第3話天界からのモラトリアム③

 太一との日常が永遠と続く気がした。いや、もはやそう願っていた。太一がずっと人間体験をしていればいい。そうすれば、やたら不安を煽ってくるわたしの将来と向き合わなくて済む。

 でも、一生このままであるはずがないのはわかっている。

 わたしは本屋に寄って、資格本のコーナーに向かった。ほんといろんな仕事があるし、いろんな資格もある。勉強は嫌いじゃないから、資格でもとってやろうと思うけど、いったいなにを選べばいいのかもわからない。この資格があれば一生安泰、みたいなものがあるかなとネットで調べたけど、簡単に取れるものの中で、そういうものはないみたいだ。

 わたしは運が悪いと同時に、どちらかというと無能と呼ばれる部類にいる。

 無職になって、わたしは自分の過去を思い返してみた。いままでどんなときでもがんばってきた。それなのに、どうしてこんなことになってしまったのか。

 わたしのいまがあるのは、全て、わたしになんの能力もないせいなのだ。

 たいていのことは努力すればどうにかなると思っていた。でも、どうやら世の中そういう仕組みにはなっていないらしい。

 子供のころから、なにをやってもうまくいかなかった。運動も勉強も、人付き合いも苦手。克服したくて、人一倍努力に時間をかけた。でも、結果は変わらなかった。

思い返すと、わたしがいま置かれている状況は、その「なにをやってもうまくいかない」が積み重なった結果なのだ。繰り返した失敗のしわ寄せが、ここにきて、わたしに現実をつきつけてきている。

「お前がいると仕事が増えるんだよ」

 やめた会社でいわれ続けたセリフだ。

 最初のほうはパワハラだと思った。これが噂に聞いていた、あれか、と。

 もちろん、その言葉を正面から浴びせられたときは、そんな冷静ではなく、息が止まるほどのショックを受けた。わたしそのものを否定されたようなそのときの気持ちは、いまでも憶えている。

 でも、それはパワハラなんかではなかった。

 いつも、わたしに落ち度があったのだ。

「おい、田ノ浦、この打ち合わせの時間って、間違えだよな?」

 社員数が十数人の小さい会社だったので、研修なんかろくに受けずに、わたしは実務にあたっていた。主にお客さんとの打ち合わせのセッティング。先方にアポをとって、打ち合わせの日時と場所を決める。また、それまで営業用の資料も一通り揃えておく。

 わたしは先輩社員のひとりについていた。

「いえ、間違ってないです」

「でも、このメール、打ち合わせ開始が二十一時って書いてあるぞ」

「はい。その時間にならないと、わたしの手が空かなくて」

「ばかやろう!」

 三十代半ばの男の先輩は、机を蹴って、すぐに怒鳴る。

「夜の九時だぞ。先方の就業時間、とっくに過ぎてんだろ。そんな時間に、こっちの都合の打ち合わせを入れるなんて、どんな神経してんだよ」

「すみません、リスケします」

「俺から謝罪と訂正のメールいれといたから、もういいよ。あっちのほうは、どうなった?」

「あっち、ですか?」

「SSL証明書の発行だよ」

「あ、まだ認証もらってないです」

「は、期限、もう今週だったよな。それ過ぎたら、うちのサイトの信用に関わるぞ」

「すみません、これから取り掛かります」

「普通に申請したんじゃ三営業日はかかりそうだから。俺がやる」

「ありがとうございます」

 あからさまにため息をつかれる。

「お前、なにもできないよな。俺、何人分の仕事すればいいんだよ」

「すみません」

 夜の十一時。男ばかりの、雑多とした狭苦しいオフィス。

 上司への申し訳なさと、自分への情けなさで、胃がムカついて、吐きそうになる。

 それでも、わたしがやらなきゃいけない仕事の量は日を追うごとに増える。慢性的な人手不足のようで、わたしの能力なんてお構いなしに、パソコンやデスクにはメールや書類、付箋が積み重なっていく。

 憧れとはかけ離れた、仕事。

 自分の期待を裏切る、自分。

 そんなことを思い出すだけで、吐きそうだ。

 また働くと思うと、ぞっとする。



「理子って、どんな子供だったの?」

 インターンの店番中。暇を持て余した太一から、そう訊かれる。

「どうして急にそんなこと」

「なんとなく」

「もしかして。人間に興味が出てきたとか?」

「そんなことはないよ」

「そっか。じゃあ、なりたいものは決まった?」

「全然」

「ゆっくり考えればいいよ」

 太一がゆっくりしてくれていれば、わたしもゆっくりできる。

「で、理子の子供のころは?」

「ないしょ」

 子供の頃なんて、思い出したくもない。

 美化される過去なんて、わたしにはないのだ。いつでも、わたしは不幸で、惨めな、能無し人間。

 わたしの過去なんて、ひとまずは無かったことになっている。

 でも、そういうわけにもいかなくなった。

「いらっしゃいませ」

 お店にお客さんが訪れる。

「さっき、電話したものですけど」

「あ、ノジマさんですか?」

「はい、そうです」

 わたしは女性四人組を、テーブルに誘導する。お客さんはわたしをただの店員だと思っているから、特に目が合ったり、言葉を交わしたりすることはない。

 だから、このときは気づかなかった。

「わたしのこと、憶えてる?」

 わたしがカウンターの内側で、ひと段落ついているときだった。

 さきほど案内したお客さんのひとりが、嬉しそうな顔をしてわたしの前に立っていた。どうやらわたしのことを知っているみたいだ。

 でも、わたしはどこの誰だかわからない。

 前の職場、大学、学生時代のアルバイト。わたしは記憶を探った。でも、目の前の女の人は、思い出せない。

「理子だよね?」

 こくりとうなずく。

「わたし、アカネ!」

 名前をいわれて、思い出した。

 遠坂茜。

「憶えてないの?」

 忘れているふりもできた。というか、そうしたかった。でも突然のことに、嘘をつく余裕なんてなかった。首をぶるぶる横に振って、憶えてる、と口にしてしまった。

「ひええ! こんなところで会えるなんて、嬉しい!」

 茜は飛びつくようにカウンターに身を乗り出すと、棒立ちになっているわたしの手を両手で握った。

 がらがらがらがら。

 彼女に手を握られたそのとき、わたしの平穏が崩れる音がした。

 背中のあたりがひんやりと冷たくなる。

 わたしの目の前に現れた人物は、紛れもなく遠坂茜だった。わたしの知っている彼女よりだいぶ大人になっているけど、間違えない。

 嫌な思い出がよみがえる。彼女の恐ろしく整った顔立ちは、あいかわらず冷たくて鋭利な刃物みたいだ。

 わたしのいまがあるのは、彼女のせいでもある。

 いまになって思えば、彼女こそ、わたしの人生を悲惨な方向に向かわせた、悪魔なのかもしれない。



「ちょっと、やめなよ。ひどいんじゃいの」

 中学三年の秋、わたしは茜のせいで学校に通うことができなくなった。

 それは、わたしが茜に注意したのがきっかけだった。

 茜はわたしの唯一の友達をいじめていた。それも、徹底的に。クラスみんなに無視させたり、黒板に名前付きで汚い言葉を書いたり、提出するべきノートを取り上げたり。彼女がいじめのターゲットになる理由なんてなかった。頭が良くて、誰にでも優しいみんなから慕われる女の子だった。

 当時のクラスには、だれしもが茜には逆らえないという空気があった。人気のある先生や、やんちゃな男子をうまく味方につけている彼女に逆らったら、その腹いせになにをされるかわからない。だから、みんな茜のいうことには従った。

 そんな茜に向かってわたしが口ごたえできたのは、友達を傷つけられていたという理由だけではなかった。

 わたしと茜は、少しだけ特別な関係だった。

 わたしたちは、物心ついたころからそばにいた、幼馴染だったのだ。

「アカネ、あそぼ!」

 小さいころは、毎日のように、茜の家に遊びにいっていた。

 わたしと茜は家が近所にあり、同じ学年ということもあって、小さい頃からとても仲がよかった。わたしがごく平凡な家の生まれで、向こうが地元でも有名な名家のお嬢様という違いは、子供の頃のわたしには大した問題ではなかった。わたしは茜のお屋敷みたいな家に行っては、わたしの家ではまず間違えなく買ってもらえない人形や雑誌、ゲームで遊ばせてもらった。茜の部屋にはキラキラしたものがたくさんあって、一日中ずっとその部屋にいれる茜のことが羨ましかったのを憶えている。

 小学生のときは、学校でもずっと茜についてまわっていた。彼女は勉強も運動もできて、クラスの人気者だった。彼女のまわりには、いつもたくさんの人が集まっていた。

 それなのに、茜は、いつでもわたしに構ってくれた。筆箱を忘れたら予備のえんぴつと消しゴムを貸してくれたし、教室移動のときはいつも隣にいたし、宿題も手伝ってくれた。そんな彼女のことを、同じ学年で同じ教室にいるものの、わたしはお姉さんのように慕っていた。

「よかった。中学生になっても理子と一緒だね」

 いよいよ小学校を卒業するときに、茜はそういってくれた。学校の数なんてそう多くない地方にいたから、進学するといっても小学校と中学校でメンバーはそう変わらない。だから同じ学校に進学することはむしろ当たり前なのに、わたしはその言葉がとても嬉しかった。

 中学校に上がると、小学生のときは三クラスだったのが、八クラスに増えた。でも、わたしと茜は同じクラスになった。

 わたしたちはずっと一緒。

 本気でそう思っていた。

 でも、中学に入学してから、わたしたちはだんだんと疎遠になっていった。わたしと茜との間にある容姿や学力、お小遣いの金額の違いなどからくるクラスでの立ち位置の差が、無視できなくなっていたのだ。

 茜は放課後に男子も含めて遊ぶようなグループにいるようになり、わたしは地味でおとなしい女の子と行動を共にするようになった。中学二年のときはクラスも違っていたので、たまに学校で茜を見かけると、懐かしいなとさえ感じていた。

 三年生になりまた同じクラスなった茜は、すでに、みんなからは恐れられた存在だった。高校生とつるんで、お酒を飲んでいたり、万引きで補導されたという噂も聞いていた。二年のときに、茜のクラスの担任の先生が突然学校にこなくなったのも、どうやら彼女が原因らしかった。

 だけど、わたしには変わらず優しい茜のはずだと思っていた。

 小学生のときの、頼れるお姉ちゃんみたいな存在。

 でも、その考えは甘かった。

「どういう意味?」

 わたしが茜にいじめをやめるようにいうと、彼女はわずかに首を傾けた。

「嫌がらせ。もうやめてあげて」

 わたしが真正面から訴えれば、茜は反省すると思った。

「どうして?」

「可愛そうだからだよ。泣いてるところも見ちゃったし」

「でも、もとはといえば、あいつが悪いからね」

「そうなの?」

「あいつ、わたしが宿題の答え見せてって頼んだのに、断ったの。ちゃんと自分でやったほうがいい、とかなんとかいって。だから、これはあいつへの罰なの」

 罰。

 茜の口からその言葉を聞いたとき、は? と思った。

「同級生に罰を与えるとか、茜って何様になったの? そんなにえらくなったの?」

 茜は舌打ちをした。

 その、チッ、という音を聞いて、やばいと思った。その嫌な予感はみごとに当たり、それはわたしの転落の合図になった。

 翌日からクラスのいじめの対象は、わかりやすいようにわたしに切り替わった。

 いつ申し合わせたのかと不思議に思うほど、みんなしてわたしを攻撃するのがクラス全体の決まりごとになっていた。話しかけても、みんなまるでわたしがいないみたいに振る舞うし、わたしの身の回りのものがよくなくなるようになった。いたるところで殴り書きされたわたしの悪口を見た。五人の女子から囲まれて暴力を振るわれることもあった。耐えられなかったのは、その五人のなかに、わたしがかばった友達が含まれていたことだ。

 わたしはその子に、いつも勉強を教えてもらっていた。学校の授業についていけず、塾にも通わせてもらえないわたしにとって、彼女こそわたしの先生だった。そんな友達を失ったわけだから、途端に勉強についていけなくなった。それでも目標としていた高校があったから、そこに進学するためになんとか学校に食らいついていた。

そんなわたしも、彼女からされた平手打ちで、すべてがくじけてしまった。

 それから学校には足を運んでいない。

 そのときにはもう東京の大学に行くことを考えていて、それに向けて、大学進学を目指せる高校を志望していた。でも、そんな高校を目指していたことが馬鹿げていたと思えるくらいに、みるみる成績が落ちた。最終的に、大学に進学することなんてまるで視野に入れていないような人が通う高校に進学するしかなくなっていた。

いま思えばそれが身分相応だったのだけど、そのときは悔しくてしょうがなかった。

 茜さえいなければ。

 そうすれば、友達をとられることも、成績が落ちることもなかった。

 許せない。

 許せないけど、わたしはなにもできない。

 その後、茜が有名大学付属の高校に進学したことを、わたしはお母さんから聞いた。

 そりゃそうだろうと思った。

 彼女の家はお金持ちだし、なにより彼女は頭がよかった。



 茜はエスカレーターで進学した名門私立大学を卒業して、有名化粧品メーカーに就職したそうだ。それでいまは銀座のデパートで化粧品の販売員をしているという。

 華やかで都会的な見た目に加え、だれからも好かれるような社交性。仕事は順調そうで、お金にも時間にも余裕があるように見える。悔しいけど、茜はいまでもわたしの欲しいものをすべて手にしていた。久しぶりに会った彼女は、わたしのなりたかった姿そのものだった。

 茜になんか、会いたくなかった。彼女が目の前にいると、自分がいっそう惨めに思えてくるし、彼女への憎しみも思い出してしまう。

 でも、茜はしょっちゅうインターンに遊びにくるようになった。

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