Ep.3 洒涙雨 | サイルイウ
【洒涙雨】サイルイウ … 七夕に降る雨
Chap.8
七月十七日(日)日中は晴れ 午後から夜にかけて激しい雨
「最近の日本の夏の雨は、恵みの雨どころか災害じゃないか。治水100%の現代でこんなに毎年洪水が起きてたら、次はなんて呼ぶのよ?操水とか?」
「それは、考えたことありませんでした。キム課長はいつも発想が豊かですね。」
「ヤー?!アミに褒められると背中に寒気が走るんだけど?
毒舌で来てくれないとドキッとするよ、やめてほんとに。」
今日は日曜日だ。
もちろん本来休みのはずの日曜日だ。
しかも、みんな思い出してほしい。
休日を返上して出勤しているのは、急遽病欠した同僚の穴を埋めるためであるが、課長に呼び出された私に、これといって予定がなかったというのも虚しい話だ。
「アミ、怒ってるの?それとも疲れてるの?そんな事言われたら、好きになっちゃうよ?」
「ハハ。突然の呼び出しで、大切な休暇を潰されたからって、ぜーんぜん怒っちゃいませんよ。キム課長にとって私の予定なんてゴキブリみたいなものでしょうし。」
午後から降り始めた雨は、夜には本格的な土砂降りとなっていた。仕方がないので課長のハイヤーに同乗して、帰宅の途に着く。
サラリーマンのくせに贅沢だって?
いいえ、これくらいはやってもらわないと割に合いませんよ。土砂降りの雨音より騒がしい上長の相手は。
「わー、こわーい、怖いのにすごい安心するー、やだー、もーアミー、好きー」
「少し黙りましょうか。私サラリーマンなんで、上司が顔だけでも文句はないですよ。」
「褒めてるの?なじってるの?どっちなの♡」
この顔だけはワールドワイドにハンサムな課長 ー
あなたは最高の上司だよ。この妙なテンションを除けば。
「で、顔だけの上司からのマジな話だけど、あの件は考えてる?」
ーあぁ、やっぱり、聞かれると思った
「返事は待つけど、僕と一緒に来るよね♡」
まったく、この人は。
私が断らないことなんて、初めから計算済みのくせに。
それでいて、考えてほしいだの、返事は待つだの白々しいことを言うからムカつくんだ。
ジンさんのチームに呼ばれて、一緒に仕事をするようになってから、本当にたくさんのことを学んだ。いい時も悪い時も、誰かと働くということの楽しさを知ったのは、彼と仕事をするようになってからだし、もっとたくさんのことを教えてほしいと今も素直に思っている。さらにこのヒトは、部下の成長も妥協しないが、自分の成長にもアグレッシブだ。
端的に言えば、ジンさんが自身の次の成長フィールドに移行するにあたり、一緒に異動してほしいとオファーをもらっているわけだが…
「もう結論は出てます。でもまだ返事はしません。せいぜいギリギリまでヤキモキしててください。」
「ふふっ、惚れた弱みだな〜」
ジンさんは、私のどこが気に入ってるんだろう。
一度真面目に聞いたこともあるが、珍しく真剣な目で毒舌なところだと返された。
どういう意味なのか、未だにわかっていない。
ただこの人が
でもきっと私の仕事の仕方を評価しているということにしておく。
だとしたら、こんなに嬉しいことはない。
それが私が唯一、妥協しないでやってきたことだから。
「あぁ、好きだよ、アミ。早く返事して。」
「セクハラで訴えたら勝てるなこれは」
「今日は帰るの?♡」
「帰ります。…てゆうか今日は、とかいうのマジでやめて。もう泊まりません!あの時だけです!ほんとに冗談がすぎます!」
「冗談と本気のハーフ&ハーフ♡セクハラと部下思いの間♡」
「…ウザ」
「あぁ、もっと言って?♡」
「…キモ」
「あぁんっ、イイ!♡」
「あーもうマジで訴えよか、この変態上司!!!」
「ヒャッヒャッヒャッヒャッ」
じゃぁまた明日といって、車を降りる。
ドシャドシャとひどい雨が傘を殴る。
今日は日照り続きの夏に、久しぶりに降った雨だった。
あの日のスコールは、まだ肌に新しいけど。
—
大地が白く烟る雨に、濡れたキミの白い肌と、シャツの白。
ユンギはどれを選んだかな。
病欠の穴は明日も埋めることになるだろう。
—私にも、約束していることがあったんですよ、課長
残念ながらそれは、しばらく果たせそうにないのだけど。
Chap.9
七月十九日(火)晴れ 熱中症に注意
ー
雨に無数の名前がある事を知った。
アミヌナはどれを選んだのかな。
博識な彼女のことだから、洒落たものを選ぶかもしれない。
この週末は雨が降ったのに、待てど暮らせどヌナは来なかった。
別に待ち合わせしてたわけじゃないから。勝手に期待してたのも、俺がコドモだからだし。
すでに太陽は頂上に達し、炎天。
燃ゆるような地面からミミズたちが飛び出している。
自治体放送が、熱中症警報を拡散して、ぼくは急いでアトリエに駆け込んだ。
「ハァ。」
「ため息つくなよユンギ、傷つくだろ〜」
「…別に先生のせいじゃないし、まだ何も言ってないし。」
「どうしたの、そんなに、ため息ついて?」
雨が降る日を待ち望んだのは、生まれて初めてだった。
土砂降りの雨を見て心が躍るなんて、これからも早々ないだろう。
こんな結果になるくらいなら、あんな曖昧な口約束、しなきゃよかったんだ。
「アミヌナに…会えなかった。約束、したのに。」
「…で、この曲ができたの?この二日で?」
「はい…。」
「すごいな。タイトルは?」
「…洒涙雨」
ー
本来は七月七日に降る雨の事を言うようだった。
牽牛と織女が、年に一度の逢瀬が叶わず、泣いているような雨。
リズムとメロディが浮かんだ後に、涙色の大雨が見えたんだ。
この曲にぴったりだった。
先生が優しく微笑みながら、何かを懐かしむ顔をした。
とりあえず勉強、みようか、と言われて、僕は参考書を開く。
これでいいんだ。
僕は受験生だから。
夕焼けと、花火と、繋いだ手の感覚が、浮かんでは消えて忙しなくて、
会いたくて、苦しい。
僕は受験生なんだよ。
どうしてくれるの。
Chap.10
七月二十三日(土)晴れ 日本列島広域で、高温注意報
開きっぱなしの扉。
ジュンがまた本を読んでいる。
いつも通り空気が変わるのを待つ間、ストーカーのように背中を見つめる。
ほんと、好きだよね、本。
本を読んでいるジュンも、ジュンを待つこの時間も、どちらも好きだからいい。
キミのその宇宙に、今日はどんな世界線を紡いでいるのか。
「ジュナ」
「ヤァ、アミ、久しぶり。って言っても、2週間ぶりかな?最近よく来てくれて嬉しいよ。」
「ちょっと来すぎかな」
「いや?もっと来てくれていい」
社会人になってからもこのアトリエを訪れる理由は、
ジュンのメンタルチェックー3割、
しがないサラリーマンは他にいくあてがないー2割、
そして残りは…どうしてだろう。
どうしてここに来たいのか、その理由を、まだうまく言葉にしたことがなかった。
「今日ユンギくるよ。時間あったらまた英語以外の教科見てやってくれない。」
「あぁ、うん。もちろん、いいよ。」
「ありがとう。助かる。」
ユンギの志望は作曲学科だと聞いた。技術試験はまず問題ないようだ。もう教えることはほとんどないから、最近はもっぱら学科試験対策だと、ジュンも笑う。
「いい結果になるといいな」
「ふふ、本当珍しいね。アミが気に入るなんて」
「珍しいとは、失礼だな…」
その自覚はなかった。
ジュンが面倒を見ている子はこれまでも何人かいたし、アトリエで遭遇したらそれなりの態度を持って接していたのだけど?
「ユンギが気にいるのも、珍しいけどね」
「どういう意味?」
「そのまんまだよ。」
今日はエスプレッソじゃなくて、ドリップで飲みたいからと、お湯を沸かして、豆を挽く。
そう、牛乳があればパーフェクトなんだ。
飲みきれないから、持参するのをいつも躊躇ってしまうけど。
「なんか、ユンギは、私がジュナに片想い中だと誤解しているみたいでさ。
少し困ってるんだ。どうしたらいいと思う?」
「さぁな?そのままに、しておけば。」
ジュンが作業する手を止めてこちらを見る。
「嘘じゃぁないんだし?」
ー嘘じゃない、けど、本当でもない
しばしジュンと視線が交差する。
電子ポットがゴトゴトと揺れて、ドリップ用のお湯が沸いたことを告げた。
視線をオフィシャルに外す理由を得てほっとする。
ジュンの瞳の奥に、今も少しだけ灯る色を、私はまだ直視できないでいる。
「嘘じゃないけど、本当でもないだろ…」
「ふふ、知ってるよ」
「そして今は感謝してる。」
「ヤー、やめてよ、照れくさい」
「どうして?本当のことだ。」
コーヒードリップの手法は様々あるが、お湯を円形に少量ずつ回しかけていくと素人でも香りが立つらしい。
外から中に、渦巻きのように、ぐるぐる、ぐるぐると
まるであの時の私たちみたいに。
お湯がこぼれないように集中しているふりをして、次の言葉を待つ。
左側でジュンが立ち止まったのを感じる。
懐かしくて、まだ違和感がない、この距離感。
見上げたらきっとあの日のように、少し困った顔をしてるんでしょう。
「俺は後悔してないよ。あれが、あの時の俺たちの選択だから。」
「…そうだね。」
20cmも身長差があれば、その構図上、少しばかり話し込んだだけで、第三者の誤解を招きやすい。
ジュンはいつもこちらに寄り添って話してくれるから
ほら、また、今日もこうやって…
「おはようございます?先生?」
「ヤー、ユンギ、いらっしゃい」
誤解だってば。
私たちには、もう何もない。
2人で決めたあの距離は、永遠に縮まることはないんだよ。
だからそんな風に睨まないで。
きみが可愛くて仕方なくなるだろ。
いまだに私がここに来る理由は、きっと、あの日の青春へのノスタルジー。
創作を愛するが故の結論は時にハッピーエンドではないけれど、
それでも見ていたいんだ。
いまだ純粋なクリエイティブの源泉を。
Chap.11
ジュンが大きな体をかがめて、何事かを懇願している。
「アミ…愛してる。お願いだよ、オレから離れていかないで。」
あぁ、そうだった、私のせいで、あなたは
「キミが必要なんだ。キミのために生きてる。
キミのために詩を書いて、キミのための歌を作らせてよ。」
随分昔の記憶。
ジュンが強く抱き留めている。私を、離れないでと。
「どうして離れていくの…なぜ…こんなに…愛してるのに…」
泣かないで。これが私たちの選択。
「ジュナ、ごめんね。だったら私のことは、永遠に手に入れないで。そのまま失ってしまって構わない。」
「何を…言ってるの」
「永遠に恋焦がれていて。それであなたがずっと何かを創っていけるなら、それが私たちの幸せだよ。」
そう、それがあの時の私たちの結論。
ぐるぐると同じところを堂々巡りで限界が来ていた2人が、
やっと辿り着いた、創作というものへの、解のひとつ。
「世界が全て嘘に見えても、これだけは本当だよジュナ。
これまでもこれからもずっと、私はあなたの作品を心から愛してるよ。」
決してあなたを嫌いになったわけじゃない。
それでも守りたかった。ジュンが創り出す世界を。
あぁ、そうか。私は安堵しているんだ。
あの時の選択を後悔してないと、ジュンが今、そう思っていると知って。
:
「ヌーーーーナーーーー?」
「はっ!ごめん、失礼しましたっ。」
やばい、すごいボケっとしてた状態を通り過ぎて少し寝てた可能性が高い。
ユンギが至極不満そうな顔で覗き込んでいる。
「素数を数える話だった?!解けた?」
「二次関数ですよ。ハァ。もういい。ピアノ弾く。」
拗ねたユンギが勉強を中断して立ち上がる。
ごめんて。少し疲れてるんだ、何せ休みが取れてないから…。
そのまま作業室のピアノを弾き始める。
奥のほうにしまい込んだ何かを、思い出すような、美しいメロディだ。
(…雨、かな?)
静かに降り注ぐ、大粒の雨を、眺めてるのか。
どうして、そんなに、切ない気持ちで。
ロマンチックだな、まるで、ピアノソナタ17
(…これ、オリジナル?)
「ヤァ、目が覚めるくらい切ない…セレナーデ?」
「こないだ作ったやつ。ヌナが、約束破った時に、ムカついて」
(なんと…驚いた…)
「…もう一回弾いて?」
「これ以外もあるんだ。最近止まらない。毎日何曲かずつ生まれる。」
天才というのはこんなにたくさんいていいのだろうか。
キラキラと眩しい笑顔のユンギから、同じくらい輝いた音の粒が聞こえる。
クリスタルのような透明度で、たくさんの光と音を同時に反射させながら、
これからきみはどんな宇宙を創っていくんだろう。
「ものすごく、楽しそうだけど?」
「あぁ、死ぬほど楽しい。」
「また聴いてくれる?」
「もちろん。むしろ、もっと聴かせて?」
そうだ。人が何かを創る過程こそ、生きる煌めき。
それに触れていたい。
未だ純粋な創作の源泉にいる、キミの笑顔と音に。出来うる限り最大限に。
「ダメだ、これじゃ生き血を吸うバンパイアみたいだわ…」
「なに?」
「いや、魔女になった気分、シワシワの。ハハ。ぼうっとしててごめんな、残りの問題解いて…」
「キレイだけど?」
「…ん?」
「ヌナはいつも、キレイだよ。」
(…っ?!)
まったくこの天才ボーイは。
調子が狂って仕方ない。
もしかしたら暑さと勉強のしすぎで、7つも年が離れてることを忘れてしまったのかもしれない。
目の前で勝手にキミに癒されてるのは、中1日で11連勤明けの、ボロボロのサラリーマンだぞ。
「おばさんを揶揄ってる時間はない。いいから、続きやろう。」
最大限いつも通りに照れ隠ししたつもりだったのだが、
気づいたら間合いを詰めたらしいユンギが目の前に迫っていた。
そして、どうしてか、少し、怒っている。
「…ちかくないか?」
「…。」
「…今日は機嫌が悪いのか?」
「からかってなんかない…。」
「ちょっと照れただけだ。そんなに怒るな。」
「オレは…ずっと、待ってたんだよ…。約束、したから…。」
忘れたわけじゃないんだ。不可抗力だったんだ。
だから今日もこうやって最短できみに会いに…
(ユンギに、会いに…?)
来れなくて悪かったと謝ろうとするよりも早く、ユンギが壁に手をついた。
どっちにしろ後にはもう逃げれなかったけど、横にも逃げ場を失ったみたいだ。
ー調子が、狂う
やけに好戦的で熱っぽい眼差しが、無理やりに視線を捕らえる。
真っ白な肌は、いつもより上気していて、艶っぽい。
「ヌナ。悪いと思ってるなら、このままじっとして、目でも瞑っておいて。」
(…はい?)
言い終わるや否や、唇に触れた感触。
荒削りで、胸を締め付ける、
熱くて、青くて、甘い、何か。
ー調子は、もうとっくに、狂っている
「試し打ち?」
「言い方…」
「許可とった?」
「あー、キスしても、いいですか?」
「バカ!ジュナが戻ってきたらどうする!?」
「別に、どうもしない」
「これも…夏だから?」
「そうだよ。だから、もう一回だけ。」
これは何の始まりか
この時間が恋しくなったら、どうしてくれる
短い夏が、折り返しを迎えて
にわかに寂しさと焦燥
また来年も夏は来るというのに
暑さのまやかし
焦がされている、太陽とキミの何かに
都会の冷蔵庫に備蓄されているワタシ
夏に
7年前のワタシか、7年後のキミか
今はまだ、知らなくてイイ事だらけのパレード
—
*1 Beethoven - Piano Sonata No.17 “Tempest”
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