第16話 無垢な少年
大学の知り合いから連絡が来たのは、つい先日のことだ。
祖父である白神善四郎の絵画らしきものが発見されたという。
「久しぶりだな。イキイキした顔を見るに、相変わらず筆が進んでいるみたいだな」
「ああ。最近は涼しくなってきたし、外に画材を広げているよ」
「『無垢』のモデルも描いているのか?」
「さあ……どうだろう」
『無垢』のモデルを知りたがっているのは彼だけではない。
あれだけ妖艶な姿を見ては、老若男女誰でも美貌を当てられ、目を離せなくなる。
「まあいいさ。それより白神善四郎の絵だ」
「よく善四郎のサインがわかったな」
「何度か見たことがあって、……あまり期待するなよ。汚れまくってるから」
未整理状態の棚から一枚の絵を引っ張りだした。
埃と油の混じった香りは、眠り続けた証だ。
埃の香りも歴史を繋いできたのだと感じられ、嫌いではなかった。
「これは……」
公園ではしゃいでいる、幼い子供。栗色の髪にエメラルドの瞳を持つ美子であり、誠一のよく知る青年にとてもよく似ていた。
咲に何度か善四郎の話を持ち出したが、知っている素振りは見せなかったし、おそらく面識はない。
なぜ祖父は咲を描いたのか。亡くなった今は確かめる術はない。
「このサインだが、白神善四郎……お前の祖父のものに似てたんだよ」
「もしこれが本物だとすれば、絵画は俺に譲ってくれるのか?」
「ああ。本当は持ち主のところに返したいんだがな。亡くなっている以上、家族に返すのがせめてもの礼儀だろう。にしても、大学に宝が埋まってるなんて誰が集めたんだろうな」
「記録は残ってないのか?」
「ない。あってもこれだけ埃まみれなんだから、相当年季が入ってるだろ。収集した人を特定できても、探すのにひと苦労だ。それで、本人に間違いはないか?」
「可能性は高い。祖父の描く絵によく似ている。知り合いに特定できる人間がいるから、見せてみるよ」
「おそらく本物だろうし、持ち帰ってその人にも見せてやってくれ。俺はこの部屋の掃除を頼まれてるもんでね、一枚でも減ってくれると嬉しい」
「ならすぐにでも車に運んでしまおう。鑑定の結果はどうあれ、後日連絡する」
彼は『無垢』の青年がこの絵の子供だとは気づいていない。
知られても困ることはないが、個人的な感情として秘密にしておきたかった。
気づくのは自分だけであってほしいという、我儘と嫉妬が蠢きあっている。
車に運び、誠一はUターンをしてプール場へ向かう。
世界で活躍する水泳選手を選出しているだけあり、立派なプールだ。
ベンチに座り、こちらを凝視する人がいる。中村兼義だ。
前に会ったときより身体つきは変わり、めまぐるしい変化を遂げている。
「やあ。ずいぶん頑張っているね」
「葉山……先生? 画家の先生がなぜここに?」
「君に会いに来たのはついで。仕事の依頼があって寄っただけだ」
「そうですか」
「調子はどう?」
「まあまあです。深海先生も親身になって聞いてくれますし、また水泳に取り組もうって気にさせてくれます」
「それはよかった」
誠一は隣へ腰を下ろした。
休憩したばかりなのか、まだ身体には水滴が付着している。
「あいつは元気にしていますか?」
「咲なら元気だよ。君が水泳をまた始めたと聞いて、喜んでいた」
表面上は明るく、声を高めに笑顔を作った。
目の前の敵はストーカーのように咲に会うべく家まで追ってきた男だ。警戒心は出さず、一切心は許さない。
「俺と咲のこと、どこまで聞いてるんですか?」
「断片的にだよ。咲は君のことが好きだったとか、それくらい。誰しもが淡い恋はするものだ」
「いろいろとご迷惑をかけてすみません。いや、本当はあいつに謝らないといけないんですが……俺が知っている白神じゃなくなって、驚きや嫉妬がいろいろごっちゃになってしまって。つい家まで行くような行動をとってしまいました」
「人間は誰もが変わる。君だって素晴らしい人生を歩んでいるじゃないか。また水泳をやろうなんて、なかなかできることではないよ。隣の芝生は青く見えるものだ」
中村は複雑ではあるが、誇らしげな顔をした。
彼は水泳をすることに誇りを持っている男だ。むやみやたらに立ち入ってはならない領域であり、けれどプライドを刺激してあげれば冷静に話をすることができる。
「咲は軽いケガで済んだ。特に君をどうこうしようとも思っているわけではないし、今まで通り良き友人でいてくれたらいい。イタリアから帰ってきて、友人らしい友人がいなくて寂しいとも言っていたしね」
「ありがとうございます」
友人という言葉を口にすると、中村の眉間にはしわが刻まれた。友人の枠組みから外れ、もっと近しい関係を望んでいたとしても、絶対に足先だけでも入れるわけにはいかない。
「俺と白神が会うことに反対はしないんですか?」
「なぜ? 友人はとても大切だ。大人になるにつれて繋がりは希薄になっていく。多ければいいとは思わないが、できた絆は大事にした方がいい。ちなみに深海伊織はいい男だろう?」
「はい。ぶっきらぼうなところはあっても、情の厚さはとてつもない人だなと」
友人を褒められるのは嬉しいものだ。
誠一は得意気に笑う。
「これからもよろしく頼む」
中村が大きく頷いたのを合図に、誠一も立ち上がった。
本当の気持ちとしては二度と会うな、と言ってやりたかった。だが気持ちの抑えがきかずに家まで来る彼の性格を考えると、逆上の恐れがあった。
あえて接触していつでも会っていいという姿勢を取り、さり気なく咲は自分のものだと主張することによって、牽制をかける狙いだ。
もう一度来たら、家に上げてお茶菓子でも振る舞おうと男の余裕を見せるつもりでいる。
家に帰ると、咲が出迎えてくれて大輪の花を咲かせた笑顔を振りまいてくれた。
この笑顔を枯らさないためにも、中村兼義をなんとかしなければならなかった。早急に動いて正解だった。
「どうしたんです? その絵画……」
「大学の知り合いからもらったんだ。おそらく、俺の祖父が描いたものだからって。確信はなくて、君に確認してもらいたい」
「もちろんです」
咲は顔を綻ばせ、眼光が強くなった。絵画を修復しているときの顔だ。仕事人であり、凛々しくもある。
「これは……私ですか?」
「間違いなく君だよ。俺が恋してやまない君の姿だ」
咲は喉を鳴らし、恐る恐るサインを見る。
「癖は白神善四郎氏のものにとても近いです。本物だとは思いますが……なぜ私を?」
「それが謎なんだよ。面識はないんだよね?」
「ないです、まったく。うっすらですが、こういう和服を着ていた記憶があります」
咲であってほしくないと心のどこかにあったが、残念ながら粉々に砕かれてしまった。
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