第220話 西方都市ハンギングツリー

 西方都市ハンギングツリーは、王国領の西方と中央を分ける分水嶺とされる都市である。

 その名の由来となった首吊りの丘ハンギング・ヒルに建ち、堅固な城壁で都市の周囲を囲む様は、同様に丘に建つミストラルになぞらえて〝第二の王都〟とも呼ばれる。

 西方から持ち込まれた鉱石が売り買いされる商業都市の側面も持つ。


 そんなハンギングツリーの、とある家庭の朝。

 ロマンスグレーの髪の男が、リビングで新聞を片手に優雅に紅茶を飲んでいる。

 キッチンのほうから妻と娘の声がする。


「ほらほら! 歯磨きしたの?」

「した~」

「本当に?」

「ん~、たぶん」

「エミリア!」


 妻に追いかけられて娘がリビングへやってきた。

 男が素知らぬふりをしていると、娘は男の前に置かれた硝子の更に目を止めた。


「パパ、ズルい! 朝から葡萄なんて食べてる!」

「ん~、そうか?」

「自分だけズルい! ズルい、ズルい!」

「そうか、ズルいかぁ」


 柳に風の父親を見限って、娘が母親にすがりつく。


「ママぁ~、お弁当に葡萄入れて?」

「ダメよ。贅沢させるなって先生にも言われたんだから」

「けち~」

「あら? リタは? まさかまだ寝てるの?」

「起きてるよ。また本読んでた。本の虫~」

「妹にそんなこと言わないの! リタ! 遅れるわよ! リタぁ~!」


 妻が娘の名を呼びながら階段を上がっていく。

 つまらなそうにしている上の娘に対し、男は葡萄を一粒、房からちぎって、娘の口に運んだ。

 エミリアは母親のいる二階を見上げて、それから嬉しそうにその一粒を頬張った。


「それで我慢しなさい」

「嘘? 一粒だけ? 冗談よね?」

「一粒だけだ。さあ、学校へ行きなさい」

「パパもけち~」


 明るい声で悪態をつきながら男にキスして、エミリアは出かけていった。

 しばらくして、妻が下の娘を連れて階段を下りてきた。


「あら? エミリアは行きました?」

「ああ、行ったよ」

「あの子! 結局、歯磨きしてないわ!」

「はは、そう言えばそうだな」


 下の娘のリタは眼鏡をかけた、読書好きな娘だった。

 リビングに来ると男のいるテーブルに鞄を置き、椅子に腰かけてまた読書を始めた。

 妻はキッチンのほうへ行ってしまっている。

 男は穏やかに声をかける。


「リタ。学校へ行く時間だ」


 娘は本を見たまま答える。


「……うん」

「本、いいところなのか?」


 そこでリタはやっと男のほうを見た。


「パパ」

「ん?」

「楽器屋の向かいのアンおばさんが、この街にも蛮族が来るって。ほんとなの?」


 男は苦笑いを浮かべた。


「本当に耳が早いな、アンおばさんは」


 リタは眼鏡の奥で目を丸くした。


「本当なのね?」

「かもしれない。だが何も心配しなくていい」

「どうして? 蛮族はとても野蛮で恐ろしいって本で読んだわ。それに――」

「この街にはパパがいる」


 リタは目をぱちくりとして、それから「そっか」と頷いた。

 そのとき、妻がキッチンから出てきた。


「リタ!? まだいたの?」


 リタは慌てて男にキスして、家から出ていった。

 妻が男に弁当を差し出した。


「私はいらないぞ? どこかで食べる」

「そう言って、昨日は何も食べずに帰ってこられたでしょう?」

「む、なぜわかった?」

「夕餉のとき、お酒を召される前に料理を口に入れてらしたもの。あなたがそうするのは昼食を抜いた時だけですわ?」

「お見通しか」


 男が弁当を受け取ると、妻は後ろに回ってモスグリーンの魔導騎士外套ソーサリアンコートを着せ、わずかにできたシワを伸ばした。


「あなたに倒れられたら皆が困るんです。私の使命は、あなたにきちんと食べさせることですわ?」

「……わかった。この弁当は必ず食べる」


 妻は笑って、男にキスした。


「お願いしますね、首吊り公」




 首吊り公はハンギングツリーの城壁に上がった。

 ここで昨夜の報告を聞くのが日課であった。

 城壁の上で待っていた、二十代後半の騎士が声をかける。


「おはようございます、公」

「おはよう、ラズレン」


 ラズレンが首吊り公の持っている包みに目を留める。


「おっ、愛妻弁当ですか」


 瞬間、首吊り公の瞳が赤い光を放ってラズレンを射抜いた。

 ラズレンは若くして月の獅子章を付ける剛の者であったが、睨まれた途端にブルリと震えた。


「……失言でした」

「わかればいい。蛮族は?」

「見えません。およそ五十万の蛮族軍は、ほぼすべてが蜂の巣城に詰めております」


 首吊り公が顔を顰める。


「蜂の巣城? 我々にとっては戦略的価値があるが、ランガルダンを無視した蛮族共が興味を示すとは思えんが?」

「そのランガルダンから脱出した騎士団連合が、蜂の巣城に入ったからです。蛮族軍は彼らを追っていましたので」

「いくら蛮族とはいえ、仮にも五十万の大軍ぞ? 得物の背をただ追うなど、まるで獣の群れではないか」

「大型の巨人が含まれぬためでしょう。蛮族は巨人がいて初めて、統率が取れますれば」


 首吊り公が目を細めてラズレンを見る。


「ずいぶん蛮族に詳しいな?」

「は。ダレンのハンス卿が執筆なさった〝西域論〟を読みまして。その受け売りでございます」

「明日、持って来い。私も読みたい」

「ハッ」

「蜂の巣城は……落ちぬな?」

「そう易々とは落ちぬかと。かの城は大崖にこびりつくように建つ、まさに蜂の巣のような要害でありますし、崖の岩盤を貫くトンネルで後方のブラン砦と密かに繋がっております。敵兵に囲まれていても補給可能で、籠城戦はお手のものです。しかし……」

「しかし、なんだ?」

「蜂の巣城から助けを求める書状が二通、来ております」

「……二通?」

「一通は滞在中のボーゴン総帥から。騎士が足りないから、いくらか都合してほしいと」


 話を聞いて、首吊り公は鼻を鳴らした。


「フンッ、何をバカな! 我が騎士団より多い千二百の騎士を抱え、それが一戦も交えずに退いてきたのだろうが。なぜこちらの騎士を割かねばならん!」

「それが……撤退中に追撃を食らい、かなりの数の騎士と兵を失ったと。さらに蜂の巣城の立地ゆえ、なかなか入城できず、ここでも背を討たれ、かなりの数の被害が出たと」


 首吊り公が苛立った様子で尋ねる。


「かなり、かなり、かなり。具体的にどれほどの数だ?」

「わかりませぬ。そこは書かれておらず……どうも意図的に伏せているようで……」

「……もう一通は?」

「蜂の巣城の城主、ダグラス卿からです。ボーゴン総帥や連合の騎士団長たちが勝手に命令を下すので、任務に支障が出ている、と……」


 首吊り公は黙り込んだ。

 ラズレンは先ほど軽口を叩いて睨まれたときより、黙して怒りを堪える今の首吊り公のほうが何倍も恐ろしかった。

 首吊り公はしばらくして、口を開いた。


「ラズレン……戦とは必要悪だな?」

「は?」


 意味が分からずラズレンが聞き返すと、首吊り公は笑みを浮かべて言った。


「平時にはわからぬことを教えてくれる。根腐れしているとわかった以上、抜いて処理する必要がある」

「ッ! まさか、ボーゴンを吊るす・・・おつもりですか!? おやめください、ボーゴンは腐っても大貴族の血筋。辿れば王家に繋がります! 公もただでは済みませぬ!」

「だから戦時にやるのだよ、ラズレン。大魔導アーチ・ソーサリアがその権威を最大限に発揮できるのは戦の最中だ。戦時に味方の大魔導アーチ・ソーサリアに罰を下すことなど、いかなる王にもできぬこと。国を滅ぼす行為だからな?」

「ですが!」

「ラズレン。ボーゴンには三つの罪がある。わかるか?」


 ラズレンは明晰な男で、ただちに並べ上げた。


「……王国の盾であるランガルダンを戦いもせずに放棄した罪。要塞から撤退する際に各方面への通達を怠り、ランガルダン――ハンギングツリー間に暮らす民に多数の犠牲を出した罪。そして蜂の巣城の指揮を乱した罪です」


 これには首吊り公も感心し、何度も頷いた。


「さすがだ、ラズレン」

「しかし! それでも私はお止めします!」

「お前はそれほど後が恐いか?」

「公への忠誠ゆえ!」


 首吊り公は眉を上げ、踵を返した。


「公!」


 首吊り公が振り返る。


「お前に免じて今は見送ろう。ついてこい」


 ラズレンは小走りに後を追い、追いつくなり尋ねた。


「どちらへ?」

「オババ様に会う」

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