第191話 籠の鳥、擬態した鳥
「卒業おめでとう。グレン=フェザンテール」
グレンはマントの下で左手をそっと腰にやり、親指だけを使ってじりじりと剣の鍔を押し上げた。
〝フェザンテール〟はグレンの旧姓――死んだ両親の家名だ。
鳥籠にいたときに、両親と親交があったという人がこっそり教えてくれた。
グレンに秘密があるとすれば鳥の名〝フェザンテール〟こそがそれで、ロザリーにすら伝えていない事実である。
それを目の前のこの男は知っている。
対して自分はこの男を見たこともない。
状況は夜。
路地に二人。
剣を抜くのに十分な理由だった。
しかし――。
「抜くな、フェザンテール。めでたい夜を血で穢すべきではない」
マントの下で、グレンの動きが止まる。
(かなり
グレンが男の力量を見定めようとしていると、男はそれを見透かしたように言った。
「今の君では勝てんよ。それでもやるというなら、やってみるがいい」
雨足が強まる。
家屋の屋根に打ちつける音がとてもうるさく感じる。
「……まあ、やってみるか」
そう口走ったグレンが、次の瞬間、恐ろしい眼光で男を射抜く。
反射的に身構えた男に対し、グレンは突進した。
「若いな、フェザンテール」
男が腰の剣に手をやり、態勢を低くして待つ。
グレンは男まであと数歩、というところで、着ていたマントを男に向かって投げ捨てた。
マントは襟のボタンだけ留められていて、そのせいで傘のように開いてクルクルと回って落ちてきた。
視界を大きく遮られた男は、決断を迫られた。
狭い路地である。
グレンが攻撃してくる方向は『下方』『マントの裏』『上方』に限定される。
どう読み、どう対処するか――。
「チッ!」
男の選択はバックステップ――距離を外すことだった。
そして風に煽られてふわりと舞うマントが地面に落ちたとき。
路地はもぬけの殻だった。
男が目を丸くして言う。
「逃げた? ……ククッ、やるじゃないか、フェザンテール。私のより、よほどいい選択だ」
グレンは王都の街を駆けていた。
路地から路地へ。
石壁を登って降りて、別の道へ。
グレンは生まれも育ちも王都である。
ミストラルは彼の庭だ。
(撒いたか? 念のため、水路の橋の下に身を隠すか?)
(いや、このまま
グレンは路地を渡り、最寄りの
詰所は大通り沿いにあり、身を潜めたまま入ることはできない。
路地から顔をわずかに出して通りを覗き見て、男の姿がないことを確認する。
そのとき、閃光が走った。
視界が一瞬、真っ白に染まる。
そして再び夜の風景に戻ったとき、グレンの目の前にあの男が立っていた。
「ッ!!」
不意を突かれながらも、急いで数歩、後退する。
(どこから出てきた!? 術だ、
グレンの思考を見透かしたように、男が言う。
「私は雷鳴と共に現れる。標的を逃がしたことはない」
「へぇ、そうかい!」
グレンは腹を括り、剣を一気に引き抜いた。
しかし男は右手のひらをグレンに向けて、首を横に振った。
「剣を納めろ、フェザンテール。私に害意はない」
「はいそうですか。……なんて言うと思うか?」
グレンは剣を構え、右手の甲に【獅子のルーン】を宿した。
暗がりに光るそのルーンを見て、男はため息をついた。
「頑固な奴だ。……仕方ない、こちらの素性を明かしてやろう」
そう言って男は懐を探り、騎士章を取り出して胸に付けた。
魔導に反応して騎士章が形を変え、背景に月が浮かぶ。
「月獅子……王国騎士か?」
「ドルク=ラニュードだ。北ランスロー騎士団に所属している」
「北ランスロー……何のために俺に近づく」
「まあ、慌てるな」
ドルクは騎士章を胸から外し、懐に押し込んだ。
そしてその手を懐から出したとき、別のバッジ状のものが握られていた。
「それは……?」
「慌てるな。そう言ったろう?」
ドルクはそれを騎士章と同じように胸に付けた。
するとバッジに変化が起こった。
バッジの上部側面から光る羽根が生えてきて、それが一枚、二枚と増えていく。
羽根は六枚で止まった。
「……六枚。つまり私は六枚羽根の騎士だということだ。ちなみに七枚は
「待て。……羽根だと?」
「想像の通りだよ。これは魔導皇国の騎士章。わかりやすく言うならば、私は皇国のスパイだ」
「!!」
「潜入して、もう二十年近くになる。素性を明かすのはこれが初めてだよ」
「っ、なぜそれを俺に」
「聞くな。わかっているはずだ」
グレンが押し黙る。
皇国のスパイからの接触。
自分の身の上。
さして考えるまでもなく、すぐに結論に至った。
「……俺にもスパイになれ、と?」
「ありていに言えばそうだ。君の素質には目を見張るものがある。精神面は少し若いが……実際若いのだ、そこはこれから学べばいい」
「考えたこともない。帰ってくれ」
「本当にそうか? スパイと聞いて私に襲いかからないのはなぜだ? もう剣は抜いているのだ、そのまま斬りかかってくればいい。違うかね?」
「……」
「代わりに答えてやろう。そうしないのは君が愛国心をほとんど持ち合わせていないからだ。差別されてきたから。皇国の子として。雛鳥として!」
ドルクが一歩、二歩と無造作に距離を詰める。
グレンは彼の胸に剣を突きつけた。
ドルクはそれをまるで気にせず、グレンの瞳だけを見つめている。
「本当の母国のために共に働かないか?」
「……それがスパイの口説き文句か?」
「かもしれない。だが私も言うのは初めてだ」
「……間違ってる」
「王国を裏切ることに罪悪感があるのか? 大丈夫だ、これは自分の母国に尽くすことであって裏切りではない」
「そうじゃない」
グレンは剣を引き、鞘に納めた。
「間違ってるのはお前の言い分だ。俺が王国に忠誠心を持っていないことと、お前を信用できるかどうかはまったく別のことだ」
「信用、か……確かにな」
ドルクは宙を見上げ、しばし何事か考えていた。
そして再びグレンに視線を戻し、言った。
「急ぎすぎたかもしれない。お前を見てたらつい、な」
ドルクは皇国の騎士章を外し、懐に入れた。
その動きをグレンが目で追っていると、ドルクが言った。
「その気になったら君にも渡すが」
グレンが苦笑する。
「皇国の騎士章をか? スパイがよくそんな物を持ち歩くな?」
「それは違うぞ、フェザンテール。これが拠り所だ。これがなければ私が皇国騎士であることを示すものは何一つない。……わかるか?」
「わからない」
グレンがそう即答すると、ドルクは「そうか」と呟き、背を向けた。
そしてグレンから離れる方向に歩き出して、ふと足を止めて振り返った。
「来年の今頃、君に贈り物をしよう。気に入ってもらえるとよいが」
「皇国の騎士章はいらない」
「フ、騎士章ではないよ」
そう言って笑い、直後に雷鳴が轟いた。
閃光のあとには、ドルクの姿は影も形もなかった。
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