第15話 甘いスパイス
ベッドに伏せてばかりで情けない、と息を漏らす。
「君の立場を考えたら当然だ」
心の中で呟いたつもりが、声に出ていたらしい。
父に虐待されたツケが今になって襲ってきて、高熱を出して寝込んでしまった。
今は熱が下がったが、大事をとって今日までゆっくり過ごす予定だ。
めいっぱい甘やかしてくれる誠一はベッドから離れず、横で庭の風景を描いている。
「誠一さんが絵を描いてる姿を見るの好きです」
「俺もどんな君も好きだよ」
そう言いつつも、手は止まらない。
「てっきり、寝ているところを描かせてくれって言われるかと思いました」
「君を描きたいのは山々だけど、苦しんでるところを描きたいなんて思わないさ。正直に話すと、君が高熱を出してから絵が全然進まないんだ。君の存在が俺の仕事にも影響するみたいだ」
「なら、早く元気にならないとですね。……父のことも、ありがとうございます」
身体の弱った蘇芳を診てくれているのは、誠一の親友で医師である深海伊織だ。最後に頼るのは恋敵であるのは皮肉な話である。
咲自身も伊織に診てもらい、熱はすぐに下がった。
「君の家族は俺の家族でもある。気にする必要はないよ」
「一つ、判ったことがあるんです。こちらに眠っていた錦鯉の絵画なんですが、もしかしてうちで描いたものなんですか?」
「ああ、そうだよ。祖父の白神善四郎が君の家で描いたものだ」
「やっぱりそうだったんですね。実家に帰ったときに気づいたんです。もう錦鯉はいませんが、泳いでいたら綺麗だろうなあって」
「側で君が見ていたら、もっと絵になるだろうね」
何十回繰り返したか判らないが、手を絡めて指先を何度も擦った。
欠けていたピースが一つずつはまり、本当の愛を知った気がした。
人を愛する喜び、愛される喜び。それぞれが必ず交差するわけではない。だからこそ二つが重なり合ったときの喜びは計り知れない。
この屋敷に眠っていた白神善四郎が描いた絵──池で泳ぐ錦鯉の絵は、間違いなく咲の家で描いたものだ。ということは、有名な画家である白神善四郎は白神蘇芳宅へ来たことがある。
白神善四郎は葉山誠一の祖父にあたり、何十年昔から誠一と出会うのは運命だったのではないか、と頭がお花畑になってしまう。
「咲のお父さんと会ってきたが、だいぶ顔色が良くなっていたよ。すぐに回復すると思う。それと、咲を頼んだとも言っていた」
「お父様が?」
「ああ。正直言って、二度と咲に触れないと一筆書いてもらおうと思った。けどあの様子だと、そこまでしてもらわなくても大丈夫な気はしている。心の底から反省し、君を解放してくれ、なおかつ君が笑顔を見せてくれるならそれが一番いい。それはそうと、後で伊織がまた診にくると行っていたから、部屋に通していいかい?」
「ぜひお願いします」
しばらくして伊織がやってきた。
白衣に眼鏡という格好は、どう見ても医者に見えるが、私服であればチンピラに見える不思議だ。
「おら、心音聞くぞ」
「はーい」
言葉はぶっきらぼうでも、心に秘めた優しさと腕は本物だ。
「傷も目立たなくなってるな」
「いろいろとご迷惑をおかけしました」
「それは誠一に言え。どれだけ心配かけたと思ってるんだ。ほら、背中。……音は悪くないな」
口、喉と見て、あとは寝ておけと布団をかけられた。
「誠一さんに、もっと好きになってもらいたいんです」
「恋の相談ならよそでやれ」
「恋の病にかかってます」
「全然うまくねえよ」
「どうしたらもっと振り向いてもらえますか?」
「そういや、前に付き合ってた男いただろ? 中村ってやつ。あいつお前に謝ってたぜ」
「謝ってた……? あとお付き合いしていたわけではありません」
「また水泳始めたんだとよ。泳ぎすぎてあいつも怪我して、うちの診療所に来てるんだ。お前に怪我を負わせてごめんだそうだ。また泳げるようになったらアマチュアの大会に出るから、見にきてほしいってさ」
「そうですか……。会うかはさておき、応援はしています」
「お前からしたら怪我を負わせた本人だからな。まあまた来たら当たり障りのないように伝えておく」
「お願いします。……お付き合いしていないですからね」
「わかったって」
「それと、恋の病の治し方を教えて下さい」
「結局それか」
伊織は頭をがしがしとかく。
「あいつの興味があるものといえば、お前か絵くらいだろう。絵でも描いて贈ってみたらどうだ?」
「私が描くのですか? プロへプレゼントするために?」
「直すのは得意でも、生み出すのは苦手ってか」
「まさしくその通りです」
「男の媚態と花が好きだぞ。今の時期だと金木犀とか」
「金木犀……私も好きです」
「裸体を描くのが嫌なら、花の絵でも描いてプレゼントしたら喜ぶと思うぞ」
「いいですね、それ。花の絵なら、描いてみようかな……」
「なんにせよ、まずは体調を戻せ」
「本日もありがとうございます。すみません、お茶も出せずに」
「茶と菓子はあいつから出してもらうからいい。じゃあな」
無愛想の中に灯る光は心を暖かくさせてくれる。
親友ではないと言い張る誠一だが、ふたりの息は長年の夫婦のようにぴったりだった。
親友という存在がいない咲は羨ましくて仕方ない。
窓から見える木々は、今は美しいオレンジ色の花を咲かせていた。季節によっては薔薇や向日葵が、恥ずかしげもなくすべてをさらけ出す。
──大丈夫。俺に任せて。
突然性行為の誠一が浮かび、布団を被って外の世界を遮断した。
たった一度の行為だったが、甘くてぴりっとしたスパイスがきいた、忘れられないものになった。
熱くなった身体は止めることができず、手を伸ばして精を放った。
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