第26話喪失③


 この人綺麗な字を書くなあと思いながら、目の前の申し込み用紙を眺めていた。名前と年齢、生年月日、住所、電話番号が順番に記入されていく。地方在住の二十四歳らしい。そんなことしたらアルバイトをくびになるけど、わたしはこの人に電話をかけたり、手紙を送ることができるのだ。

 でも、こんなに個人的な情報を手にしているのに、わたしは目の前でペンを走らせている男性について、ほとんどなにも知らない。字の丁寧さだけが、この人の性格を知る唯一の頼りだった。髪の毛はぼさぼさだけど、自分の書く文字の形に気を遣えるほど、真面目な人なのかもしれない。申し込み用紙への記入が済まされるまで、わたしはそんな勝手な想像を膨らませていた。

 わたしはインターネットカフェでアルバイトをしていた。レジでお客さんを迎えたり、ブースの掃除をしたりと、やることはボードゲームカフェとそう変わらない。

 そのときは、レジに立って、新規会員になるお客さんの対応をしていた。

「会員登録費として、本日のお会計とは別に五百円いただきます」

「あの」

「はい?」

「ここって、長くいることってできますか?」

「長く、といいますと」

「はっきりとはまだ決まっていないんですけど。多分、一ヶ月とか。もしかしたら、それ以上になるかもしれないんですけど」

 構いません、といいながら、やっぱりなと思った。男の人が引いていたキャリーケースを見たときから、嫌な予感はしていた。この人も、ネットカフェに長期滞在をする予定のお客さんなのだ。

わたしはレジの脇に束になっているラミネート加工のされた用紙をとる。

「一ヶ月分のご料金をまとめてお支払いいただけるのであれば、こちらの料金でご案内しています」

「じゃあ、まとめて払っちゃいます」

「わかりました。では、お先に会員登録料のお会計から」

 そんな流れで、お客さんは会計を済ませた。長くネットカフェに泊まるみたいだから住む場所がないようだけど、彼が持っていた財布はわたしでも知っているブランドのものだった。たぶん数万円はするはず。身なりもちゃんとしているし、ホームレスってわけではないようだ。

 このお客さんのように、ネットカフェに長期滞在をする人が決して珍しい存在ではないというのは、バイトを始めてから知った。わたしが務めはじめたときから、すでに何人もの長期滞在をしているお客さんはいたし、そんな人たちは減るペースより、増えるペースの方が早かった。

「では、32番のシートになります」

 新しい会員証を渡すと、彼は重そうなキャリーケースを引きずりながら、奥の方へと消えて行った。

事務所に戻って、わたしは壁にかけられたホワイトボードに『32』と書き加えた。

「また?」

 パソコンと向かい合っていた店長から声をかけられる。後ろを振り返ると、彼もホワイトボードを見ていた。

「はい」

「すぐ卒業できるといいけどね」

 ホワイトボードに書かれた数字は、長期の支払いを済ませた人のブース番号だった。『32』は、わたしが先ほどのお客さんに案内したブースの番号。そして、同じような数字は既に複数あった。わたしが記入したのは、十七個目の数字だった。

「十七人か」

 店長もその数字の個数を数えたみたいだ。

「一番長い人で、どのくらいなんでしたっけ?」

「もう二年近くになるかな」

 二年。途方もない時間に思えるけど、過ごしてみればあっという間なのかもしれない。

「レジ戻ります」

 といって、わたしは事務所を出た。お客さんがこない限りレジでもやることはないのだけど、事務所に長くいると店長の仕事の愚痴を聞く羽目になる。

 早く正社員として、どこかで働き始めないとな。

 レジに立ち、そんなことを考える。暇な分だけ、ため息が出た。そしてその後に、決まって太一のことを思い出してしまう。彼と過ごしたインターンでの日々は、もうだいぶ前のことだ。

 太一がいなくなってから、既に半年が経っていた。でも、毎日のように彼のことを思い出しては、感傷に浸った。具体的な思い出ってよりは、彼の顔や、声、匂いが記憶によみがえってくる。でも、最後にはあの別れの瞬間が頭に現れ、ひどく落ち込んだ。

 そんなこんなで、時間だけがうだうだと過ぎた。

 わたしは生活に必要なこと以外はなにもせず、ただ毎日をやり過ごしていた。



 太一が消えてしまったとき、わたしは寂しさと虚無感から、ずっとその場にうずくまっていた。誰もいないことをいいことに、わんわん声を出して泣き喚いた。太一、太一と絞り出すような声を出し続けて、終いには喉を傷めた。体力の限界がくると、わたしはしばらく身体を動かせずに、そのまま朝を迎えた。

 人が光を発しながら透明になって、やがて消えてしまう。そんなありえない光景を目の当たりにして、太一が消えたのもなにかの冗談だと思いたかった。本当に夢でも見たのだと、何度も自分にいい聞かせた。

 しかし、太一は戻らず、夜になった。彼が丸一日、わたしの前から姿を消したことなんてなかった。

 さすがにお腹が空いて、立ち上がろうとした。でも、身体に力は入らず、這うように移動していすにしがみつくと、やっと身体を起こすことができた。げっそりとした顔を隠すためにマスクをすると、コンビニに行った。食べたいと思うものなんてなかったから、いつものこんぶのおにぎりと、シーチキンのおにぎりを買った。インターンに戻って一口かじったけど、喉を通らなかった。

 寝っ転がって天井を見上げる。視界には膨大な量のボードゲームがあった。それらを順番に目でなぞると、太一との思い出がひとつひとつ頭の中で再生された。

 わたしは太一との時間を取り戻すかのように、彼との思い出のあるボードゲームやカードゲームを棚からとってきては、各テーブルに広げた。モノポリー、カタン、ゴキブリポーカー、そして人生ゲーム。そして、さも彼が目の前にいるかのように振舞って、ひとりでゲームを始めた。

 カードをシャッフルして、サイコロを振り、そしてルーレットを回す。プレイヤーはわたしだけ。ひとりの世界で、懸命に生きる。

客観的に見たら、このときのわたしは、ちょっとだけ狂気的に見えたかもしれない。でも、わたしはひとりでゲームをしていると、未来への不安が忘れられるというか、生きる活力が湧いてきた。ちょっと口をつけたきりカウンターに放置していたおにぎりは、むしゃむしゃ食べられた。

 気持ちに余裕が出てくると、太一が戻ってくるかもしれないと思って、ひとりでお店を開いた。掃除をして、ドリンクを補充して、ドアにOPENの札を出す。わたしはカウンターの内側に立って、お客さんを待った。

 でも、なぜだかインターンには誰一人として姿を見せなかった。

 無人のインターンの店番を初めて数日が過ぎたころ、突然、数人のおじさんたちがやってきた。真っ青の作業着を着た、体格のいい男性たち。彼らはずかずかとお店に入ると、そこにあった全てのものを差し押さえた。

「ちょっと、どういうことですか。やめてください!」

 わたしは何度もそう叫んだ。でも、おじさんたちの作業の手は止まらなかった。みるみるうちにお店にあったボードゲームが、外の通りに止められたトラックに運ばれていく。やがてテーブルも椅子も業務用冷蔵庫もなくなった。

 ふと思い立って、となりの生活部屋に移動した。悪い予感が当たって、そこも、もぬけの殻となっていた。

 まるでわたしの記憶をかき消すみたいに、作業服の人たちはわたしと太一の思い出をトラックに詰めていった。

 どうしてこんなことをするんですか。

 誰から頼まれた仕事なんですか。

 わたしがなにを訊ねても、黙々と片付けをする彼らは首を振るだけだった。彼らは下請けの下請けの、そのまたうんと下請けで働いているみたいで、なんの事情も知らないといっていた。それでも、わたしは諦めなかった。作業着の彼らの会社に電話をして元請けの会社名を訊いて、そこに電話をする。また元請けの会社を知り、そこに電話……という作業を繰り返した。でも、依頼元を辿っていたはずなのに、気づけば数回前に電話をした会社に、再び電話をかけていた。もうよくわからなくなって、そこで諦めた。

 ありえないと思ったけど、どこか納得もしてしまった。天界のだれかが不思議な力をつかって、太一のニンゲンインターンの後片付けをしたのだろう。

 わたしは一晩を空っぽになったインターンで過ごし、日が出ると、そこを後にした。

 途方に暮れながら一日中歩き回った末に、駅前のインターネットカフェにたどり着いた。わたしはそこでアルバイト募集の張り紙を見つけた。胸に『店長』とつけた人に話を聞くと、その場で面接となった。即採用だった。急にこなくなった従業員がいたようで、人手不足だったみたいだ。

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