第14話 無垢

 美しく咲いた絵には『無垢』とタイトルをつけた。

 さすがに性器そのままを描くわけにはいかず、形ははっきりと描かずぼやかしたが、かえって妄想をかき立てる絵となった。

 筋肉がほとんどない細身の身体で、腋窩から腰にかけて青年の中に少年らしいラインがあり、赤く熟れた果実は貪欲に齧りつきたくなる。

 誠一はあえてメインの絵としてではなく、こじんまりと端に飾った。

 誠一の策略は成功と言ってもよかった。

 メインである『田舎』とつけられたどこか懐かしい風景画はすぐに予約が入ったが、『無垢』は非売品だ。誰にも売る気もなく、非売品の価値はすぐさま人を集めた。

「前回もこちらの男性の絵をお描きになりませんでしたか?」

「よく覚えていましたね」

「どなたなんでしょうと話題になったんですよ。いやあ、本当に可愛らしい男性だ」

 エメラルド色の瞳と栗色の髪を持つ男性は珍しく、存在しているのか妖精のような人と見なされても仕方ない。

 妖精はというと、展覧会には入ってこない。建物に入っているカフェでお茶をしていると、恥ずかしがり屋なところは昔から変わっていない。芸術とはいえ、裸を見られるのは照れくさいのだろう。

 個展も無事に終わって家に帰ると、ソファーでぐったりと眠っている咲の姿があった。部屋でしか眠らない彼だったので、この屋敷に馴染んでくれたのだと嬉しくなる。

 出迎えた秋子は少し困惑していた。

「今日、いろいろあったみたいで大変だったようですよ」

「いろいろ? 個展で?」

「ええ……たくさんの人に追いかけられたとか」

「なんだって?」

 本人は起きる気配がない。口の端に光る滴をこっそり拭き取った。幸せそうな顔を見るに、美味しいケーキでも食べているのだろう。彼はケーキを食べるときだけ、いささか早くなる。

「さあ、先生もまずはシャワーを浴びてきて下さい。その間に夕飯の支度をします」

「お願いするよ」


 リビングに戻ると、咲は冷蔵庫の中をじっと見ていた。

 こちらに気づくと慌てて閉める様子が可愛くてたまらない。

「おはよう。よく眠れた?」

「眠れました。冷蔵庫に、宝石箱が入っていたのですが……」

「秋の味覚が乗った美味しいケーキがあったからね。あとで食べよう」

「ありがとうございます。楽しみです」

「今日、何かあったのか? 詳しいことは聞いてないが、帰ってきて疲れ果てていたとか」

「ええ……実は、記者と個展を観にいらっしゃったお客様に追いかけられまして。和服を着ていて目立っていたのがいけなかったかもしれません」

 目立つのは和服だけではないが、わざわざ訂正しなかった。

「モデルの人かとか、一緒に写真を撮ってほしい、などと言われて……」

 頭を抱えるしかない。モデルにしたことは後悔していないが、あくまで蘇芳に対して咲の美しさを出せるのは自分だと言いたかったためだ。

「インタビューでもいろいろ聞かれたよ。俺の絵より、君という人物に興味があるみたいだ」

 中村兼義のような男が咲の魅力に気づいてまた来る可能性がある。我慢ならないし、命の危険だってある。彼が咲を諦めるとは思えない。

「あの絵はどうするんですか?」

「俺の部屋に飾っておこうと思う」

「よかったです。芸術といえど、やはり裸の絵を誰かの手に渡るのはとても恥ずかしいですから」

 夕食中も冷蔵庫を見る目は止まらず、笑ってしまった。

「お待ちかねのデザートでも食べようか」

 宝石以上に目を輝かせる咲は宝物だ。




 父に異変があったと連絡を受けて、すぐに葉山邸を出た。

 過去の記憶を閉ざしたままで、小さな宝物のような輝きを失っていた。

 家に来た優しい笑みを零す人を、なぜ忘れてしまっていたのだろう。胸に秘めた淡い感情は、中学のときにした告白とともに奥へしまい込んでしまっていた。

 今となっては初恋かいつなのかも判らないが、少なくとも葉山誠一と初めて出会ったときの感覚は、ゴムボール並みの勢いで心が弾んだ。

 あのときくれた優しさを忘れてはいけないからこそ、実家の前に立っている。

 二度と足を踏み入れるものかと誓った屋敷は、金木犀の香りが漂っていた。

「咲さん、首を長くしてお待ちしておりました」

「お久しぶりです」

「蘇芳様がお待ちです。咲さんがいなくなって、かなり傷心してしまっていて、食欲も減っているんです」

「それは心配ですね。さっそく父の元へ行きますね。お茶をお願いできますか」

「かしこまりました」

 出迎えてくれた家政婦にお礼を言い、奥の部屋で膝をついた。

「お父様、咲です」

「咲…………?」

「入らせて頂きますね」

 いつもは呼ばれなければ入らないが、弱々しい父の声に勝手に襖を開けていた。

「咲……おお……咲…………」

「お父様……ちゃんとご飯は食べていますか?」

「ああ、もちろんだ。食べているとも……」

「お茶を頼みました。何かしら甘味もつけてもらいましょう」

 父は頬が痩せこけ、声に覇気がなくなっている。

 あれだけ離れたくて仕方なかったのに、今は父の頬に触れ、背中をさすっていた。

 やはり息子なのだとしみじみ思う。彼から受けた虐待はなかったことにはできないが、確かな愛情もあった。信じているからこそ、長生きして元気でいてほしいと願う。

「咲は元気にしていたか……?」

「美味しいケーキをごちそうになったりしました。お父様は洋菓子は召し上がらないので買ってはきませんでしたが、一度は口にして頂きたいです」

「そうかそうか……お前が言うなら、食べてみようと思う」

「お父様……」

 なんて儚い生き物なのだろう。強くて逆らえない、絶対的な権力者が、とても小さい。守ってあげなければ、押し潰されてしまいそうだ。

「咲……お願いだ……もうあんなことはしないから、側にいてくれ……。お前が必要なんだ……」

「私は誰のものでもなく、成人を迎えた男です。自分がこれから何をして、誰と過ごすかは自分で決めます。お父様にはお母様がいます。どうか、わかって下さい」

「咲…………」

「ですが、こうしてまた会いにきます。私はお父様の子ですから」

「ああ、いつでも会いにきてくれ。葉山にも……きちんとけじめをつける」

「葉山先生の元で、とても勉強させて頂いています。まだまだ絵画修復士として未熟でありながら、チャンスを下さったわけですから、恩返しをしたいのです」

「判っている……可愛いお前を……大事にしてくれていることも」

 何十年という積み重ねは、警戒心を解くことはできない。それでも父と子という関係は、修復できるものならしたいと望んだ。

 ふたりでお茶をしているうちに、幾分か父の顔色が良くなった気がした。

 それでもまだ心配で、部屋で映画を観ていた母に父を頼んだ。

「医者を呼んだしほっといても大丈夫でしょ。心配なのは判るけど、あなたもしっかり食べなさいね」

「はい……ありがとうございます」

 なぜかこちらが心配されてしまった。

 咲は早々に襖を閉め、小さな息を吐く。

 母な父の心配をしていない。

 夜な夜な父は愛人の元へ行き、逢瀬を重ねている。

 愛情なんてあるわけがない。母と同じ立場だったとしても、間違いなく離れていく。

 母が父の側にいるのは、お金があるからだ。

「……寂しい」

 外に出ても、来たときとは違い金木犀の香りを感じなくなっていた。

 ぽつりと漏らした独り言は、誰にも拾ってもらえないと思っていたのに、目の前には息を切らした誠一がいる。

「誠一さん……」

 名前を呼ぶと、彼は力いっぱい咲を抱きしめた。

「蘇芳さんのこと、さっき知ったんだ。大変だったね」

「先ほどお茶を一緒にしました。少し元気になったようです」

「そうか、それは良かった。薬よりも君が側にいて元気が出たんだと思う」

「父は元気になったんですが……」

「帰りながら話をしようか」

 近くに駐めてあった車に乗り、誠一はエンジンをかけた。

 咲は父と母に会ったときの様子を話した。

 誠一は時折、相づちを挟んだ。

「そっか。お母さんだって心配していないわけではないと思う。看病だけだと今度はお母さんが疲れてしまうよ。娯楽は必要なことだ」

「そうですよね……私が考えなしでした。母にだって休息は必要ですね」

「考えなしってことはないさ。仲の良い家族を求めるのは当然だ。……今回、蘇芳さんが倒れたのは俺に責任があると思っている」

「誠一さんに?」

「ああ。『無垢』を描いて、個展に蘇芳さんは観にきてくれた。息子のあんな艶めかしい姿を他人に見せ、自分にだけ見せていた姿だと思い込んでいた分、ショックが大きいんだ」

「それは……かえって良かったと思っています。父も考えを改めてくれましたし。私ひとりでしたら、ずっと父の思い通りに生きる羽目になっていたと思います。改めてお礼をさせて下さい」

 今日はやけに信号が赤になる。ふたりきりの時間を目に見えない者に授けられている気がした。

「俺がほしいのはいつだって君自身だ」

「誠一さん……」

「残念。信号が青になった。神様が嫉妬しているみたいだな」

 顔が重なる直前、反対車線の車が走り出す。

 誠一も笑いながらアクセルを踏んだ。

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