26-17 反転の里

「現実の世界で私はメンタルが壊れて暴走してたんだよ。だから、ヘッブのことがなくても、どのみち私は現実で自分の殻に閉じこもっちゃってた。でもそうなっても、やっぱり優芽ちゃんは私のことを引き戻してくれたと思う。……優芽ちゃん、私を助けてくれてありがとう」

 噛みしめるようにそう言われ、優芽の中をピシャッと稲妻が貫いた。

 何がそんなに衝撃的だったのかわからない。

 優芽は自分で自分に戸惑った。

 しかし、はたと気がついた。


 自分は紬希を助けたのではない。

 助けたいとか、役に立ちたいとかいう思惑をかなぐり捨てて、ただただ自分の気持ちに従ったのだ。


 優芽は紬希と一緒に帰りたかった。

 元の世界に戻ってきてほしかった。

 それが紬希にとって苦しいことだったとしても、だ。


「違う」

 うつむいて否定を述べた優芽に、紬希は目を丸くした。

「救われたのはあたしの方だ。紬希は自分の力で頑張ることを決意して、戻ってきてくれた。あたしはなんにもしてない」

 そしてこれからも、優芽は紬希に何もできない。

 直接的に彼女にしてあげられることなんて、何もないのだ。

 でも、紬希は帰ることを選んでくれた。


 紬希はなおも目をぱちくりさせていたが、やがてその目を細めた。

「優芽ちゃんはやっぱりすごい人だな」

「えっ?」

 優芽が顔を上げると、紬希はいたずらっぽい笑みを作ってみせた。

「ま、説明もなしにヘッブを渡したのは軽はずみだったけど!」

 いっそうニヤッとしてみせた彼女に、優芽も情けなく、でも晴れ晴れとした気持ちで笑った。




「……一緒に帰ろう、紬希」

「うん」

 二人の上でくすのきの葉がさわさわと鳴っている。

 その木立から漏れてくる光がキラキラと瞬いた。


 心地よさに身を任せていると、二人を中心にして辺りの景色がじんわり遠ざかり始めた。

 緑が伸び、赤をくぐり、日向に出たように柔らかな金色で満たされる。

 それらがにじんでいく中、遠くにあの民家が見えた。

 遠いはずなのに、なぜか俯瞰するようにして庭先の様子がわかる。

 そこでは相変わらず門付かどづけ芸人たちが舞っていて、仲良さげな家族がにこにことそれを楽しんでいた。

 ただ、芸人の衣裳が優芽の訪ねたときと違う。

 派手な狩衣かりぎぬのようなものを着て、頭には平たい頭巾をかぶり、踊りながら扇子と打ち出の小槌を振っていた。

 何だかわからないけど、おめでたそう。

 そんなふうに思ううちにその光景もにじんでいき、急に明るいところに出たときみたいに何も見えなくなった。




 足の裏に舗装された地面を感じ、しだいに周囲が鮮明になっていく。

 優芽と紬希は元いた大通りに立っていた。

 視覚に遅れて聴覚が戻り、人々や街の音が押し寄せてくる。

 辺りを見回せば、うきうきと言葉をかわし合う親子が数組、歩道を歩いていた。

「……戻った」

「戻ってこられたね」

 二人は茫然と顔を見合わせた後、わっと顔を輝かせた。

 元の世界に帰ってきた。

 二人、いや、三人とも無事だ。

 しばし、二人は好き勝手に安堵の言葉を垂れ流し、それが一区切りつくと、腹を抱えて笑った。

「良かった。本当に良かった!」

 笑いすぎて、二人の目には涙がにじんだ。

 裏返って、また裏返った紬希の片手には元の通りドーナツの包みが握られていて、それにも二人は身をよじって笑った。

「ドーナツ食べよう!」

「うん。お腹空いたよね!」

 優芽もバッグにしまってあった包みを引き出して、二人はベンチを探して歩き始めた。




 その後はいつも通りだ。

 ドーナツを食べて、街をぶらぶらして、デパ地下に惣菜を買いに行って。

「また新学期に会おうね!」

 そんな言葉で二人は別れて、それぞれの家に帰っていった。


 もう紬希の精神は壊れていない。

 頭で思っていることと、心で感じていることはしっかり噛み合っている。



 そうして、紬希はそれからの数日間を穏やかに過ごした。

 夜になると聞こえてくる虫の声に秋の足音を感じつつ、もうすぐ終わる夏休みを惜しみつつ。

 みんなと教室で会えるのを心待ちにした。



 そして、来る新学期。

 教室に優芽の姿はなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る