09-04 息をするように


 優芽にはボランティアの日のお決まりの行動があった。

 ひとつはお昼にドーナツを食べること。

 もうひとつは帰宅前にデパ地下で夕飯の惣菜を買うことだ。

 後者は本人だけでなく、母親も楽しみにしている約束事で、優芽は何でも自分の好きなものを選んで良いかわりに、渡された予算内でやり繰りしなくてはならなかった。


 事前に母親との話し合いはないと聞いて、夕飯のメニューがかたよったりしないのだろうか、と紬希は信じられない気持ちになった。

 しかし、本人たちはそれも含めて楽しみにしているらしい。

 宇津井家にとってはまるでゲームや闇鍋的なイベントなのだろう。


「あ~ここはカレーの主張がうるさい! いつもこの匂いでカレーに誘惑される!」

 壁にもたれるのをやめてフロアガイドを元の通りにたたみながら優芽が言った。

 二人の立っているすぐ横がカレー屋で、この辺り一帯の空気はカレーと化しているのだ。

 店の台には弁当屋のようにパック詰めされたカレーが、バラエティー豊かに並べてある。

 優芽はカレーの空気を胸いっぱいに吸い込んで「おいしそ……」とこぼした。

「お腹が空いてると何でもおいしそうに感じちゃう!」


 昼にドーナツを四つも食べたのに、と紬希はあっけにとられた。

 でも確かに、紬希もいい匂いを吸い込めば吸い込むほどお腹が鳴り出した。

 私は二つしか食べてないし、と自分で自分に言い訳してみたが、夕方にもなっていないのに腹ペコになってしまったことには変わりない。


「大体の目星をつけてから買いにいくんだけど……まあ予定どおりにはいかないよね。季節によって変わる商品もあるし!」

 たたんだフロアガイドを元あった場所に戻して、優芽は振り返った。

「決めた!」



 いよいよ二人は人の波へとくり出した。

 駅での混雑とは比べ物にならない。

 左側通行かと思えば前から強気に遡上してくる人がおり、右側通行かと思えば突然立ち止まって壁になる人がいる。

 さながら無法地帯。

 まだ横によけるスペースがあるのがありがたかった。


 人と人との間からはショーケースに並んでいる色とりどりの惣菜や弁当、揚げ物なんかが見え隠れした。

 店員の声が右からも左からもひっきりなしに飛んできて、次々と試食が差し出される。

 そういうもの全てをかいくぐるようにして二人は進んだ。


 優芽は上手に隙間を見つけてスルスル進んでいくので、紬希ははぐれてしまわないよう必死で後についていった。

 周りはわいわいがやがやしていて、叫んだところで声は届かないだろう。

 一度離れてしまったら、気づかず置いていかれてしまう。

 スマホで連絡をとれば後から合流できるとはいえ、迷子にはなりたくなかった。



 ガラス越しにほかほかと湯気の立ち上る店の前で優芽は止まった。

 大きな蒸籠が目印のように置かれ、中には肉まんが整然と並んでいる。

 二人はごくりと唾を飲み込んだ。

 ガラス越しのそこは調理場になっているらしく、ときおり蒸籠を持った店員が出入りした。

 二人の目の前で、その出来立てほやほやの点心の詰まった蒸籠がショーケースに並べられていく。


 様々な具材入りの焼き餃子に、よく見る肉シュウマイもおいしそうだし、皮が白くてツヤツヤしているエビ蒸し餃子も噛んだらプリッとしていておいしいに違いない。

 夕飯の一、二品を選ばなくてはならないのに、これでは決めることができない。


 全部がおいしく見えるのは、お腹が空いているからだ!

 あたかも正当な理由のように言って、二人は肉まんを買い食いした。


「最高ー!」

「おいしい……!」

 まだ熱い肉まんをハフハフと頬張って、二人は至福の声をあげた。

 それを見ていた店員にほほ笑まれたが、そんなことには気づかない。

 二人は夢中で平らげると、名残惜しそうにグラシン紙を備えつけのゴミ袋に入れて、「ごちそうさまでした」と深々拝んだ。



 結局、優芽は詰め合わせパックを買って、ミッションを達成させた。

「匂いも持ち帰っちゃうのがね~電車とかで困るんだよね~」

 買ったばかりの惣菜をぷらぷらさせながら歩く優芽は見るからにハッピーだ。

 最初はこの惣菜ミッションを信じられないと思った紬希だったが、今ではただただ羨ましかった。

 普段食卓に並ばないような惣菜を見れば見るほど、食べてみたいという気持ちが刺激されていく。

 しかし理性と懐事情が、その衝動に駆られることを許さなかった。

 家に帰ったら宇津井家の約束事を親に話してみよう。

 紬希はひそかに決心した。

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