Ep.2 夏時雨 | ナツシグレ
【時雨】シグレ … 時折降っては止む雨。にわか雨。
Chap.4
七月九日(土)晴れ 時々 突然の豪雨に注意
ここはいつも扉が開いている。
大学の研究室の一部を間借りした
作業室にしては珍しい天窓からの採光と、ほのかなコーヒーの香り。
優しく、それでいて、暖かく、主人の性格とシンクロしたかのような空間は、いつ来ても、いつもと変わらない空気で来訪者を迎えてくれる。
今日もジュンは本を読んでいた。
この場合、声をかけても気づいてもらえないので、少し空気が変わるのを待つ。1分くらいの時もあれば、10分近く待ったこともあるが、この時間は嫌いじゃない。
本を読んでる君が好きだと言ったら、君は笑うかな。
「ジュナ」
「やぁ、アミ。いらっしゃい。早かったね?」
「そう?時間通りだよ。」
アトリエにあるコーヒーマシンで、いつものように2人分のエスプレッソをひく。
本当は牛乳があると嬉しいけど、
「順調?次の作品」
「あー、正直いうと、今あんまり進んでない。」
「そう。」
「伝えたいこととか、いいのが浮かばなくて」
ゼロからイチを生み出す創作者にとって、それがどんなジャンルだろうと、一定のペースでアウトプットし続けることほど難しいことはない。創作の源泉は突然に枯れたり、とめどなく溢れたりを繰り返し、創作者本体を潤しては、疲弊させる。創作活動そのもののコントロールはどんな天才にとっても難しい。さらに職業にするともなれば、良いことも悪いことも、時には嘘も慎も、不特定多数の他者の評価を常に浴び続けなければならない。どんなに才能があろうと、
「今は、どっちの気分が多い?喜怒哀楽、割合で」
「嬉しい 7、悲しい 2、どっちでもない 1」
「じゃあ、いつも通りだな。大丈夫、安心して励めよ。」
「うん。ありがとう」
コーヒーを飲みながら、脈略のない話をする。
社会情勢から、最近のトレンドまで、覚えていたことを本当にポツリ、ポツリと。申し訳ないが、サラリーマンの記憶に残っているトピックスなど、何の脈略も生んではくれない。頭の中は常に
それでもジュンはいつも通り、そう、昔と変わらずに受け応えてくれる。
自分と違う生活を送っている人の、なんでもない話が聞きたいのだという。
「こないだクライアントとの会食で、あぁこの人絶対、村上春樹熟読してるな、って人がいたんだよ。そこで悩むんだよね、読んでますか?って直球を投げるべきなのか、本好きですかとカーブからせめるべきか…」
「はは。そうだ、アミ、あのあたりどう思う?帰らないで森へと、のところ…」
「あぁ、好きだよあそこ。情緒的な比喩が美しいと思う。ハルキストらしいというか、ジュンらしいというか。」
「実は僕も気に入っていて、その次のところにも使おうかと。どうかな?」
「うん、すごい好きだよ、いいと思うな。」
「ありがとう、やってみるよ」
広大で眩暈がするような海上で、先人が見上げた星々から進むべき方向を教わったように、何もないところに見つけた小さなヒントを紡いで、ジュンだけの創作の海を渡って行くのだろう。
彼がこの場所で、いつも通りにアップダウンしながら、いつものように創作を続けていけるならいいな。
私は君の
それが私の望みだから。
「ジュナ、その調子で適宜深呼吸しながら、ね。そしたら…」
ダンッ、という音に続いて、知ってる声が聞こえた。
耳に残る、妙に胸騒ぎのする声。
「こんにちは、先生。お邪魔します」
「やぁ、ユンギ。いらっしゃい。」
制服のシャツの白さに負けない、夏なのに真っ白な肌。
細身の身体に湧き出でる熱泉を秘めた、創意の塊。
今まさに何かを生み出し、何かになろうとする、少年と青年の
美しいメロディが、アトリエの光に照らされて、開きっぱなしのドアに佇んでいた。
Chap.5
「じゃぁ今日はここまで。ユンギ、よくできてたよ。
僕は今日このまま出ちゃうけど、好きなだけ使っていっていいから。
最後電気だけ消しておいて。じゃぁまた。」
「はい、ありがとうございました。」
先生が足早にアトリエを出て行った。
7月2週目の土曜日。
今年も県境の河川で花火大会がある。きっとカノジョとデートでもするんだろう。
蝉時雨のBGMは、日暮れ前のラストスパートで騒がしい。
この夏に買った、真新しい問題集の匂い。
大学ノートの消し屑を払いながら、窓の向こうを眺めるもう1人を見遣る。
「帰らないんですか」
「んー、今出たら夕立来そうだな。ほら、ユンギヤ、あそこ見て。ソフトクリームみたいなやつあるだろ」
雲を見てるふりして、貴女を見てる。
夕立が来ればいいのに。
もう少し一緒にいたい。
なんて、ね。
「呼び止めなくてよかったんですか」
「ん?」
「先生、今日デートにでも行ったんじゃないですか。花火大会だし。」
自分ばかりが負けている気がして、少し悔しくなる。
先生の話題なら、相子でしょう?
「あぁ、それは、もういいんだ」
「…え?」
「恋するのはやめたんだ」
思いもよらない返事に動揺してる僕の耳元で、ヌナが悪戯っぽく囁いた。
「あと100人くらい、好きな人、いるからさ」
(っ?!)
ーウソツキ。先生のことばっかり見てるのバレてるんですよ。
「…なんですかそれ。」
「そういう少年はどうなんだ?恋バナの3つくらい、いつでも歓迎だぞ」
ーイヤだな。頭の中、貴女のことばっかりなのに。
「ないですよ。僕受験生なんで。」
「そういや、そうだったな。
ヌナが花火大会連れて行こうか?受験生でも、それくらいいいじゃん。」
ームカつく。そうやってコドモ扱いされる自分が。
期待して、振り回されるのは悔しいのに、もう期待してる。
僕はもう、コドモじゃないんですよ。
意を決して、ヌナの真っ直ぐな視線に飛び込む。
「行きたいならオレが連れて行くよ。
ヌナを、花火大会に。」
何かを逡巡するヌナの瞳が、一度だけ揺れた気がした。
「いいよ。行こうか。」
誘っておいて、意外な返事に固まる。
あっさり断られると思ったのに。
「じゃ、その前に、アイス買いにこう。奢ってあげる。」
「だからそうじゃなくてっ」
「ほら、行こう!」
いつもより少しだけ弾んだ声。
ヌナに腕を掴まれて、僕は外に連れ出される。
暑い暑い夏の、まだ沈もうとしない太陽の下に。
Chap.6
「もう、勝手にそうやって、はぁ、疲れた。はぁはぁ…」
(うぐっ!)
息切れする僕の口元に、冷たい感触とバニラの味。
「はい、アイスはやっぱりバニラ!」
「あひがと…。」
(口に突っ込むなっての…)
容赦のない西日。
木陰でアイスを食べるヌナ。
いつもより蒸気した頬と、少し汗ばんだ首元。
暑くてぬるい風が吹く。
けたたましく鳴るのは、蝉時雨か、僕の心臓か。
(どうしよう、変な気持ちになりそう…)
やめろ、だめだ、集中しろ。
この、甘くて冷たいバニラアイスに。
「はぁ。暑くて、苦しい夏だ…」
「少年よ〜、夏に絶望するには、まだ若過ぎやしないか」
「そんなに歳変わらないじゃん…」
アミヌナは先生の同級生だというから、僕と7つ違うことになる。
そんなにと形容したのは僕が背伸びしたかったからか、今日はヌナがいつもより、無邪気に見えたからか。
「ユンギヤ、季節が24種類あるのは覚えたか?」
「知らないよ…」
「ヤー、試験に出るってジュニが言ってただろう?」
そういえば古文とか俳句の問題をやっているときに、ざっとでいいから覚えておけと先生が言っていたっけ。
元は中国から渡来したという二十四節気は、
「五行説では季節の色も決まっているぞ。朱夏、白秋、玄冬…そして再び巡り来る、青春。
青春は一度きりじゃない。毎年来るんだ。恐れず励めよ。」
ニコニコと話すヌナが眩しい。
こういう時の貴女は、まるで少女みたいで可愛らしいと言ったら怒られるだろうか。
「アミ…」
「なに?」
「さっきのって、どういう意味ですか?恋しないとかなんとか。」
「ヤー、おいちょっと待て、ヌナはどこにやった?」
「あー忘れてた…なんか、めんどくさい」
「コラ、声に出てるぞ」
「ジュン先生、今の彼女といい感じだから?それとも、他に好きな男でもできたんですか。」
はぐらかされそうになる前に全部聞いてやった。
これくらい教えてくれたっていい。
僕ばっかりもやもやするのは、フェアじゃないでしょう?
しばしの沈黙の後、ヌナが楽しそうに知らない歌を歌っている。
恋なんてしないなんて言わない絶対?
なんだよその歌。つまり、どっちなの、どういう意味なの。
「ジュンは、すごいやつだろ?
繊細な言葉たちと紡ぐ思考の宇宙。曇天の日も、ジュンの音楽には星が灯る。
そうやってジュンが創作している。そのことだけで、私は幸せなんだ。
それで、充分なんだよ。」
ヌナが懐かしそうに微笑む。まるで昔の話みたいに。
「私はユンギの音楽が好きだよ。」
「…え?」
「君に出会えて感謝してる。ジュンがいたからできた、この巡り合わせこそギフトだ。それで、充分だ。」
どういう意味だろう。
ヌナは先生が好きなんじゃなかったの。
「余計なことはいいから、勉強に励め、少年よ。
今は少し先の未来のための、ちょっとした準備期間に過ぎないのだよ。
今永遠に感じるこの時も、終わってしまえば、またすぐ恋しくなるんだから。」
重低音が響く。
もう余計なことにできないほどに、貴女の言葉が響いてしまう。
僕のどこか、深いところで、胸を締め付けながら。
はっとして、2人同時に空を見上げる。
どうやらこれは、僕がヌナの言葉に頭を撃たれた音ではないようだ。
「しまった。ユンギヤ、走るぞ。スコールが来る。」
「あっ、ちょっとまっ…!」
何も言い返せない僕の手を引っ張って、またヌナが走り出す。
道が白く烟る、すごい雨だ。
手を離さないでほしい。
これ以上、嘘をつかなくていいように。
Chap.7
「ビショビショだ…」
「やられたな…」
スコールに撃たれて、2人ともびしょ濡れである。
雨宿りにすればよかったんだ。なにも雨の中、全力疾走しなくってもよかった。
「まぁ、こういうのもたまにはいいさ。夕立の後は、夕焼けがキレイだしね。」
たどり着いた橋の欄干で、乾きそうにもない服をはためかせながら
少し息を切らしたヌナが、オレンジに染まっていく。
「これこそが朱夏。真っ赤な夏が始まったな。」
ーあぁ、ほんとうだ
「ほんとに、綺麗ですね」
夕陽に照らされる、ヌナの横顔が。
2人で見る夕焼けが。
他の恋なんて興味ないんだよ。
貴女とじゃないと、意味がない。
ーもどかしいな
貴女に届かない僕も
このどこにもぶつけようのない気持ちも
貴女が振り向いてくれるには
後どれくらい、大人になればいい
「ヌナ。次はいつ来るの。」
「…ん?今日終わってないのにもう次の話か?せっかちだと老けるぞ」
しまった。
次はいつ、なんて、ガキっぽかったかな。
「ねえ、ユンギヤ。雨に名前があるのを知ってる?」
「知らない…」
「次に雨が降ったら、答え合わせしよう。今日の雨の名前。」
「じゃぁ約束して?」
「いいよ。約束。」
今日の最後の太陽が、点になって沈んだ。
あんなに賑やかだった日中とは比べようもないほど静かな去り際だ。
今この静かな時を、永遠に閉じ込めておけたらいいのに。
貴女と2人オレンジ色に溶けてしまって、永遠に夜の来ない写真タテの中で、ずっと2人でいれたらいい。
「雨すごかったけど、やるのかな?花火」
「Twitterでやるって言ってますね」
「そっか。今の花火は湿気ないんだな。」
夕陽の残滓も、間も無く夕闇にのまれ、川辺はむっとした夏の湿っぽい空気が充満している。
風はそこそこ吹いているが、さっきの夕立がまるで温室にいるかのような湿度をもたらしていて、胸が苦しい。
「花火なんて何がいいんだろう。こんなに暑いのにさ、恋人たちの演出にしてはコスパが悪いよ。」
「爺さんみたいなこと言うな。昔はもっと涼しかったんだろうし、それにこれは恋人たちのために上がってるわけじゃない。」
「じゃぁなんで?」
「これは鎮魂だ。会えなくなった人も、叶わなかった願いも、ありとあらゆるものへのレクイエム。みんな空へ打ち上げて、希望の光にする。ある意味、綺麗だけど雑な弔いとも言えるかもな。」
「ロマンスとは…」
「何事も商業用の演出を取り除いてしまえば、その実こんなものだ。」
まるで他の恋人たちとは程遠い会話が終わるのを待っていたかのように
一発目の花火が空高く上がった。
「はじまったね」
「うん」
「…夏だなぁ」
キレイ、だな。
瞳に花火を映すヌナが、いつもより艶っぽくて。
ねえ、今考えてること言っていい。
言ったら呆れられるかな。
ヌナと花火見れて嬉しい…なんて、こんなのガキの感想か。
僕と恋しませんか…って、意味がわからないか。
ドーンという衝撃音が、まるで僕を急かすように響いているけど、
何も言えずに、視線を花火に戻した。
(いくじなし、おれ)
自分への腹立ちまぎれに、ヌナと手を繋いでみる。
少し驚いたように、こちらを向いて、ヌナがふっと笑っている。
「怖いのか?」
「違うに決まってる。」
「…夏、だから?」
「そうだよっ」
短い夏に恋をした、貴女に。
よりにもよって、受験生のこの夏に。
手を離さないでほしい。
今この瞬間だけは、僕のものでいて。
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