第13話 寵愛の仮面

 休憩を取ろうと仕事場から出ると、秋子が困惑した顔で受話器を置いたところだった。

「咲さん……」

「どうかされたのですか?」

「今、蘇芳さんからお電話がありました」

「父から?」

「本日、どんな理由があろうとも必ず戻ってくるようにとのことです」

「判りました。言伝ありがとうございます」

 秋子は心配そうに見つめてくるが、淡々とお礼を伝えた。ここで嫌な顔一つでもしてしまえば、ますます気を使わせてしまう。

 誠一は留守にしているため、部屋にメモを置いていつもの浴衣に着替えた。

 気温も下がり、外はだいぶ涼しくなった。

 散歩に適した季節になったというのに、心は晴れない。

 玄関には母の靴がない。父の靴が目に入った瞬間、全身が嫌悪感にまみれた。

「……お父様」

「帰ったか。なんだか随分顔色が良くない。前に微熱があると聞いたが、まさかまだ不調なのか?」

「そのようなことはありません」

 ここへ来たからだ、とは呑み込み、苦虫を噛み潰したような顔は見せないよう俯いた。

「咲…………」

「──っ…………」

「久しぶりにお前を味わいたい」

「今日は……そのつもりで呼んだのでしょうか……?」

「それもあるが、週末に帰ってくる約束だろう?」

「破ったことは一度もありません」

「そうだが、すぐに帰るじゃないか。急ぎの用でもあるのか?」

「仕事が好きですから、早く戻りたいだけです」

 無理やり腕を掴まれ、奥の部屋へと連れていかれる。有無を言わせない強さだった。

 寝室には二つ置かれた枕と大人が二人寝られるほど広い布団がある。枕元には重箱があり、中身を知っている咲は身体を震わせた。

「どんな思いで絵を描かせた?」

 上半身裸の絵を言っているのだろう。あの絵を描かれているとき、咲はこの上ない喜びと幸福で満たされていた。

 同じ裸にされるのであっても、父と誠一ではまるっきり違う。

「他の男の前で裸になって、興奮したか」

「……しました。すごく、興奮しました」

「こんな淫らな性癖があるとは思わなかった。咲、浴衣を脱ぎなさい。下着も全てだ。淫猥な身体に誰のものかはっきりと教えてやろう」

 けっきょく、理由なんてなんでもいいのだ。

 興奮しないと言えば身体に教えてやるとでも言っていただろう。

 意欲を失った心では抗うこともせず、咲は帯を解いた。




 秋子から連絡が来たときは驚いた。

 携帯端末にかけてくることは滅多になく、三度に渡って着信がある。

 嫌な予感しかなく折り返すと、蘇芳から連絡が入り咲が実家へ帰ったらしい。

 ハンドルを反対方向へ曲げた。焦りから運転が荒くならないよう気をつけつつ、咲の実家前で駐める。

「事前の約束は交わしていないのですが、蘇芳さんとお会いしたい」

『葉山様がいらっしゃいましたら、通せと言伝をお預かりしております』

「なんだって?」

 玄関の扉が開いた。手土産もないままな中へ通されるなど許されないことだ。

「失礼します」

「蘇芳様の寝室へご案内致します」

「寝室?」

 使用人は必要以上のことは話さず、踵を返してしまった。

 背中からは嫌な汗が流れ、先へ進む足が重い。

 寝室に何があるというのか。客人を通す場所ではない。

 重い足取りで寝室前に着くと、使用人は一礼をして長い廊下を戻っていく。

「蘇芳さん、葉山です」

「やっと来たか。入れ」

 此処は危険な領域だと胸騒ぎがした。

「失礼します」

 目に映る前に、縄が軋む音がした。

「──ッ…………!」

 目の前の出来事は、現実だと思いたくなかった。

 すぐに駆け寄らなければならなかったが、白昼夢だと疑い足が動かない。

 エメラルド色の瞳と目が合った瞬間、ようやく畳を蹴って彼の元へ行った。

 咲は全裸のまま、上から縄で吊され、身体には紅い痣が残っている。咲が嫌がって体勢を何度も変えた痕だ。

「…………、っ…………」

 咲の口は誠一と形作るが、声にならなかった。

「何を……しているのですか」

 怒りに身を任せて洋酒を飲む男を踏みつけたくなったが、なんとかこらえて冷静に蘇芳と向かい合った。

「ぜひ君とは美しいものを語りたいと思ってね。見なさい。白い肌に赤がよく映える。緑に輝く瞳をえぐって舐めてしまいたいくらいだよ」

「お止め下さい!」

 咲を拘束するロープを外し、身体を縛るロープも緩めた。

 咲は必死に泣くまいと唇を噛んでいるのが、余計に痛々しかった。

 上着を咲にかけると、小さな身体をさらに小さくさせた。

「こんなことをして、何とも思わないのですか! 咲はあなたの息子でしょう!」

「愛しているとも。これが父親なりの可愛がり方だ。父の愛を正面から受け、こんなにも淫らに育ってくれた」

 この人はもう、人の感覚を持ち合わせていない。

 それを言うなら咲もだ。父に命令されれば逆らえず、虐待を愛だと勘違いしている。

 子供の頃から植えつけられた非人間的な行為は、日常化して当たり前となってしまっていた。

「君は画家だろう? 美しいものを愛でたい気持ちが判るだろう?」

「ええ、判ります。咲の身体も心も美しいのは判っています。ただ、蘇芳さんは間違っている。こんなやり方は、咲を傷つけるだけで美しさを引き出したとは言わない」

「なんだと?」

「今度、私の個展を開くこととなりました。ぜひお越し下さい。そこですべてが判ります。咲の美しさを引き出せるのはあなたじゃない。……咲、今夜は此処に泊まるか?」

 咲は首を振り、腕にしがみついてきた。

「今宵は……誠一さんと、一緒がいいです……」

「──咲は子供じゃない。自分の意思もしっかりある。私の家に連れていきます」

 頭に血が上りすぎて、この後のことはよく覚えていなかった。

 上着を身体に被せたまま咲を外に出し、ふたりで会話もなく車で家に帰った。

 玄関に戻ってきたとき、咲は眠いと漏らし、ベッドにつく前にうたた寝を始めてしまった。

 抱き上げてベッドまで運ぶと、すぐに寝息を立てて布団に沈んだ。

「咲…………」

 早くからこうしておけばよかったと後悔しかない。

 またはイタリアにずっと居さえすればこうなることは避けられたかもしれないが、咲とはもう会えなくなる可能性だってあった。そう考えると、それが最善とは思えない。

 誠一は咲の唇に触れ、右から左へ撫でていく。薄いが弾力のある唇だ。

 こうして安心しきっている寝顔を見ると、自分の立場がいかに領域へ踏み込ませてもらっているのかが判る。

 額にキスを残し、絵を完成させるべく部屋から出た。

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