第27話喪失④
茜は太一のことを、きれいさっぱり忘れていた。
「インターン? そんな名前だったっけ?」
目の前で、茜はずっと首を傾げていた。わたしの口から飛び出す話のところどころを、彼女は憶えていなかった。
わたしと茜がボードゲームカフェで再会したことは、彼女にとっても確かなようだった。それだけでなく、そこで起こったことのほぼすべてを、彼女はちゃんと把握していた。わたしの転職活動の作戦会議をしたり、茜もわたしと一緒に働いていたり、わたしの誕生日パーティーをしたり。七海さんや、秋人のこともちゃんと憶えているといっていた。
でも、太一のこととなると、まるっきり記憶にないようだった。
「店長っていうか、お店のマスター的な男の人はいたけど。そこまで絡みなかったし、もはや顔も思い出せないわ」
茜は意地悪そうな笑みを浮かべて、そういっていた。彼女がインターンにこなくなった訳を訊くと、お店閉店になったじゃん、と当たり前のことのようにいった。
その後、七海さんと秋人にも会った。でも、ふたりも茜と同じみたいだった。ボードゲームカフェでのことはちゃんと憶えているのに、太一という存在だけ、ふたりの記憶の中ですっぽりと空白になっている。
どうやら、わたし以外のみんなが、太一について忘れてしまったみたいだった。
わたしはアルバイトの給料が出て、次の部屋を見つけるまでという約束で、茜のマンションでお世話になった。さすがのタワマンで、居住スペース的にはなにも困らなさそうだった。というより、茜はわたしと生活することに嫌な思いをしていないようで、むしろ歓迎された。しばらく一緒に料理をしたり、映画を観たりして過ごした。
そんな生活に変化が訪れたのは、茜の家の居候になって二週間ほどが過ぎた頃だった。
「ねえ、理子って金欠なんだよね」
それはふたりで夜ご飯を食べた後のこと。その日は茜が皿洗いの当番だったから、わたしはやたら大きなソファに寄りかかってテレビを見ていた。
「うん」
「それなのに、宝くじなんて買ったの?」
洗い物を終えた茜は、わたしの財布を手に持っていた。そこからは宝くじの一部がはみ出ていた。
「それ太一からもらったの」
「ああ、例の影薄い店長」
「というか、そのとき茜もいたじゃん」
「そうだっけ?」
首をかしげる茜を見て、なるほどね、と思った。太一のことを忘れている彼女は、彼がした行動も記憶にないらしい。
太一からもらった宝くじはずっと財布に入っていた。宝くじ自体に興味はないけど、処分する気にもなれず、とりあえず財布に入れておいた。太一がいなくなってからは、その宝くじだけが唯一彼との思い出を象徴するもので、わたしはそれを手放せなくなっていた。
「これ当たってるの?」
「さあ」
「発表は?」
「わかんない」
「ちょっと、調べてみる。これ財布から取ってもいい?」
「うん、いいよ」
茜は宝くじを財布から出すと、それを見ながらスマホの操作をはじめた。発表の日にちを調べているみたいだ。わたしも立ち上がると、彼女のもとに寄った。ふたり顔をくっつけるようにして、小さいスマホの画面をのぞいた。
「うわ、もう当選番号出てるじゃん!」
「ほんとだ」
画面にはランダムに羅列された数字が並んでいた。茜が画面を指でなぞって、ゆっくりとページを動かす。当たり外れなんて気にしていなかったけど、画面の数字と、太一からもらった宝くじにプリントされた数字を見比べているとき、つい手に力が入っていた。
「え!」
一瞬スマホの画面に現れた数字に、わたしは思わず大きな声をあげた。ちょっと戻って、と茜に画面を巻き戻してもらって、改めてその数字を確認する。え、え、と驚きの声が止まらなかった。
「ちょっと、なに。どうしたの?」
わたしは茜の手からスマホを取り上げると、もう片方の手に宝くじも持って、彼女に背を向けた。
「……当たってる」
「うそ!」
「ほんと。ほら!」
わたしが両手に持っていたものを茜に渡すと、彼女も表情を変えた。
「マジじゃん! え、いくら?」
「六十万?」
「違う、六百万だって!」
茜に訂正されて改めて数字を確認すると、たしかに彼女のいう通りだった。
「すごい! 理子大金持ち! てか、これで奨学金返せるんじゃない?」
茜は、実感が湧かず棒立ちになっているわたしに抱きついてきた。
六百万。それはわたしが奨学金として借りている額と一致していた。太一からの贈り物が、わたしの借金分のお金に姿を変えた。
「影薄店長がくれたんだよね。理子の恩人じゃん」
「うん」
「でも、このことは黙っておいたほうがいいかも。そんな大金になったなら返せとかいわれそうだし」
「いいたくても、いえないよ。だって、その人もういないんだもん」
「そっか、お店と一緒に消えちゃったんだもんね」
換金の期限はせまっていた。でも、わたしは迷った。太一との思い出のものをお金に換えるべきなのかどうか。その宝くじを手放したら、わたしも太一のことを忘れてしまうかもしれないと思った。それが怖かった。
しばらく宝くじをそのまま放置していた。それが茜に見つかると、催促された。
「ねえ。これこのままにしてたら、ただの紙切れになっちゃうよ」
「うん」
「わたしがお金に換えてきてあげよっか?」
「それはやめて」
「別に横取りしようなんて考えてないよ。ま、理子の奨学金返済祝いに焼肉くらいおごってくれてもいいけど」
「また、太るよ」
「別に体型なんんて気にしてないし」
それから、またしばらく経つと、さすがに茜は焦ったように声をかけてきた。換金できる期限はもう来週らしかった。
「それ、わたしのお守りみたいなものだから。お金になんか換えない」
そこで初めて自分の気持ちを打ち明けた。宝くじは紙が腐敗しないケースかなにかに入れて、ずっと手元に持っていようと決めていた。
最初は冗談と受け取ったのか、茜は半笑いだった。つまらない冗談いってないで、はやくお金に換えてこいよ、って感じ。でも、徐々に表情が険しくなっていった。やがて本当にわたしに換金する気がないことがわかると、声を荒げて怒った。
「理子さ、自分のいってたこと思い出しなよ。奨学金さえなければって、しょっちゅう口癖のようにいってたよね。借金がなければ、余裕を持ってやりたいことを探せるとか、将来の不安が消えるとか。この宝くじのおかげで、その不安がなくなるんだよ。人生リセットできるんだよ。迷うことなんてないでしょ」
茜のいうことが正しいということはわかっていた。奨学金という名前でパッケージ化された借金があるせいで、わたしは人生の袋小路に迷い込んでいる。奨学金は決して無視できない。払わないと、たちまち催促の手紙が届く。それを無視したら、今度は連帯保証人になっている両親にその取り立てはやってくるらしい。お金を返して初めて、わたしは奨学金の呪縛から解放されることができる。そのチャンスがあるなら、飛びつかない手はない。
そもそも、なんでそんな膨大なお金を借りたんだろうかと思う。学校でもらった申し込み用紙にシャーペンで下書きし、その上からボールペンをなぞったときのことはいまでも鮮明に憶えている。そのときは確かにどきどきしていた。でも、それは借りたお金を返せるだろうかという不安ではなく、大人に提出する書類を書くっていう行為自体に緊張していただけ。
もし、過去に戻れるなら、奨学金を借りてまで東京の大学になんて行こうと思わないだろう。自分の身の丈にあった、無理なくできる仕事に就く。
でも、当時、奨学金を借りることはしょうがないことだと思っていた。目標だった東京の大学に通うには、そうするしか手段がなかった。それに、奨学金を借りるのはわたしだけではなく、わたしのクラスだけでも、数人の人が申し込み用紙をもらっていた。
だから、迷いはなかった。いや、迷うことができなかったといってもいい。それを返す未来を考えず、ただ漠然と、社会人と呼ばれる大人になれば、何百万なんて借金も簡単に返せるのだと思っていた。
しかし、いざ社会人になってみると、その考えが間違いだったことを知った。学生でも社会人でもお金の価値は変わらず、変化があったとすれば、いつか返す借金が、いま返す借金に姿を変えたことだ。
そしていま、わたしは奨学金を返せない自分に戸惑い、この先どうしていいのかわからなくなっている。それがなくなれば、どれほどいいことか。
でも……。
「お金じゃないの」
茜はわたしのことを心配してくれている。そんなことは、わかっていた。でも、そんな彼女の言葉に、わたしは反論してしまった。
「お金より大事なものってあるでしょ?」
「うん。でも、いまの理子にはお金が一番大事」
「どうして茜にそんなことがわかるの」
「理子が置かれている状況を見たら、だれにだってわかるでしょ」
「違う。茜は太一のことを忘れてるから、そんなことがいえるんだよ。茜も太一のことを憶えていたら、わたしの気持ちがわかるはず」
わたしが太一の名前を出すたびに、茜は頬を引きつらせた。それはまるで奇妙な生き物でも目にしているかのような顔だった。
「理子、本気なの? これをお金に換えないって」
「うん」
「やめて。それだけは絶対に」
「この宝くじはわたしのもの。だから、どうしようとわたしの勝手でしょ」
話を聞こうとしないわたしに、茜は最後に、お願い、とだけいった。目を潤ませて、わたしの手を握った。そんな彼女から目をそらしたけど、そのときの表情がずっと頭に残った。
それでも、わたしは踏ん切りをつけることができなかった。太一からもらった宝くじをずっと手元に置いていた。
でも結局、それは茜によって換金された。宝くじが財布からなくなっていることに気づいたわたしが部屋で騒いでいると、彼女から通帳を手渡された。そこには大きな、大きな数字が刻まれていた。
「ばか!」
わたしはその場で荷物をまとめると、茜の家から飛び出した。それからバイト先の店長に頼み込んで、しばらくネットカフェの一部屋で生活させてもらった。それを見かねた店長が先払いといって、まとまったお金をくれた。それでわたしは、なんとかワンルームマンションでちゃんとした生活を再開させることができた。
通帳のお金は、一円たりとも減っていなかった。それはわたしの意地でもあった。
通帳に刻まれた六百万円を使う気はなかったけど、でもそれがあるおかげで、気持ちがだいぶ楽になった。奨学金はいつでも返せる。そう思うと、もうそれを返したつもりになっていた。わたしの人生にのしかかっていた大きな足かせが、綺麗に消えたのだ。
でも、わたしの生活はなにも変わらなかった。
毎日アルバイトに出かけるだけ。休みの日もほとんど家から出なかった。東京にある綺麗なオフィスで、綺麗な服を着てバリバリ働きたいという憧れは変わらず持っていた。それに向けて行動しようという気もちゃんとあった。でもそのきっかけがなく、なかなか動けなかった。
何ヶ月ぶりかに、茜を目にしたのは、そんな毎日を過ごしていたときのことだった。
わたしのバイト先がある上野のアメヤ横丁には、人でごった返す通りと、比較的歩きやすい通りがある。わたしは後者のすいた道を選んで、いつもアルバイトから帰宅していた。でもその日は、人通りの多い通りにあるドラックストアに寄りたくて、普段とは違うルートを歩いていた。
その途中、建物の一面がすべてガラス張りで、外から中の様子が覗けるレストランがあった。入ったことはないけど、アイリッシュ料理とクラフトビールで有名なお店らしい。そこに茜がいた。彼女は真っ白なシャツに黒のナプキンを腰にかけ、店内を優雅に移動していた。ウェイター姿の彼女は、そのお店で働いているようだった。
わたしは足をとめて、そばらくそこで働く茜を見ていた。
ふっくらとした体型は、しばらく見ていない間に、かつてのすらりとした身体に戻っていた。軽やかな身のこなしと、顔には常に微笑みを浮かべて、料理やビール、ワインをお客さんのもとへ運んでいる。その姿は、まるで彼女はウェイターになるために生まれてきたと思わせるほど様になっていた。綺麗で、無駄がなく、美しい。
そんな茜の姿をしっかりと目に焼き付けると、わたしはそこを後にした。その日以来、わたしは茜の勤務するレストランのある通りを帰宅ルートに選んだ。
茜はほとんど毎日のように、そこのレストランで働いていた。ときには新人みたいな子にレクチャーをしている様子もあったから、働き始めてしばらく経つのかもしれないと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます