ニンゲンインターン

濱崎ハル

第1話天界からのモラトリアム①

 新卒で入社し、わずか半年しか勤務できなかった会社をやめた日、わたしは人生で初めてのナンパを経験した。

「嫌なことでもあった?」

 ベンチに座り、ひとり雨に打たれていたわたしの頭の上に、彼は傘をかけてくれた。

「もしよかったら、うちに来ない?」

 生まれてから二十三年間、一度も男の人から声をかけられたことなんてなかった。それは街で見知らぬ人から言い寄られることに限らず、学校にいても職場にいても同じ。わたしに興味を持つ男の人なんてだれひとりとしていなかった。そんな冴えないわたしに、彼は声をかけてくれたのだ。

 でも、そのときのわたしの周りには負のオーラがどんよりと漂っていたはずだ。どしゃ降りの暗闇で、傘もささずにひとりベンチに座っていた。全身びしょ濡れで、メイクも剥がれ落ち、おまけに涙で目元を腫らしていた。

 そんなときに限って、声をかけられるなんて。

 わたしは、どこの誰かもわからないその男についていくことにした。投げやりだった。このときばかりは、人生が終わったと思っていた。

 ひとつの傘に二人して入りながら、黙々と歩いた。会話はなかった。わたしを濡らさないようにしているせいで、彼の左肩に雨が当たり続けていることだけが、ずっと気になっていた。

 やがてマンションに到着した。彼が鍵を差し込んだドアには、アルファベットの形をしたマグネットが並んではりつけられていた。


Board Game Cafe Intern


 ボードゲームカフェ、インターン?

 アルファベットは、そんな文字をつくって並んでいた。

 男性が一人暮らしをする部屋のドアとしてはちょっと不自然だな。そう思いながらも、案内されるがままわたしは部屋に入った。

「どこでもいいから座ってて。タオル持ってくるから」

 部屋に電気がつけられた瞬間、思わず、わあ、と声を上げてしまった。

「ここって、あなたの家?」

「ぼくの住んでる部屋は隣。ここは、ぼくのお店」

 彼はそういうと、部屋を出ていった。

 ひとり残されたわたしは、体をゆっくり一回転させながら、部屋中を見渡した。五つのテーブルを囲う壁はすべて棚になっていて、そこには色とりどりの箱が並べられていた。その箱のひとつひとつは、可愛らしかったり、かっこよかったり、ちょっとおどろおどろしかったりと、バラエティに富んだイラストがプリントされている。

 まるで、おもちゃ屋に入り込んだみたいだった。好奇心をくすぐるようなカラフルなパッケージが、懐かしい記憶を刺激する。子供の頃お父さんに連れていってもらった小さなおもちゃ屋を思い出し、タイムスリップしたみたいな気分になった。

「はい、これ」

 戻ってきた彼がバスタオルをくれた。

「風邪ひかないように、髪の毛、拭きな」

 彼の厚意に甘えることにして、わたしはタオルを頭にかぶって、ごしごしと髪の毛を撫でた。タオルは新品みたいに肌触りがよかった。

「ここっておもちゃ屋さん?」

「これは売り物じゃないよ。それに、これはおもちゃっていうものとも、ちょっと違う」

 彼は箱のひとつを手に取った。

「じゃあ、なんなの?」

「ボードゲーム」

「人生ゲームとか、オセロとかのこと?」

「そうだよ」

「これ、全部ボードゲームなの?」

「うん」

 わたしは改めて、色とりどりに陳列された箱たちを見渡した。壁一面に所狭しとならべられたおもちゃの箱みたいなものは、すべてボードゲームなのだ。

「何種類あるんだろう」

「二百」

 どれもテーブルに広げて数人で遊ぶボードゲームだ。それに二百もの個性があることをわたしは知らなかった。

「でも、売り物じゃないの?」

「ここはボードゲームカフェだから」

 ドアに書かれていた文字を、彼は口にした。

「なんなの? その、ボードゲームカフェって」

「友達や家族、恋人どうしできたお客さんが、好きなボードゲームを広げて遊ぶ。そういう場所だよ、ここは」

 ここは人がボードゲームをしにくる場所なのだ。世の中にそんなところがあるなんて、想像力の乏しいわたしは夢にも思わなかった。

「せっかくだから、どれかで遊ぶ?」

 ボードゲームで遊ぶなんて、いつ以来だろう。その存在は知っていたけど、それは自分とは関係のないものだと思っていた。微分積分とか、バスケットボールとか、真っ赤なスカートとかと同じ。どれもこの世界を構成する部品のひとつだけど、わたしには必要のないガラクタ。

「全部、キラキラして見えるね」

「何にしようか。中にはルールを覚えるのが難しいものもあるから、できるだけ簡単に遊べるものがいいよね」

「人生ゲームがいい」

 わたしはそういうと、彼はきょとんとした。

「二人で?」

「できない?」

「そんなこともないけど」

「じゃあ、決まり」

 わたしは膨大なボードゲームの中から、人生ゲームを探した。すると、後ろか彼の手が伸びてきて、一番高いところにある箱をつかんだ。

 そのパッケージは小学生のとき友達の家で遊んだものと同じだった。淡い色をした思い出が、すうっとよみがえってくる。



 カラカラッとルーレットが回る心地いい音を聴きながら、進むべき未来を待つ。

 わたしは針の止まった数の分だけ、ピンク色のピンがささった小型の車を動かした。

「いち、にい、さん、よん、ご。あ、パティシエになれる」

 はい、とパティシエと書かれた職業カードを渡された。ゲームではいとも簡単に何者かになれるんだな、と改めて思う。

「次、太一の番だね」

「ぼくはなにになるのかな」

 彼もルーレットを回した。コマを八つ動かして、銀行家になる。

 わたしをナンパした男は、太一といった。苗字はない。それだけじゃなくて、彼には誕生日も血液型も、メールアドレスもSNSアカウントもないらしい。

「ぼくには過去ってものがないんだよ」

 太一はそんなことを平然という。

「記憶喪失なの?」

「過去を失っているわけじゃない。つい一週間前にこの世界にきたばかりだから、この世で積み上げてきた思い出がないんだ」

 さらに話をよく聞くと、彼はなんと天界からやってきたという。

 この世の生き物は生をまっとうすると、その魂は肉体から離れて天界へとのぼる。そして、天界の魂はやがてまたこの世で生きるために肉体を与えられ、新しい命が誕生する。輪廻転成とか、生まれ変わりといわれる考え方だ。

太一は近々生まれ変わりを控えている、天界の住人だという。もうまもなくしたら、天界での魂としての期間を終えるそうだ。つまり、これから肉体が与えられ、この世の中で生きていくことになる。

「だから、そろそろ次の生まれ変わり先を考えないといけなくて。なにになろうか悩んでいたときに、少しの間だけ人間を体験しないかって話をもらってね。それで、こうしてここにいるわけ」

 これが太一の自己紹介。天界の魂は、生まれ変わる先を選べるらしい。人間にもなれるし、ライオンとか、カブトムシとか、タンポポにだって生まれ変われるみたいだ。そして、彼は何者かに生まれ変わる前の下準備として、人間を体験している。

 変な設定だなと思うけど、わたしは彼の話を否定する気にはなれなかった。

 世の中にはいろんな人がいる。そして、いろんな考え方がある。太一のつくりだした世界観も、その『いろんな』に含まれるひとつの姿なのだと思えば納得もできた。

「わたしは今日、会社を辞めてきたの」

 変な話を聞いた後だから、すんなりと自分の身の上話が口から出てくる。

「しばらく休職してたんだけど、なかなか復帰する気になれなくて。今日、退職届を出して会社とお別れしてきた」

 口に出すと、また涙が出てきそうだった。

 嫌だった会社をやっと辞められたのに、泣いてしまいそうになる。というか、公園のベンチでは泣いてしまった。

 最後に会社を出たときは清々した気持ちだった。もうここにこなくていいんだと思うと、胸の中にずっとあったシコリみたいなものがとれて、身体の中が綺麗に掃除されたようだった。だけど、しばらく歩いているうちに不安が襲ってきた。奨学金という名の借金六百万円を抱えている上に、生活を続けるのに必要な仕事を失ったわたしは、これからどうやって生きていけばいいのか。わたしの歩みはだんだんとペースを落とし、ベンチに腰掛けるとぽろりぽろりと涙が落ちてきた。

 そこに太一が現れたのだ。

「辛かったんだね」

「わかってくれるんだ」

「やっぱり。人間になんかになるもんじゃない」

「太一も嫌なことがあったの?」

 太一の年齢は三十手前といったところだろうか。表情とか振る舞いに余裕があって、爽やかなマスクを被っている。でも、どこか陰のある憂いを帯びた目は、少し疲れているようにも見える。

「ニンゲンの体験なんかしたくなかった。でも、こうしてここに連れてこられて、ニンゲンとしての生活をさせられている。ニンゲンになることが幸せだって、あいつらは決めつけているんだよ」

「あいつら?」

「固定観念に支配された天界のやつら」

 太一はため息をついて、ルーレットを回した。

カラカラカラカラカラ、カラ、カラ……カラ。

彼に子供ができる。

 人生ゲームは安心だ。就職した会社がブラック企業だったとか、奨学金の返済が困難になるとか、そういう心まで蝕まれるマスがない。みんな平等にそこそこの人生があり、人との差をつきつけられて自己嫌悪に陥ることもない。そして何より、終わりがある。いくら絶望的な人生だったとしても、終わってしまえば、もうその無様な生き様を忘れられる。

「就職、結婚、子供、マイホーム。この日本版の人生ゲームは八十年代のモデルが引き継がれているから、そういったものが、そのころの幸せの代名詞なんだろうね」

「今でも、幸せだって思っている人が多いよ」

「そうかもしれない。でも、そんなの決めつけだって主張する人も増えてきてるんでしょ?」

 就職? 結婚? 子供? マイホーム? そんなの、わたしはいらない。幸せの定義を押し付けないでよ!

 太一のいう通り、それはまるでこの時代のスローガンのように、あちこちで叫ばれている。わたしには、わたしの幸せがあるの。オンリーワン。

「幸せなんてないのに」

 太一がぽつりという。

「幸せなんて目に見えなくて形のない幻想だから、人間はそれをなにかに置き換えて、それが幸せだって決めつける。その決めつけた幸せを手に入れても、入れなくても、結局、満たされるなんてことはない」

 太一は、ふっと鼻から息を漏らして笑う。

「だったら、幸せなんて概念のない、動物とか植物がいいよ」

 赤いピンと、青いピンがそれぞれ一本ずつ立っている車をわたしは動かしている。赤がわたしで、青が旦那さんと子供。人生ゲームは佳境を迎えている。

「夢」

 わたしの口からその言葉が漏れた。

「ゆめ?」

「わたしには夢があったの。そのために、今まで努力してきた」

 とはいっても、大した夢ではない。東京のおしゃれなオフィスでばりばり働きたい、という小さな夢だ。

 小学生のときに見たお仕事ドラマの影響で、わたしは東京での仕事に憧れた。東京という街、オフィス、そこで働く人たちのファッション、ヘアースタイル、どこをとってもキラキラとしていて、わたしはそれになりたかった。ドラマを見た後、わたしは夢中になってネットや、図書館にあった雑誌で東京について調べた。丸の内のOL。わたしがなりたいのは、どうやらそれらしかった。

「でも、仕事やめちゃったんでしょ」

「丸の内でも、オフィスレディでもなかったから」

「じゃあ、なんだったの?」

「使い捨ての道具」

 就職活動が思い通りにいかなくて、やっとの思いで内定にこぎつけた会社は、WEB広告を取り扱う小さな会社だった。そこでわたしは早朝から、夜遅くまでクライアントとの対応やその準備に追われた。もともと勘がよくないわたしは、いくら働いても仕事をうまくこなせず、毎日受ける上司からの注意はやがて罵声に変わっていった。そんな中でも、仕事の量は増える一方で、とうとう身体と心を壊す寸前のところまできた。幸いなのは、手遅れになる前に病院へ行くという判断ができたことだ。そうしなければ、今頃どうなっていたのかわからない。

 思い返せば、わたしはドラマの中で見たような、東京でばりばり働く優雅で知的な女性とは程遠い人間だった。

 地方の貧しい家に生まれて、高度な教育なんて望めないような環境で育った。見た目だって地味で冴えない。それなのに、憧れに向かって勉強なんかして、親の反対を押し切って奨学金という借金までして東京に出てきた。入学したのは、ネットでは入る価値がないと揶揄されるレベルの大学。そこでの生活も、生活費のためのアルバイトで忙しく、学業はなんとか単位を取れるほど。十分な睡眠もとれずに、メイクやファッションに気を遣っている暇もなかった。

 憧れに向かっているはずなのに、そこからどんどんかけ離れていく。その実感はあった。でもどうすることもできなかった。

 わたしの人生、なんなのだろう。

 ふとしたときに、自分が嫌でしょうがなくなる。

「ぼくの見込んだとおりだ」

 ついべらべらしゃべってしまった。口を閉じて太一を見ると、彼はなぜか目を輝かせていた。さきほどまでの厭世的な瞳はそこにはない。

「どういう意味?」

「理子、ぼくが天界へ帰るまで、一緒に生活してくれないか?」

 生活? 一晩、一緒に過ごさないかとかではなくて?

 問い返したいことは山ほどあるはずなのに、わたしは口をぱくぱくさせるだけで言葉が出てこなかった。

「仕事、辞めて困ってるんでしょ。ぼくと暮らせばお金はかからないし、食べるものだって用意する。悪い話じゃないと思うんだけど」

「どうして」

「うん?」

「どうして、わたしなんかと一緒に暮らしたいの?」

 太一は、恥ずかしそうに、頭の後ろを撫でながら口を開く。

「実は、ニンゲンの不幸を証明したいんだ」

 彼のいっていることの意味がわからず、わたしは首を傾げた。

「さっきもいったでしょ。ぼくはニンゲンに生まれ変わりたくないって。だから、不幸なニンゲンと一緒にいれば、ニンゲンなんかになるべきじゃないってことが天界まで伝わるかなって」

 太一はこの世界にきてからずっと不幸そうな人を探していたのだそうだ。彼が人間にならずに済むために。

 このときはじめて、なるほど、とすべてを理解した。

 闇夜に沈んだ公園のベンチでひとり涙を流していたわたしこそ、彼が望んでいた人間だったってわけだ。

 でもこれは、わたしを家に連れ込むための口実なのだろうか。

「お願い、理子」

 太一からは下心のようなものを感じない。そもそも、男の人から声をかけられたことのないわたしに、男の下心なんてわからないのだけど。

「だめ、かな」

 乗りかかった船。わたしにとっての太一はその船なのかもしれない。それに、これからどうやって生きていくかなんていう具体的な計画はない。実家に帰ってアルバイトでやり過ごすこともできるけど、そんなことをしたら奨学金を返すだけで二十代が終わってしまう。

「人生ゲームが終わるまでに、考えておく」

 そういったものの、答えは決まっていた。

 こうして、天界からのお尋ね者である太一との共同生活が始まった。

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