エリの吸血
夕食の後の、ほっと一息ついた気分。
スマートフォンでネットを覗いて、まあ適当にポチポチと。
たぶん、血糖値が上がって少し身体は眠たいんだろう。
わたしも同居人のエリも、なにをするでもなく過ごしている。
「…………んっ」
ぐったりと、寝床に仰向けになったまま、エリが無言で手を伸ばしている。
彼女はわたしのご主人様のようなもので……まあ、かといって逆らうことも、できなくないのだが。
ぼーっと彼女を見つめていると、その手がすっとカレンダーを指す。
ああ、なるほど。
今日だっけ……。
わたしは重い身体を起こし、その場でンっと背伸びをする。
立ち上がって一気にだと、さすがに頭の奥がすこし痺れたが、まあたぶん大丈夫だろう。
エリのバンザイした両腕をつかんで、よっと立ち上がらせて洗面所に連れて行く。
我がことながら、よくもこんなにも甲斐々々しいものだと思う。
まあ、わたしは彼女の奴隷らしいので、仕方がないのかもしれないが。
現代日本の片隅で、こんな人権侵害がまかり通っていようとは。
明日、国連かどこかの人権擁護委員会に訴えておかなければと、ふと思った。
「…………んっ!」
しばらくすると、洗面所から帰還したエリが私の前に現れる。
可哀そうに。エリは、彼女はしゃべることができない。
”怠惰”という現代社会の不治の病は、エリの吸血鬼としての能力の大半を失わせていた。じつに……嘆かわしい。
わたしは膝をつく彼女を受け止めて、エリの白い頬を両手でつかむ。
ニッと口角を指で押し上げると、彼女の小さな歯が並んでいた。
ちゃんと綺麗に……磨けている。
毎度のことながら、小学校で表彰されそうな口内だった。口内清掃に、よく励んでいた。
人間との違いは、犬歯とその隣の歯が、きもち鋭く尖っているというくらい。
ピンクの滑らかな歯ぐきから、冷水で丹念に研いだアキタコマチのような、まっ白な歯。
昨今は、なんでも除菌、なんでも消毒。感染症には、気をつけなければ。
親指を滑り込ませて、口をあーんと開けさせると、可愛らしいエリのどちんこが見える。可愛らしい、実に可愛らしい……。
「はぁ~へほーっ!! ……ちょうしに、のるな」
親指を噛まれ、すかさずおでこにチョップ。
エリ、お前……話せるのか!?
だらだらと続いていく日常で、今日一番の驚きだった。
「……手!」
……はいよ。
わかりました、ご主人様。
エリはそののばした腕をとると、自ら抱きかかえられるみたいに、わたしの懐へと入り込む。背を向けてつかんだ腕を向こう側へと回し、わたしの目の前にちょこんと座った。
LEDのライトの下で、彼女の黒い綺麗な髪に、エンジェルリングが浮いていた。
*
なんというかエリは、この特別な食事の日には、いつもなんとなくそっけない。
血を吸うことが嫌いな吸血鬼なんて、今では差別化できるようなキャラ付けには、なっていない。ただ、その中でもちゃっかり毎週吸いつづけるコイツは、わりと上位の太々しさだろう。
コイツのためにやっているというのに、エリは感謝というものをしなかった。
あくまで、自分がご主人様。わたしは奴隷。
血を吸うことは彼女がただ生きるためにすることで、わたしがその過程で自身に意味づけすることを許さなかった。
なんなんだろうか、この関係は?
わたしがエリの生活を支えているのに、彼女はただそれを受け取るだけ。
わたしが、わたしのご主人様に使われているだけで、主体は彼女だという建前を押し付けてくる。
結局はアレもコレもわたしがただやって、それが嫌ならいつでも追い出せばいい。
そういう態度で彼女はずっと、わたしを脅迫しているのだ。
*
――正直なことを言えば、エリの吸血は滅茶苦茶に痛い。
マジで、痛い。
初めての時はどこか彼女もたどたどしくて、何度かやり直しになった。しかもその度に、試したほうの手首の表裏に、みるに痛々しい彼女の歯形がついたものだった。
先ほどは鋭利と言ったが、それはあくまで、人の体の部位の中で、という意味である。ギザギザした下の歯で手首の背の側の骨をがっしり噛んで、上の二本の牙でわたしの皮膚を押し貫く。
あの時はまだエリが吸血鬼だという事にも、やはりどこか半信半疑のままだった。
幾度もためす試行錯誤の最中も、やっぱりコイツの牙はコスプレショップの少し上等なだけのただの付け歯で、ヤバイ中二病の家出少女なんじゃないかと何度も疑った。
どう考えても蚊やダニのほうがエリの何倍も、上手に血を吸ってくれている。
彼女のおかげでわたしは、彼ら小さな命への尊敬の念を取り戻した。
「ん……うんっ…………んんっ」
またエリが、言語能力を失っている。
彼女のてのひらにつかまれている、腕の部分がぼんやりと温かい。
そしてエリの牙が挿っている、腕の部分が強い熱をおびて、痛い。
でもそれ以上に、肘の角やお臍の奥、そして足の裏の中央までに、ものすごくツンとした感覚が貫いて、全身をじっとさせていることが、もどかしい。
はやく終わってほしいと思う一方、彼女の口が離れることが少し怖かった。
わたしはこの感覚を我慢することに慣れつつあって、このあとの自分の血を見て、傷口が空気に触れる不快感が、とても恐ろしいもののようで不安だった。
ただし、エリの吸血は長くない。
どうやら彼女なりに調節して、少しずつ。
一定期間で定期的に、機械的にこなせるようにしたいらしい。
「んっ……もう、いい」
わたしの腕をぱっと離して、無言で立ち上がって寝床のほうへ。
あっ……やばっ……。
腕から垂れた赤い血が、ぽたぽたと筋となって肘から伝い、垂れていた。
なんとか左手で、机の上のティッシュ箱へと手を伸ばす。
まだ少し痺れる右手を添えて幾重かに折って、ガーゼのように手首に当てた。
乾いたティッシュの感触が、まだ開いた傷にチクっと染みる。
エリはまたスマホを弄り、向こうをむいてソシャゲか何かをやっている。
コイツは哀れに血を流す奴隷のために、ティッシュを取ることもしないのか……。
エリはほんとうに、薄情な吸血鬼。
冷酷な、ご主人様だった。
お臍や足の裏のあのツンとした感触が、まだ少し続いていた。
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