第52話 魂崩し
黒円が真ん中を突いた。
何の中心かはわからない、しかし黒円が何かの中心を突いたのは確実だった。
魔女の瞳のように黒円に、指先から"自分"が吸い込まれる。
落ちてゆくにつれ、何物とも相容れない黒が視野を、加減なしに握り潰していく。
夜が晴天に思えるほどの黒に人差し指を沈めた途端、指を起点として円形の波が波及した。
反射光すら一屑たりともない黒、だが波及する波には、揺らぐ弾道のような白い筋が通っていた。
白い筋が通った矢先に、白と黒が矛先を交えた途端に……。
黒い円の卓上に、揺らぐ自身の顔が映った。
顔には窪みがいくつかあり、窪みの淵に黒い線が筋走っていた。
病的な程に
目が引き攣り花が萎むかのように、黒真珠の瞳孔が引き締まった。
指、手、腕、肩、首筋。
体が止まることなく黒円の泉に、潜水艇のように全身が潜り込んだ。
目先に描かれた景色は言葉で形容するには、どう巧みに工夫しても、誠に困難を極めるものであった。
“此処はどこだ? ……息が詰まる、肌が水で締め付けられてるように、湿りが離れてくれない……“
意識的に声を出す気はないものの、なぜか勝手に溢れ出してきたのだった。
“……ありゃなんだ?”
この声すらも意識の外から、声帯を突き刺すかのように、溢れ出してきたものだった。
しかし言葉に綴られた通り、瞳孔の奥に白筋の光よりも明るい、真珠のように丸く白い光が、張り付くように敷かれていたのだった。
それを視界に入れて数秒……なぜか、使命感や脅迫感に押されるように、それに自身の手で触れたくなった。
白点に水中を泳ぐように向う。
距離が少し少しと、押し込むかのように縮んでいく。
その度に目の前に広がる白を、手にしたくなっていく。
ただただ欲しいと言う言葉では済まされない、もはや渇望の域であった。
“よこせ寄越せよこせ寄越せ……!!“
眼球が弾けそうなほどの勢いで、何処からか言葉を吐露した。
血管の中から出てはいけない何かを、破裂させて放ってしまうかと思った。
そして己との距離が、定規ほどしかないところまで近づいた。
その白い光に素手で掴み掛かった。
それは途端に指の間から、白光りの放射状の筋を漏らした。
光は抵抗するように腕に根を張り始め、まるで稲妻のシルエットのようであった。
ひとときの恐怖を抱いたものの、それは使命感という感情に押し握りつぶされた。
体の中へ徐々に知り尽くした感覚が、根が栄養を吸うように戻り始める。
心臓の鼓動、血液の流れ、神経の張り詰め、涙の潤い……。
全てが白く染まった。
瞳の奥の視覚神経を通じ、次の情景が脳に流れ込んできた。
「ありぇ、此処は? あ、そっか」
見慣れ親しんだ灰色、首筋を舐める冷たさが、ここは何処か示していた。
全てが灰色の荒廃に陥った、崩壊が香る郊外に戻ってきたのだ。
その一角にある背伸びした建造物の、数もわからない階層であった。
「えっと、成功したのなら……カエデさんとマフユさんがいるはず……」
眠りかどうかわからないものから目覚めた体を、家畜を縄で引きずるように無理やり起こす。
体の内には目覚めたばかりで、筋肉に染みるほどの気だるさが、有り余る程に充満していた。
「ふうう、なんだか体が気だるいな……人の手で入り込めない所まで疲れている……何処か、魔術的だねぇ……」
性格に似合わない、何処か粗く素早く縫い込んだような、不間欠な文体であった。
「……あれ、そういや本題の二人がいない……?」
二脚で歩み、部屋の隅々にまで目を広げようとした時だった。
視界の端に目を覆いたくなるような、グロテスクなものが転がっていた。
「お……これ、こんなところに置いてたのか……」
その転がっていたというものは、身体を覆うほど大きな羽衣に覆われた、眼球が吸い込まれるような水色の髪を持つ少女であった。
切られた四肢からは、宇宙空間のような捉え難く理解したくもない風情が、こちらを覗いていたのだった。
そして、その全てを装飾するように乾いた血液が、恒星の光の如く白い肌を汚く染めていたのだった。
動き出した時に、逃げれる体勢を取るのはもちろん、ソレの状態変化を直視するためでもあった。
後者は少しばかり朧げな目的であるが、状態変化がソレの動く鍵になる可能性もあるからだ。
"あの二人がいないのはなんでだろうか、逸れた三人を助けに行ってるのか?"
肉塊を睨みながら、マフユとカエデの二人がどこへ行ったのか、頭の中で考察を巡らせた。
しかし列記とした答えは出ず、脳内で二人が何するのかの可能性を織り交ぜ続けていた。
どこへ行ってどこで何をするのか、それを何度も彼女らの行動から、導き出そうと脳という視覚できない領域で奮闘した。
「分からん……何してんだろ」
その奮闘の末に生まれた戦果は、耳の穴から溢れるほどの"?"だった。
それはそれはとても解答を見ない限りは、処理できないほどの量でした。
“まあいいや、流石に二人が見捨てるはずがないだろうし……俺をここに残した理由は、コイツを監視するために置かれたかもしれないね”
そうやって考えだした事象に、勝手ながらの自己完結をし、大量のハテナを記憶の淵に蹴落とした。
そして目の前にある、見た者の精神を害する劇物に視線を戻した。
「本当に気持ちが悪いな……マフユさんとカエデさん、どんな風に切り刻んだんだろ」
体の至る所にある断面から、宇宙空間に最も近い景色を、まるで抵抗するかのように永遠と浮かばせていたのだった。
その景色を一切止めることはなく、少女の千切れた四肢の断面に浮かぶ宇宙空間は、瞼の瞬きほどの短い間髪すらも、決して許すことはなかった。
認識したものを脳内で形容する間も、血の流れや鼓動のように、時は決して止まることはなかった。
特に気にかけることもないのに、ちんけな独白を語るように、時の流れが虚しいと思ってしまった。
血液という燃料が目に通い、瞳の内に映される背景はまるで殺風景のように、全く変ずることがなかった。
まるで時が止まっているようであったが、自身の中でうめく鼓動だけが、時の流れを自覚させてくれる。
変化が訪れない空間はそれこそ死体と同じだ。
不乱しない考えを、ずっと巡らせていると。
「…………っ!!」
耳の中に線状の形で、突き抜けるような音が侵入してきた。
その場に留まりながら、音響く方に身体を翻らせた。
音の特徴は靴でコンクリートを踏む音、どんどんと近づいてくる、間違いなく階段を登る固く湿りもない乾いた音。
心から分泌された、警戒心を穴という穴から漏らした、小動物なら毛を逆立てる程度には迫力を撒いていただろう。
「誰だ……」
耳元で呟かれてやっと気づくほどに、小さな声を口から吐き出した。
恐らく階段を登る、靴を軽快に鳴らす人物には、一切聴こえていないだろう。
「来い」
綴ると同時に手の内に、銀色を身に纏った拳銃が零れ落ちた。
正方のガラスのない窓から、差し込む陽光を銀色で反射していた。
小綺麗な銀装の眩く光はまるで、小さな太陽であった。
両手で銃を握りしめ、いつでも敵か味方もわからない来訪者を、無尽に撃ち殺す準備はできていた。
響く靴音は数字を数えるように、段々と背を伸ばしていった。
そして、踵をつくほどにまで近づいた途端……。
靴に踏められ床の呻く音は、斬り殺されたかのように止まった。
階段に銃口を突きつけ引き金に手をかけた。
人差し指と眼球が、罠に足を掴まれた鼠のように、カタカタブルブルと不安定に揺れた。
「今すぐ来いよ、早く早くハリー……」
演者のようなセリフを空間に描く。
当然ながら待ち望んでるわけでもなく、ただの虚勢の加増である。
その証拠とし、舌にひしひしと静寂に包まれ、喉元まで染み渡るような、唾液の触感が広がりはじめた。
その途端、階段の
「……?」
突き出た一角はメトロノームのように、クラクラグラグラと動き始めた。
視覚を銃口のように突きつける、こちらにサインを送っているようであった。
そのサインはまさに味方だと、伝えているとしか思えなかった。
「七星クン、帰ってきたよー」
その黒い何かを、ひょっこり階段から現しているであろう、人物の声が壁をなぞるように響いた。
床を蛇の蛇行のように進み、爪先に粘りくような声。
直感に間違いはない、この声はカエデさんのものだ。
「カエデさんですか……?」
警戒心を香辛料にまぶした言葉を、黒い一角にむけて返した。
すると一角は少し背伸びをし、嬉しげのある大きな声を上げた。
「そーだよー、マフユもみんな居るよー!」
その言葉を聞いて心の中に、安心感という拠り所が築かれた。
銀の衣を纏うハンドガンの銃口を、地面に垂れ下げる。
黒い角は階段の側から下ろされ、入れ替わるように白い髪が覗いた。
その髪の質感は、単独で生きているかのように美しかった。
遠方から観測しても、その絹のような柔らかい質が、まるで近くで見ているのかと錯覚するほどであった。
彼女は我方に近づいてくる。
靴裏で突く石床の音は小さな音の波状を、部屋角までの隅々に広げていた。
彼女の踏んだ石面は、何故か死んだかのように無機質に見えた。
「やぁやぁ! その様子じゃ、ついさっき起きたかな?」
階段を登ってきたのは、白雪を具現化したような美少女であった。
屋内に吹く冷たい風よりも、何倍も冷たく見えた。
「えぇ、そうです。なんでわかったんですか?」
「君の惚けた表情……以外にもあるけど、私たちさっきこのビルを出たんだよ」
彼女が淡々と状況を語る。
語る言葉一文字一文字の節々から、ひた伏された冷気が筒抜けていた。
「じゃあ今から下の階で、待ってるみんなを呼んでくるねー!」
足速に階段まで走り抜け、速攻に降っていた。
彼女が走り去る時に発せられた、遅れてやってくる風は、何処か暖かくも冷たかった。
優しさによる暖かさと、殺意や恨みに近い冷たさが、頬や目を切り落とすかのように掠めた。
目の奥の血液を流す血管が燻った。
ダム穴のように開いた毛穴から、表現不可能な感情が意思関係なく漏れ始めた。
心臓は目の前で起こった恐怖に抗うように、脈拍数を増やし、赤く暖かい血液の循環を早くした。
己が爪先まで微動に揺れ、全身で恐怖を形で表していた。
すると階段の下から幾つもに重なった足音が、階段をゆっくりと登り始めた。
その連鎖音が全身に響き、身体の中まで刷り込んだ何かは逃げ去るように消え、体内の異常は瞬く間にして死んだ。
全体に浸り張り付いた力は、みるみると体の内側に収まった。
胸が締められ、一瞬だけ息が詰まった。
階段から音の正体達が、続々と上がってくる。
その中に初めて見た顔は居らず、面々すべてを知っていた。
白髪の男、特色ない黒髪の青年、金髪の巨漢。
総じて全員に会い、話したこともある連中だらけだ。
「……合流できたんですね」
「うん、私たちはかなり近いところに転送……まぁ、転送されたっぽいからね。
見つけるまで、大きな手間は掛からなかったよ」
自慢げに誇らしくも硝子のように、脆く優しい笑顔を見せてくる。
その笑顔を見せられた途端……。
体の
胡麻を散らすように広範囲に、突き刺すような痛みが迸った。
それを言葉で表すならば、縫い針の先端で浅く抉られたような痛みに非常に酷似していた。
束の間に彼女の顔から笑顔が、ほぐすかのように消えた。
紅い宝石のような目は、生々しい赤黒い静脈血のような色だと、心の中の瞳孔が捉えた。
まるで爪の間から恨みが、滴り落ちていると思わせる表情であった。
「まだ動く予兆はないみたいだね、良かったよかった……」
彼女は安心を一線に引いた言葉を吐いた。
怨嗟に侵された気迫は、注射器で啜り出すように解け消え去った。
又は……肉皮を剥ぎ落とすようにも見えた。
「では……水を飲むように、命を消そう。頼むよ」
不気味と妖さを肌身で感じ取れる、美しくも毒だらけの声を漏らした。
網状の骨髄がつながっているかのように、隅々まで流れきった。
「了解了解」
新たにピースを嵌め込むかのように、黒髪の特色ない青年が言葉を放つ。
見た目は魔術師相応のローブに、芸術品のような杖を手に握っていた。
ローブは吹き抜け階段から、登る風に揺さぶられていた。
杖にねじ込まれた宝石は、部屋の空気を灼く日射を鏡のように反射し、この石箱の目にも入らない隅を照らした。
青年は決まりごとを律儀に守るかのように、ゆっくりと腰を下ろした。
青年の特色ない顔は、倒れ伏する少女の顔に差し迫った。
「ここまでも無惨になってまで生きてるのは、弟として憐れみたいよ……」
「……っ!?」
目が世界の色を認識して数分。
いまだに完全に目を開けきっていない脳に、寝耳に水な言葉を呑まされた。
その事実を皮切りに、瞳孔の中心に黒髪の青年が爛然と映って見える。
装飾が刷り込まれた杖の、最も装飾が集中している、杖の先端を少女の腹部に刺し突く。
美しい装飾にはには血が滲み、生暖かい粘質の血液が縋り付く。
体組織の裂ける音、泡だった血液が破裂する音、生き物が不快感を覚える音がこだまする。
「斬られに斬られて、もう魂が剥き出しだね」
杖先を指で摩る。
その白く細い指先で、何を感じ取ったのかわからないが、理解した口調で物を口で綴る。
暑夏の夕刻に響き渡る、ひぐらしの鳴き声のような心に深い根を植えるような、哀愁が聴覚に透き渡っていた。
青年は腰を上げ、杖の先にへばりついたドロドロの血液を、丁重に着飾った服で拭い取った。
拭き取られた血液は赤黒く汚れていたものの、絵芸術に近い奥行きのある美しさだった。
「別れの挨拶は終わった?」
白髪の彼女が宥めるような言葉を、青年の背中に吹きかけた。
青年は伏す少女の身に視線を張りながら、彼女に言葉を返した。
「終わったよ。この数刻で、過去と訣別できたよ」
青年はそう語った。
自身の過去との訣別、自身の姉との訣別。
しかしその声色にはやはりというべきか、過去に囚われた香りが肌を突いた。
青年は訣別という大きな決断を、まるで完全に断ち切ったように口で語る。
だがそれは自身の心を誤魔化すだけの、最大で最純の虚勢に過ぎない。
心は過去に囚われたままであり、身体は未来を突き進んでいた。
聞かなくても分かる……青年の心は、全く変わっていなかった。
見えない頑強な手錠に四肢が縛り付けられ、過去から未来に足を進めることができない。
そんな心象が瞳から魂に伝達された。
「……」
言葉が口から出てこない、見えない縄に首が縛られ声帯を抑えつけていた。
息すらも詰まりそうな空気が、毛穴に攻め入るように入り込む。
感じたこともない全くもって新しい感覚に、運動神経が縛られる。
青年と心を共有しているわけでもないのに、見ているこちらも、まるで心と心を管で結び合わせているかのように胸奥が締め付けられる。
「そう、決めたのならそれでいい。
彼女の言霊には、威厳さが重々と詰まっていた。
言葉が一つのコップとするならば、表面張力まで込められていたと断言できるだろう。
「そうだね。君たちを引き連れて、ここまで連れてきた私の責任だ」
髪の先端が寂しく揺らぎ、青年の心に囚われた感情が部屋中に溢れかえる。
歴とした実体は全くない、痛みや痒いなどの感覚では理解できない、しかしこの部屋にしっかりと“有る”のだ。
それはまさに肺胞に取り込んだ者を、哀愁や悲しみに耽らせる毒だ。
此方が手に握っていた、マスケット銃ほどの大きさもない宝物のような杖の先を、中身を見開いた血まみれの少女の胸元に突きつける。
金具の擦れ合う音が、この状況の顛末を表しているかのように聞こえた。
「さようなら───」
硝子が落ちて割れる音が、私の心を突き刺した。
沢山の人々の魂に手を掛けた私を、この世界の意思で破壊するように聞こえた。
第52話 終
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