夫2

惑星ソラリスのラストの、びしょびし...

第1話

 さて夫が家に帰ると「おかえりなさい」と妻が出迎える。夫はああ、うんなどと応じ手を洗いリビングへ向かう。リビングのソファに男が一人、横になってテレビを見てアハアハ、ハアハアと笑い、夫に気付き「おかえり」という。夫はああ、はい、ただいまと言い、言ってから首を傾げる。夫はこの男に見覚えがなかった。はて、妻の兄弟だろうか、何せ結婚式でチラと見ただけだから顔なんてすっかりあいまいだ。あるいは俺の兄弟だろうか。こちらもすっかりご無沙汰だから顔はおろか実際いたのかどうかも曖昧だった。

「あの、彼、誰かな」と妻に聞く。

「ああ、彼、夫2」

「夫2」と夫は鸚鵡返しで聞き返す。「安かったのよ」と妻が言う。安かったのか、夫2。と夫は思う。


 夫が風呂から上がり三人で遅い夕食となる。夫は野菜炒めを頬張りながら

「ところで、夫2とは何かな」

「何かな、とは何かな」と夫2が沢庵をぽりぽりと齧る。

「いや、夫に2はないだろう」

「しかし、俺は確かに妻の夫だぜ」

「そんな馬鹿な、君は夫じゃあないだろう……」

こいつは妙だと夫は思う。ひょっとするとこの男はどうやらひどい妄想癖を持っているのかもしれない。妻は脅されて、しぶしぶこの男を家にあげたのかも。俺がしっかりしなければなるまい。

「なぜそう思うんだい?」と夫2はいう。

「なぜ? なにが」

「だから、どうして俺が妻の夫じゃないって、そういえるんだい?」

「なぜって……」

なぜかな。そこで夫ははたと止まり皿の上に載せられた妙にぴらぴらした豚肉の生姜焼きを見つめて黙ってしまう。なぜ? それは俺が俺が俺こそが妻の夫だからだ。いやしかし、俺が妻の夫だからといって、今目の前にいる彼もまた妻の夫でないとなぜ言い切れるのだ? 見よこの男の自信に満ち溢れテレビを見てはアハアハ、ハアハアと笑い豚肉の生姜焼きと白米をガッガッと口へかきこむ不遜な態度を! それを見ているとどうにも気持ちが揺らいでくるではないか。どうだろう、そもそも俺は本当に妻の夫なのかな。いやいや俺は夫なんだ。本当に? うるさい黙れ、確かに俺は妻と結婚し、こうして何年も連れ添っているのだ。しかし連れ添っているからといって俺が妻の夫であるという証拠があるのだろうか。そういえば結婚式のときから妙に気持ちがふわふわとして記憶が定かではない気もする。なんだかあやふやになってきた。まるでこの妙にぴらぴらした豚肉の生姜焼きのようだ……この男には妙な説得力、凄みのようなものがある。妙だ。妙だ。ひょっとするかもしれないぞ。もし、この男がまるっきり嘘をついているとすれば、大したものだ。その肝の太さには是非ともあやかりたいものだ。むろん生姜焼きはぴらぴらしていたものの決してあやふやではなく噛めば微かに歯ごたえを主張する本物のそれだったがぴらぴらしているのはひとえに夫の稼ぎが頼りないからであり夫は意思の弱いところがありそれは夫自身が認めるところでもありその意思の弱さは夫の上司に見抜かれておりゆえに重要な職責からは外され夫はいまだに平社員であった。

 夫はすっかり困ってしまい、ズズズっと味噌汁を啜る妻の顔はテレビに向けられそのテレビを見て「アハアハ、ハアハア」と夫2が笑い生姜焼きを口へ運び「うまいうまい」「そういえば今日、隣の田中さんがね」と妻がどうしようもないご近所ゴシップ未満の話を始めるのを夫2がやはりアハアハ、ハアハアと言いながらテレビを見て生返事で答えるのを夫は見、妻は夫にも夫2にもお構いなしにぺらぺら話す「だから田中さんがそのとき───」

 夫は麦茶をごくりと飲み、「やっぱり、これは変じゃないかな」

「え?」と夫2がやはり生返事で返す。夫は妻に向かって、「だって、変だろう。夫が二人なんて」「でも、ほんとに安かったのよ」と妻は言う。「いや、これは金銭の問題じゃなくて」「じゃあ何」「愛の問題」「アハアハ、ハアハア」「ちょっと、君、こんなときにテレビを見るのは」夫が珍しく強い口調で「あっ、何をする、今がいいところなんだぞ」と、夫と夫2は揉み合う、そしてくんずほぐれつ、しかし哀れ、存外に夫2の力は強く、夫はがぶりと抑え込まれてしまうさまを見てズズズッと妻が味噌汁を啜る。夫と夫2はしばらくそのままの姿勢で固まったあと、ゆっくりと夫2が夫から手を放す。「はぁはぁはぁはぁ」と夫は肩で息をし、そして遂にはおめおめと泣きだしズズズっと妻が味噌汁を啜る。夫は泣きながら「あなたは、これでいいんですか?」と夫2に聞くと「なにが」「つまりその、一人の妻に対して夫が二人なんて、こんなのおかしいと思いませんか?」「はたしてそうだろうか」「そうです、こんなのめちゃくちゃだ……あんまりだ、なら、いっそのこと、あなたが妻の夫になればいい。そうだ、そうしてください。そのほうが妻は幸せになれる」「何でそんなことを」「だって僕は」「君は妻の夫、いや、夫1だろう、もっと自分に自信を持つのだ」「しかし……僕は、この通り力も弱いし、意思もぴらぴらしてるから、会社では重要な職責を全うできずそれゆえ長年うだつの上がらない平社員なのです、だから今日も豚肉はぴらぴらしたまま、妻はきっとこんな僕に愛想を尽かせてあなたを連れてきたのだ、でなければきっと一生このままこの豚肉はぴらぴらしたままなのだ今日も明日もそれからずっと……」とそこまで言うと夫はわんわんと泣き出してしまう傍らで妻は沢庵をぽりぽり齧り白米を口に運び丁寧に咀嚼する横で夫2はただ何も言わず、夫を強く抱き締める。夫よりも一回り大きい夫2、そのぶるりと太い腕のなかの夫は、早くして実の父とは生き別れていたからこの超自然的実際的父性との邂逅にもはやそれ以上夫2と争う気にはならなかったのであった。「気を強くもつのだ、自分に自信を持て、君は夫だ、いや、夫1なのだ」そうだ、気を強くもて、自分に自信を持て、俺は夫だ、夫1なのだ。ここに夫1がいて、そして傍らに夫2がいて、そして俺たちには愛すべき妻が野菜炒めをすっかり食べ終え、麦茶をごくりと飲み干し、静かに手を合わせ「ごちそうさまでした」と三人の遅い夕食は終わる。

 23時の生温いバラエティ番組を見て夫1と夫2は「アハアハ、ハアハア」、そののち歯を丹念に磨き終えると、夫1と夫2と妻は三人一緒にベットに入った。夫1は夫2の大きな鼾を密着したその背中を通じて感じている。夫1は物心ついて以来覚えがないほどぐっすり深い眠りに落ちた。

夢が生まれる場所へ。

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