」

「はい、ありがとうございます。」


いよいよ八月も終わる。

僕自身も来週は準備に忙しくなりそうだし、気になったことは、時間のあるうちにケアしておきたいが。

ガードの固い彼女は、果たして話してくれるだろうか。


「…アミさ、全然嬉しそうにしないじゃない。いつもの毒舌もないし。何かに引っかかってる顔してるのも可愛いけど…なんで?。」

「…誤解ですよ。課長の勘違いです。」


「僕だって、アミのこと推薦して連れて行く手前、一応心配してるんだからね?」

「ありがとうございます。人攫いにあって売り飛ばされる予定だと周りに伝えてるところです。頑張りますから、心配しなくても大丈夫です。」


「何か戸惑っていることがあるなら、ちゃんと相談するって約束して?じゃないとこのまま本当にさらってくぞ。」

「…マジな顔で言うのやめてください。内部監査で一発アウトになりますよ。」


「じゃぁ、おやすみ♡」

「お疲れ様でした。送っていただいてありがとうございました。」


おやすみなさい、と言ってアミが車を降りていく。

目ぼしい回答は得られなかったが、まぁ本人がああ言っているなら、それ以上は追求しないでおこう。


今夜の雨は、線状降水帯からくる大雨。

九州地方はこのところ毎年洪水や土砂崩れに泣いている。今夜も予断を許さないだろう。

都心もこの通り、バケツをひっくり返すような雨が降り始めている。


出しますね、と運転手が言った時、雨で烟るドアミラーに人影が映った。


アミと、もう1人、高校生?


おやおや、彼は傘もささずに…


「えっ!うそ、ヤー!!キャー♡」

「なっ、なんですか?!」


運転手がオロオロしているのを無視して、僕は安堵する。

なんだ、これが原因だったのか。

よかった僕じゃなくて。


なんていうか、うん。

夏、なんだね、アミ。


もう一度、出して大丈夫ですか、とおそるおそる運転手が尋ねている。

夏いっぱい胸いっぱいの僕は、とりあえずここではないどこかへ車を発進してもらいたい。


「はい、お願いします〜」

「えっと、行き先は…」

「ここではないどこかで!」

「いや、えっと、行き先教えてもらわないと…。たまにいるんですよね、こういうお客さん…困ります。」

「じゃぁ恋の片道切符で!」

「どこですかそれ?!」

「ヒャッヒャッヒャッ!」



Chap.18


「ユンギヤ!?どうしたんだこんなところで!」


蒼白な顔をした青年が待っていた。

多分、私のことを。

まさか、この雨の中、ずっとここに?


雨は容赦なく吹き込んでいて、庇などとうに意味がない。

慌てて傘にユンギを引き込む。


「びしょ濡れじゃないか…!風邪引いたらどうする?!」


豪雨が容赦なくボリュームを上げて、湿度100%の傘の内側まで反響する。

ユンギの濡れた黒髪から覗く瞳が、青い光を帯びている。


「…ヌナ、行くの?遠いところに。知らなかった…。」


私の出発が決まったことを、ジュンに聞いたんだろうか。

怒っているの?今まで言わなかったことを?


「ちゃんと決まっていなかったんだ。伝えられてなくて、ゴメン。

 でも、もう遅いし、こんなところにいちゃダメだ。

 家の人には連絡してるの?早く家にかえらないと…」


この大雨だ。

きっと親御さんも心配するだろう。何よりそんなに濡れたままで体が冷えてしまったら、いくら若者でも体調が悪くなる。

まさか自分のせいでそんなことにさせてはいけないと気持ちばかりが焦る。


そうしてオトナはすぐに平然を装うからいけない。

その場をうまく取り繕うことばかりに頭をまわすから、

だから…


「ずるいよっ!」


ユンギが何かを爆発させる。


「ヌナはなんでもわかったふりして、またそうやってオレのこと子供扱いする!」


本当はわかってる…彼がなぜここにきたのか。


「オレだけが!こんなに毎日あなたのことばっかり考えてる!」


逃げずに、耳を傾けるべきだ…私の、気持ちにも。


「オレだけが、あなたが毎晩恋しくて…」


あぁ、もう、本当に…キミは、そうやって…


「オレだけが!ガキだから!」


違うんだよ…ユンギ、私は…


何かが止め処なく押し寄せている。

胸が痛くて、息がうまく吸えない。

ユンギの顔は酷く青白いのに、沸るように熱い眼差しをむけてくる。

このままじゃ、決壊してしまう。

これまで我慢していた何かが。

取り繕った何もかもが。


びしょ濡れのユンギが力無く手を伸ばす。

頬に触れたそれは、酷く冷たい。


もう耐えられないとでもいうように、強く引き寄せられる。

傘が川のようになったアスファルトに落ちて、揺れる。

激しい雨に浸かりながら、もうどこにもいけなくなった船みたいに。

まるで今の私みたいに。


「行かないで… あなたがいなかったら、きっと耐えられない…」


冷たいシャツ越しの熱い夏

もう感じなくなったはずの季節たち

間に合わなかったポーカーフェイス


「好きだよヌナ。もうどうしようもないくらい、あなたが好き」


—あぁ、もう、ダメだ


これ以上は我慢ができなくて、

まるで息継ぎをするように

キミの頬に手を伸ばした。


もどかしく触れた唇は、すぐに熱を帯びて

頭の奥を溶かして行く


愁雨のトッカータ

2人分の鼓動はフーガのように


—キミだけじゃないよ


他にはもう、何も聞こえない。




Chap.19


ーアミのところに?あぁよかった…無事だった。

今日はジュンのアトリエに泊まることにしてくれる?

ーわかった。本人からも家に連絡させておいて。



もしもし、母さん?

うん、雨がすごいから、今日は先生のアトリエに泊めてもらうよ。

大丈夫、連絡遅くなってごめんね、心配しないで。



「悪い子だな…。」

「別にこれくらい。なんてことないよ。」


「うちに連れこんだりして、私捕まるのかな」

「いやいや、何する気なのw」


「信じられないだけだ、キミとこんなことになるなんて。」

「嫌ですか?僕とこんなことするの。」

「いじわるな聞き方だな。」


「ヌナ、キスしたい」

「さっきもしたよ」


「寒くて覚えてないから」

「んっ…」


「ヌナ…この続きもしたい…」

「まってっ…」


「もう、苦しい…ヌナが好きすぎて…」

「ダメだよ、これじゃまるで…」


「なにがダメなの?」

「ん、んっ…」


「じゃぁこのまま、目でも瞑っておいて?」

「…バカ」


露わな白い肌

降らせた香雨

洩れ出る吐息

熱く潤んだ瞳

何度も重ねた

行かないでと

何度も何度も


「オレだけじゃないって…言って…?」

「な…に、が?」


「ぼくのこと好き…ですか?」

「んっ」


「ヌナ…?」

「それは、言わない…んっ、あっ」


「ズルいな…ほんとに、ヌナは…」


貴女の不在と引き換えにした、甘い記憶には

今も雨が降り続いている。


僕の短い夏は終わった。

サヨナラの代わりに、貴女アメの香りだけ残して。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る