第2話天界からのモラトリアム②
男の人とひとつ屋根の下でふたりきりなんて経験、お父さんを除けば初めてのことだった。ここを使っていいよ、と案内された部屋の扉に鍵はなく、なんとなく扉の前にバックを置いて、しばらく部屋に閉じこもっていた。でも、いつでも太一が扉を開けてここに入ってこれる状況に、ずっと落ち着かなかった。
部屋に入ってから、どうしよう、どうしようとつぶやきながら、体育座りでうずくまったり、立ち上がって同じ場所をくるくる回ったりしている。勢いで部屋に上がったものの、ここにきて後悔してきた。するとノックの音がした。
「理子、おきてる?」
「は、はい」
「ご飯できたよ」
「作ってくれたんですか?」
「夜ご飯、まだ食べてないかなと思って」
恐る恐る扉を開けると、太一がいた。
「お腹すいてない?」
「すいてます」
ダイニングのテーブルの上には、ハンバーグがあった。ちゃんと鉄板の上に乗っていて、お店で出されるものみたいだ。嫌い? と訊かれて、首を横にぶるぶる振る。口に入れると、デミグラスソースの甘みが鼻を抜け、味もお店みたいに本格的だった。
ボウルに入ったサラダも取り分けてもらったので、それにも手をつける。
「これからどうするつもりだったの?」
「これから、というと」
「仕事とか」
「なにも決まってないです」
丁寧語はやめてよ、と注意される。出会ったときは投げやりな気持ちだったせいか、砕けた感じで接することができた。でも、いざ男の生活スペースに身を置くと緊張した。
思い切って、うん、とつぶやくようにいってみる。すると、ちょっとだけ緊張が和らいだ。
「じゃあ、しばらくここで考えればいいよ」
「どうして、こんなに親切にするの?」
そう訊くと、太一は目をぱちくりさせた。
「さっきも説明したじゃん。理子がいれば、ニンゲンが不幸な生き物だって証明できる」
「ああ、人間の体験中なんだっけ」
そういうと、あ、と腑に落ちることがあった。
「だからお店の名前、インターンなのか」
「どういうこと?」
「人間になる前に、人間を体験してるんでしょ? なんか、企業のインターンみたいじゃん」
「企業のインターン?」
「知らないの? インターン」
「なにか意味のある言葉だったんだ」
「就職する前とかに、ちょっとだけその職業を体験する制度のこと。なにも知らないまま就職するのは怖いから、事前に経験して、どんな仕事をするのかとか、自分に向いてるのかとかを勉強するの」
「へえ、知らなかった。でも、確かに、いまのぼくにぴったりの言葉だね。なにかに生まれ変わる前の勉強として、ニンゲンって生き物を体験してる。ぼくは、ニンゲンインターンをしているんだ」
「ニンゲンインターン?」
「うん。ニンゲンインターン」
「変な言葉」
「そうだね。それに、退屈だし、無駄な時間」
夜ご飯をご馳走になった後も、わたしは部屋に引きこもった。太一から危険な匂いはしなかったけど、とはいえ知らない男だ。いつなにをされるかわからない。トイレや、冷蔵庫に行くと身近に太一の姿があって、その度にてんぱった。
やっぱり逃げ出そうかとも思った。普通に考えると、そうするべきだった。よくわからない身の上話をする、よくわからない男との生活なんて、危険極まりない。でも、ここを出て日常に戻っても、わたしに逃げ場なんてなかった。無職だし、そろそろ始まる奨学金の返済は早速滞納することになる。アパートの家賃だって払えない。よくよく考えると、日常のほうがここより何倍も怖い場所に感じた。
「お風呂、沸いたよ」
またノックがして、そんな声が聞こえてくる。断れずに流されるまま、お風呂に浸かった。途中で太一が入ってくるんじゃないかとビクビクしていたけど、そんなことはなかった。
結局、わたしはそのまま太一の部屋で一晩を過ごした。太一が突然襲ってくるとか、心配していたことなんてなにひとつ起こらなくて、拍子抜けするくらいだった。朝起きても、もう朝ごはんが用意されていたし、ほんと彼はなにを考えてわたしを家に置いているのかわからない。
ボードゲームカフェ・インターンのオープンは十一時だった。目覚めてから、ゆっくりと朝ごはんを食べて身支度し、十時半に隣の部屋のお店に出社。
お手伝いってことで、太一からオレンジ色のエプロンをもらって、わたしもお店に立つ。でも、いつまで経ってもお客さんがくる気配はなかった。そもそも、ボードゲームカフェなんて世の中の需要があるのか、と思う。
暇だったから、太一とボードゲームのルールを覚えながら、その日を終えた。
わたしはいち早く、転職活動をしなければいけなかった。奨学金返済を後ろに延ばす手続きを済ませて安心してしまったけど、わたしは六百万円の借金を抱えた、職なし家なしの人間なのだ。早く自立して、人間の不幸を証明するなんていう謎の男の元から脱出しなければならない。
とはいえ、脳みそのとろけるような、のんびりとした太一との生活は、わたしからやる気というものを奪っていた。なにもしなくてもご飯が出てくるし、話し相手が身近にいる。そんな状況の中、わざわざ厳しい社会に飛び込もうなんて気持ちになんかなれなかった。
「ねえ、太一」
「ん?」
「わたしどこかに就職しなきゃいけないんだけど」
「うん、早くそうしたほうがいいよ。ぼくだって、ずっとニンゲンとしてこの世界にいるわけじゃないし」
「だから、転職活動手伝ってくれない?」
「いいけど。どうやって?」
「さあ」
太一に頼ろうとしたけど、彼は就職なんてしたことがないようだった。実際のところはどうなのかわからないけど、太一はあくまでも天界からやってきた人間(?)。その設定の中のキャラクターを演じることで生きている。
「どんなことがしたいの?」
太一が訊いてくる。
「それがわからないの。なにがしたいってよりは、わたしにはなにができるのか」
「仕事の種類、たくさんあるからね」
「ほんとにね。太一はなにに生まれ変わりたいの?」
「決まってない」
「わたしと一緒じゃん」
「だね」
わたしも生まれ変わるならなにになりたいか、と考える。植物も動物も詳しくないからわからない。でも、太一と違って、人間は悪くないと思う。いまのわたしみたいではなく、ちゃんとこの世界に居場所のある人間であれば。
「そうだ」
わたしが声を上げる。
「なに?」
「動物園に行こうよ」
「動物好きなの?」
「そういうわけじゃないけど」
「じゃあ、どうして?」
「いろんな種類の動物がいるから。太一の今後の参考になるかなって」
「なるほど」
本当は、お客さんのこないボードゲームカフェという退屈な空間から、ちょっとでも抜け出したかった。
その翌日、お店の扉に『Close』と書かれたプレートをぶら下げ、太一をひっぱるようにして部屋を出た。
ボードゲームカフェ・インターンは幸い上野にあった。日本最大の動物園らしい上野動物園は歩いていける距離だ。
初めて太一とふたりで街を歩くことに、わくわくしていた。わたしは男の人とデートをしたことがない。
雲ひとつない空に包まれた平日の昼間。街に人の姿はたくさんあったけど、園内はがらんとしていた。外で飼育されている大型動物たちは、今にもあくびをしそうなほどのんびりとしている。その姿は、お客さんにたくさんサービスをした週末の疲れを取っているみたいだった。
パンフレットをベンチに座って広げる。園内の隅々まで動物がいるようだ。ここから将来を探す太一からしたら、まるでメッセとかビックサイトで行われる就職フェアだ。この中から自分がなりたいものを選べといわれたら、迷うだろう。
でも、動物を見る太一の目は心なしかキラキラ輝いているように見えた。
「楽しい?」
「そこそこ。ニンゲンのつくった娯楽施設って初めてだし。この世界にきてから、ずっと散歩くらいしかしてこなかったから」
「なりたい動物はいた?」
「どうだろう。なりたいものなんてないのかも」
「でも、人間にはなりたくない、と」
「うん」
「こだわりはあるんだ」
ふらふら歩いて、やがてパンダの前にいきついた。正門から入ればすぐに目にすることになるパンダだけど、この日のわたしたちは大通りに面した裏口みたいなところから動物園に入っていた。
「なんか、棒を食べてるね」
というわたしに、竹だよ、と太一はつっこむ。
「パンダは竹を食べているか、寝ているかしかしない動物なんだ」
「楽そうでいいじゃん」
「彼らがどれだけ竹を食べるか知ってる?」
「お腹いっぱい食べるんじゃない」
「それが自分の体重の四十パーセントもの量なんだよ」
パンダの体重のほぼ半分の量の竹。と聞いてもピンとこないけど、かなりの量があることはわかる。
「食いしん坊なんだね」
「草食動物が生きていくのに十分な栄養をとるためには、大量の植物を摂取する必要があるんだ。だから、多くの時間を食事に費やさないといけない。象なんて一日十八時間も草を食べてるんだよ」
太一は話に熱を込めるわけでもなく、淡々と動物に関する情報を口にする。
「詳しいんだ」
「なにが?」
「動物園なんか興味ない風だったけど、太一って動物に詳しいんだなと思って」
それを聞いて、太一は納得したように、ああ、と声を漏らした。
「生まれ変わり先は一生を左右する。慎重になる分、詳しくもなるよ」
「毎日ぼんやりしているように見えてたけど、ちゃんと考えてるんだ」
「理子と一緒にしないでよ」
返す言葉がなかった。太一のいう通り、わたしもなにかにならないといけないはずなのに、その選択から逃げている。
でも、かつてのわたしは、いまの太一と同じだったのかもしれないと思う。東京で働くキャリアウーマンというなりたい姿になるために、前だけを向いて行動していた。大学に入れば未来はひらけるし、東京に行けばいろんな仕事がある。人間であるわたしには動物園にいる動物の数よりうんと多様な選択肢があって、何者かになれる可能性が広がっていると思い込んでいた。
「わたしには選ぶ権利なんてなかったからな」
「ん?」
「就職活動。病むほど落とされて、やっと決まった職業は使い捨ての道具だった」
それまで楽しかったはずの動物園で、嫌なことを思い出してしまう。かつての記憶を振り払うように首を振ると、見ていたパンダも同じように頭を揺らした。
「ぼくだって仮にパンダになりたくても、なれないと思う。絶滅危惧種だから、枠が少ないんだよ。というか、募集なんてほとんどない」
「ブラックな動物にならないといいね」
「例えば、ニンゲンとかね。さ、次にいこうか」
トラとか、像とか、カバとか、キリン。もし自分がそれらになるなら、なんて見方をしながら動物園を歩いたのは初めてだ。くちばしが大きく高圧的なルックスなのに、ずっと微動だにせずに突っ立っている鳥とか、口だけを動かして、長細い草をちょっとずつ口に含ませる草食動物とか、どんな動物も個性が光りすぎて、自分がそれになるなんて想像もつかない。
太一はなにを思いながら動物たちを見ているのだろう。わたしは動物に目をやるふりをしながら、ちらちらと彼の横顔を覗き見ていた。彼はいつでも真剣だった。
でも、この日、太一が一番の関心を寄せたのが、ベンチにひとりで座る小さな男の子だった。歳は二歳か、三歳くらい。まだ幼稚園にも上がらないくらいの男の子は、何をするでもなくただベンチに座っていた。
「迷子かな」
太一はその子を見つけるなりぴたっと足を止めて、そしてベンチに近づいていった。
「ひとり?」
太一はしゃがんでそう問いかける。わたしはまわりに目を向けた。彼の保護者のような人の姿は見当たらない。
「動物園、楽しい?」
太一がそういって男の子の手を握った。その途端に、男の子の顔が徐々に歪んで、泣かれてしまった。
どの動物よりも元気のいい泣き声。
「もう、なにしてるのよ」
わたしはしゃがんで、男の子の頭に手をのせた。よしよし、頭を撫でても泣き止んでくれない。困った。
「お父さんか、お母さんはどこにいるんだろう」
「こんな小さな子ひとり残してどっかにいくなんて、なんてありえないよね。たぶん、この子が勝手に動いちゃってはぐれたんじゃないかな。向こうも探してるはずだよ」
「ちょっと、待ってて」
太一はそういうと、走ってどこかへ行ってしまった。呆気にとられたわたしは、泣き叫ぶ幼児とふたりで残される。別に誘拐したわけでもないのに、責められているような気がしてきて、いたたまれなくなる。
太一はすぐに戻ってきた。
「はい、ペンギンだよ」
そういいながら、彼は小さなペンギンのぬいぐるみを男の子の顔にくっつけて、撫でた。
「それどうしたの?」
「さっき売店で見かけたから、買ってきた」
太一はピヤァボロロロという謎の声を発しながら、ぬいぐるみのペンギンの身体を握って、くねくねさせていた。
「ピヤァボロロロ」
「なに、その音」
「ペンギンの鳴き声」
一定の間隔で、ピヤァボロロロと地獄からの叫び声みたいな音をあげる。当然、男の子は泣き止まない。
さっきペンギンは見てきたけど、そんな鳴き声は聞いていない。太一は、その鳴き声をもともと知っていたのだろう。それをここで再現しているのだ。でも、せっかくペンギンのぬいぐるみは可愛いのに、無駄にリアルな鳴き声がそれを台無しにしている。
そんなことをしていると、若い男女が私たちのもとへやってきた。それは男の子のお父さんとお母さんだった。変なことをしているところを見られて気まずかったけど、何度も頭を下げて謝罪と感謝をされた。
「これ、あげるよ」
太一が男の子にぬいぐるみをあげると、最後に笑顔を見せてくれた。
手を振って、三人と別れる。
「よかった。捨てられてたんじゃなくて」
「捨てるって、あの男の子を?」
「うん」
「そんな。ありえないでしょ」
「捨てられていた可能性もあったでしょ」
可能性とかいわれたら、確かにそうだ。人間の親が子供を捨てることもある。
「それを心配して、あの子に近づいたの?」
「あの子、とても困っているように見えたから」
男の子に近づいていく太一に、迷いなんてなかった。それほど心配していたのだろう。それに泣き止んでもらうためにぬいぐるみを買うほど、どうにか元気になってほしいと思っていたのだ。
「あのときの理子も困って見えた」
「どのとき?」
「ぼくと初めて会ったとき」
「ああ。困ってたよ、すごく」
「あの子よりもっとひどかったけどね。びしょびしょになりながらベンチに座ってた。最初から泣いてたし」
「やめてよ」
もしかして太一がわたしに声をかけてくれたのは、わたしが不幸そうだからという理由じゃなかったのかもしれない。あの男の子に近づいていったときと同じように、わたしのことを心配して、涙を流すわたしに手を差し伸べてくれたのだろうかとも思える。
「理子は社会に捨てられていたわけだけど」
うっ。
「やめてよ」
彼の背中を叩きつつも、笑ってしまった。普通にひどいことをいってくるし、やっぱり、太一がわたしを心配しているはずがない。彼のいう通り、わたしは社会に捨てられていた。社会は人の親じゃないから、残酷なほど無情だ。
結局、この日は太一の生まれ変わり先の候補は見つからないまま、動物園は閉園時間を迎えた。
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