Ep.4 雨潸潸 | アメサンサン

【潸潸】サンサン…涙をさめざめと流す様


"雨 潸潸と この身に落ちて"*1


時代の終止符

焼け野原の葉月

一人の少女が蒔いた種は

人々が口ずさむ唄となりて咲く

先人が幾度も掘り起こした土の中深く

眠る蝉は夏の夜の出口もない

墓石のように聳え立つ塔で

狭まる空を知らぬ幸せ

それでも朱夏、容赦なく降り注ぎ

光、雨、星、音、言葉

燦々と満たすだろう

キミの世界を

燦々と、唯、愛の如く


『朱夏』ー 美空ひばり 没後35年 へ寄せて

*1 引用 「愛、燦々」



Chap.12

八月七日(日)晴れ


作業室のピアノでいくつか作った曲を弾いてみる。

僕の曲に、うっとりと聴き入る

ヌナが、キレイだな。


貴女の息遣いを感じながら

貴女のための曲を弾いている

僕の呼吸と重なって、二人で音に溶けていって

まるで、一つになった気分だ。


少し長く弾こうか。

この曲が終わったら、魔法が解けて、帰ってしまうでしょう?

今この時間だけは、僕のもの、


なんて、ね。


知ってる?

僕の中が貴女でいっぱいで苦しい。


はやく大人になりたい。

大人になったら、答えがわかるんでしょう?


大人になったら、貴女を、

貴女を帰さなくていい。


最後の音の余韻が終わる前に、ヌナを見上げた。

凜とした瞳が、淡くなって、静かに揺れているのが見えた。


「遅くなっちゃったな。帰ろう。」

「明日、仕事なの?」

「そうだよ。明日はみんな月曜日。the blue Monday〜♪」


アトリエの電気を落としながら、ヌナが歌う。

僕はこれまで一度も月給取りの企業勤めサラリーマンになって週休二日を生きる未来を想像したことがない。特段、両親がアーティストというわけでもないし、むしろごく一般的な会社員の家庭で育ったはずなのだが、どういうわけか漠然と想像する未来に、”the blue Monday”は一度も登場したことがない。


初めてこのアトリエで先生から紹介された時、彼女はクリエイティブな世界の人だとすっかり思いこんでいた。何故か、の空気をもっているように感じたから、会社勤めと聞いて大層驚いたのは言うまでもない。

ヌナは芸術学部もあるこの大学の、一般学科にいたようだけど、どんな風に今の進路を決めたんだろう。どうして今も研究室ここに来ているのか、いつか教えてくれるだろうか。


外はすっかり夜が広がっていた。

今日は随分長いことピアノを弾いていたみたいだ。

日中、鉄板焼きのように焦がされた地面はまだ熱を発している。行き場を失った蒸気が充満していて息苦しい。

上弦の月が西の空低く、足早に沈もうとしていた。

気づけばあっという間に八月が始まり、夏休みも折り返しを迎えている。

頼んでもいないのにどこからか訪れる焦燥感は、今まさにピークを越えようとする蝉時雨のせいだけではない。


(この前キスしちゃったの、呆れてるかな…。)


今日のヌナがだったから、尚更に不安になる。

次はいつ会えるかとか、会えない時に電話していいかとか、浮かぶ言葉はどれもガキっぽくて悔しい。それでもまたすぐ会いたくて、もう待ちたくなくて、こんな時はなんて言えばいいのか、正解がわからなくて、メロディはたくさん浮かぶのに、言葉が見つからない。


(ああ余裕ないな、俺…かっこわる)


「ユンギヤ?夏休み、いつまでなの?」

「あっ、いや、今年はぴったり八月三十一日まで。」

「そっか。夏も後半戦だな。すでに暦は立秋。空の上では秋が始まってる。ここからは、残暑お見舞い申し上げるんだぞ。」


「ヌナの夏休みは?」

「会社員に夏休みはないようなものだな。どこかで3日間休めと言われるだけだ。」

「そうなんだね。」


「季節は、大人になって失くしたものの一つ。

 夏の終わりの切なさも、

 秋の美しい色彩も、

 冬の甘い旋律も、

 春の期待と焦燥も

 みーんななくなった。あんなにキレイにこの世界を満たしていたのに。」


ヌナが少し悲しそうに笑っている。

帰り道の公園。

ここを抜けたらもう駅に着いてしまう。


「だから、ユンギの曲が好きだよ。

 そうやって見えなくなったものが、まだここにあるんだと教えてくれるから。」


真夏の夜の公園。

湿っぽい空気に混じった花火の匂い。

もう二度と戻らない今だけの特別。

届きそうで届かない憧れ。

また貴女はそうやって、欲しい言葉をくれるから。

また僕は、何も言えなくなる。


「ユンギヤ、ほら」


ヌナが夜空を指差している。


「夏の大三角形、言えるようになったか?」

「デネブ、ベガ、アルタイル」

「正解。織姫と彦星と白鳥座。中心を十字につなげばノーザンクロス、北十字星。

 日本ここからは見えないけど、南天に上がってるのがサザンクロス、南十字星。」


今日は月が沈むのが早いから、星がよく見える。

夏の夜空が騒がしい理由を、ヌナが教えてくれる。


「見えないほうが有名なんて、変な話じゃない?いつも見えてる方が加護がありそうだけどなぁ。…って星の話はつまらなかったか?」

「いや、天体観測なんて、夏っぽいなって。すごく、楽しいよ。」


「たまには音符の宇宙だけじゃなくて、こっちも見上げるといい。

 自分が悩んでることなんて、大抵はちっぽけなものだ。」


星を紡ぐようなキレイな旋律が、貴女といると聞こえてくるよ。

他にはどんな音色がきこえるの。

確かめても、いいですか。

もっと深くまで。


「あー、もうこんな時間だ。ごめん、長くなったな。帰ろう。」


帰りたくなくて、慌てて手を繋ぐ。


「ヌナ…あのさ」

「ん…?宇宙人でも呼びたくなったか?」

「違う!」


誤魔化される前に、精一杯抱き寄せる。

このまま今が終わってほしくないから。

このまま深く貴女を知りたいから。


「だめだ、ユンギヤ、帰ろう?家の人が心配する」

「嫌だ…」


早く大人になりたいのに、夏が終わってほしくないよ。

それが苦しい、こんなにも


「僕はどうすればいい。どうすれば…」


腕の中で、僕を見上げる瞳が揺れている。

そんなに早く大人になってはダメだと、ヌナが言う。

夏が終わっても次の季節が何度も来るからと、今やるべきことに集中しろと。


ーそんなの、何の答えにもなってないよ


どうしようもなく腹が立つ。

自分に。この夏に。何もかもに。


許可を取るのも忘れて、感情のままにヌナの口を塞いだ。

嫌なんだったら僕を殴って離れてくれればいい。

いっそのこと先生のことが忘れられないとか、僕は恋愛対象外だとか、なんでもいいから傷つけてくれた方がいい。

こんなに熱い余韻を移し合って、

2人で切ない鼓動を奏でて、

そのキレイな指が僕のシャツを掴んで、

今夜は貴女も、目を瞑っているくせに。


今だけ時間が止まればいいと思っているのは

僕だけですか。

貴女も、同じ気持ちだといい。



Chap.13

八月二十二日(月)高温注意報。週末にかけて天気下り坂。


「はい、じゃぁ各自提出物出したら帰っていいぞ。登校日は今日が最後だ。じゃぁまた九月に。始業式遅刻するなよ。」

「起立、礼、さよーならー」


あぁめんどくせえのがやっと終わった。

教室を出ようとすると、リンが机に突っ伏しているのが見える。いつも元気な彼女にしては珍しい状況だ。


「りん、大丈夫か?」

「あぁ、うん、だいじょぶ…」

「その顔色は大丈夫って言わない。歩けるか?保健室行くぞ」


保健室に行くのは気乗りしないが、文句を言ってる状況じゃない。

気乗りしない理由は、まぁ、行ってみれば分かる。



「リンは軽い貧血かな〜、心配しなくても、少し寝たらよくなるぞ♡」

「よかった…」

「さ、そうとわかれば出た出た。むさい男2人に見下ろされてたら嫌でしょうが。」

「わかってるよ…」


ベットの仕切りカーテンをリズミカルに閉めているのは、うちの養護教諭のテイ先生。すらっとした形のいい鼻筋と整った顔に加えて、スーパーフランクな雰囲気が男女ともに人気がある理由だ。


「ユンギ、ちょっと待ちな。アタシに、隠してること、あるよね?」

「…ないです。」


「この休み中に何があったか正直に吐け。」

「…何もないよ」


「ハハーン?一学期にここでさんざんサボらせてやったのは誰かしらね?」

「…。」


だから来るのが嫌だったんだ。

この妙に勘がするどい先生は、ジュン先生の友人でもあり、何かと僕のことも気にかけてくれているのだが…


「俺受験生なの、先生も知ってるだろ。そんな暇ない。」

「知ってる。けど賭けてもいい。なんかあった顔してる。保健室の先生なめてると本格的に洗いざらい暴くぞ♡」


「いや、むしろ先生、どうすれば早く大人になれるか教えてよ!このままだと間に合わない。」

「ほっほっほう?年上かな?このユンギが恋したって、どんだけいい女なの?妬いちゃうなぁ」


「焦りは禁物よ。自分も、相手も、大切にできる大人にならないとね。一方的に気持ちを押し付けたって上手くいかないものだぞ。で、何、どんな美人?何個上なの?その感じはジュンのアトリエか?いい?わかってると思うけど、男のエチケットは常に常備しなさいよ?」


「…お、おう。」


一方的に捲し立てられてラップか何かを聞かされているようだ。

ちょっといい事言った後に、すぐこれだから困るよ。

これ以上あれやこれや色々聞かれる前に、逃げよう。


「リンのこと頼みます。じゃぁ失礼しますっ!」

「ヤー、ちょっと待ちなさいよ!」


俺は全速力で保健室を後にした。



カーテン越しに深いため息が聞こえる。


「ゴメン、聞こえちゃったよね。」

「…っく、せんせいって…意地悪、ですよねっ」


聞かせたい訳じゃなかったけど、夏休みが終わろうとしてる手前、夢から覚めてもらわないといけない子も何人かいる。

ベットに腰掛けて泣き顔のリンを見つめる。


「そうね。でもリンも受験生なんだから、自分を大切にしないと。体壊したら意味ないのよ。貧血は本当なんだし。」


それにしても、ユンギはあれだけ色気をふりまいて、本当に何があったのか。この年頃でこの時期に起きる変化としては、極端に針が振り切れてしまうこともあるから、少し心配ではある。勉強は順調なのかな。後でジュンに探りを入れてみようか。


「ユンギが糖度マシマシで、あんたも辛いわね」

「…うぅっ、ユンギ、どんどん変わって…わたし、くやしっ」

「泣き止むまで業務時間返上するくらいの優しさは、オレも持ってるから、気が済むまでそこにいていいぞ。」


「ううっ、ううう」


「大丈夫だ。これから、たくさん恋して、たくさん切なくなって、みんなキレイになるんだから。たくさん泣いときな。」

「ほんっと…せんせい、いじわるっ…」


高温注意報の発令アラームが届く。

午後は部活組の熱中症ケアに集中しないと。


ーやれやれ、それにしても、夏、だよね。



Chap.14

八月二十四日(水)曇り。週末にかけて発達した低気圧による線状降水帯が発生。各地で豪雨に注意。


いわゆる社会一般的なお盆休み週が終わり、社内もいつもの活気が戻ってくる。私はあのがらんとした休み中の誰もいないフロアで仕事するのも好きなんだけど。営業日が少ない分、当月着地と、再来月の予算会議で八月後半はバタバタと慌ただしい。忙しなく過ごしているうちに、今月のカレンダーはあと5営業日を残して月末締めだ。


課長の呼び出しがかかる。

重要伝達事項が2つあるとのこと。いつものように会議室に向かう。


1. 金曜夜の会食は18時スタートに早まりそうだから遅れずに同席せよ。

2. 例の件、返事の期限が来たから回答せよ。


1つ目は2つ目の前座にもならないくらいどうでもいいことだった。

最初から早く返事を聞かせろと言えばいいものを。


「夏が終わったらスタート、ですか?具体的には…」

「うん、本当は下半期予算だったから、七月からだったけど、準備が間に合ってなかったし、待ってもらってるんだ。それでも第四四半期からは本格的に始めないといけない。

 それ以上は待てない。

 準備、進めるよ?いいね?」


「はい。大丈夫です。ご配慮感謝します。」

「うん。引き続き、活躍を期待してる。何より、楽しみだ。現地のメンバーも喜んでくれている。」

「はい…。」


いつもは喧しいジンさんが、しばし沈黙する。

私の顔をじっと見ているのだろう。

こういう時にポーカーフェイスが欲しいと心から願う。私が習得したいスキルTOP3のうちのひとつだ。もしかしたら、この人には一生通用しないかもしれないが。


「アミ。向こうでも僕といっぱい仕事しよう?毎日、脳みそに汗かくくらい。

 そして、それがキミの希望だ。そうだよね?」

「ハイ、おっしゃる通りです。」


「じゃぁその顔は、どうしたの?」

「…いいえ、別に。少し緊張してるだけです。ジロジロ見ないでください。」


「ふふ、僕の胸で泣きたかったら、いつでも歓迎さ。」

「結構です。余計な心配も詮索も不要です。失礼します。」


なんとか退出の台詞を吐き出して、会議室を出る。

廊下の窓ガラス越しに、ビル街を見下ろす。

曇り予報だったはずのそこには、静かな雨が、潸潸と降っていた。


この夏の始まりと同時に狂ってしまった私のフィルターは

後半にかけて益々おかしな様相だ。


サヨナラを言うためのポーカーフェイスが

必要になるとは思っていなかった。


深く息を吸わなければいけない。

迷いも、不安も、懸念も、胸の奥を締め付ける何か知らない感情も、全部吐き出してしまわないといけない。


新天地はアジアのIT都市、シンガポール。

片道切符のフライト。

現地への出発は九月早々になるだろう。


夏の終わりのカウントダウンとプレイバック。

夕立、夕焼け、花火、星空

夜の公園、繋いだ手、汗ばんだ制服

季節を甘く溶かす、忘れていた何か。


それは彼の紡ぐ美しいメロディに乗せて、

何度も何度も、私をかき乱している。


---

*Chap.12 冒頭 曲イメージ … 3つの詩的なカプリース 第3曲 ため息 ー Un Sospiro / Franz Liszt


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