23-01 英語スピーチコンテスト <彩生>

 引き戸を開けて洗面所に入り、ぼんやりと左を向く。

 鏡の中の自分と目が合うと、思わず紬希はシャンとした。

 両手をおへそのあたりで組むと、丁寧にお辞儀をして、すうっと鼻から息を吸う。

 開かれた口から飛び出したのは、流暢な英語だ。

 もちろん、スピーチコンテストの原稿である。



 練習のときには鏡を見る。

 それは今野に一番最初に指導されたことだ。

 彩生あきとスピーチを見合うことのできない夏休み中は、この練習と、動画に録った自分のスピーチを見返す作業がより重要になる。

 鏡イコール練習と脊髄反射するほどに、紬希には一連の流れが染み付いていた。


 この練習でチェックすべき項目は、立ち方、表情、ジェスチャーといった分かりやすいものだけではない。

 口の形も重要だ。

 日本語だって、「あ」の口の形で「い」とは言えないし、舌先を上の歯の裏あたりにつけなければ「た」とは言えない。

 それ程に、口や舌の状態というのは発音に影響するのだ。

 日本語にない英語の発音を身につけるには、この練習は絶対に欠かせない。


 しかも、今日の紬希は制服姿だ。

 紬希は本番も、この姿で壇上に立つ。



 ふと、鏡越しに何かがちらついた。

 即座にスピーチをやめて、紬希はガバッと戸の方を振り返った。


「お母さんっ!」


 紬希が不機嫌に叫ぶと影はヒュッと引っ込んで、「あはは」と笑い声が遠ざかっていった。

 紬希の母親が、廊下からこっそりとスピーチを聞いていたのだ。



 こうなることがわかっていたから、家で練習するときは自室でしかやらなかったのに。

 久々の制服姿にソワソワとして、ついそのことを忘れてしまった。


 他人に聞かせるつもりのなかったものを勝手に聞かれるのは、本音を書き綴った日記を読まれるのと同じくらい恥ずかしい。

 母親が洗面所を覗き込んだ瞬間に気づいたはずだから、声は聞かれたが姿は見られていない、と思いたい。



 スピーチは他人に聞かせることを前提としたものなのだから、親に聞かれようが見られようが、動揺しないのが一番なのはわかっている。

 でも紬希は友達よりも、本番に客席に座っている赤の他人よりも、実の親に自分のスピーチを見られるのがどうしても嫌だった。

 上手いじゃん、とか何とか言って、ニヤニヤするに決まっている。

 他人からしたら、それの何が嫌なのかと思われるかもしれないが、愛娘が成長した、と喜ばれるのは紬希にとってはわずらわしいものなのだ。

 そこから透けてくる、親の心配や安心、期待も嫌だ。


 内気な紬希が人前に立つなんて!

 何かあったんだろうか。

 この調子で少しでも積極的になってくれれば――。



 余計なお世話だ。

 紬希は小さくため息をついて、自分の歯ブラシをつかんだ。



---



 夏休みに入って二週間。

 今日は登校日だ。

 教室ではあちこちで生徒たちが「おはよう」とか「久しぶり」とかいう挨拶を交わしている。


 仲良し組はというと、納涼祭から数日しか経っていなくて、お互い全然久しぶりという感じがしない。

 いつも通り誰からともなく集まって、再会を喜ぶこともなく、いつもの調子でおしゃべりを始めた。

 でも、その中にのろの姿はない。


「のろはサボりかにゃ?」

「相変わらずだなー。まあ、気持ちはわからなくもないけど」

 優芽はこっそりスマホを確認しながら言った。


 登校日は国語や数学といった授業もないし、午前中で終わってすぐに下校だ。

 なのに、それだけのためにわざわざ早起きして、暑い中登下校するなんて、無駄に思える。

 決められていることだからみんな仕方なく従っているだけで、全校生徒がそう感じていることだろう。

 それを思うと、面倒くささに任せて登校してこないのろは、ある意味すごい。

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