第7話 意外な客人

 誠一と暮らし始めると、今までの生活が一変した。

 一つは、咲自身が料理をし始めたということ。

 料理教室に通おうか相談を持ちかけたところ、誠一は咲の肩を掴んで「俺が教える」と強い口調で訴えた。肩の骨が割れるほど力強かった。

 もう一つは、朝と寝る前にキスをかかさずするようになった。

 ただ唇を合わせる軽いものや、何度も角度を変えて音を立てたり、たまに舌で唇を舐められることもある。

 気持ちに答えていくと、大きな手が浴衣の胸元から手を入れたり、帯の中に入り込んできたりする。

 それ以上を望んでいるのだと嬉しくなるが、父に縄で縛られた痕を気にしてしまい、どうしても先へ進めなかった。それに父に弄ばれる汚れた身体を愛してくれるのか、不安で仕方がない。

 午前中であっても、真夏では外に出た瞬間にどっと汗が吹き出してくる。夏に大量の実をつけたミニトマトと枝豆は、彩りもよく、すぐに齧りつきたくなる。

「咲さん、少しの間ですが留守番をお願いしてもよろしいですか?」

 リビングで枝豆をもいでいると、家政婦の秋子が申し訳なさそうに声をかけてきた。

「構いませんが、どちらへお出かけですか?」

「卵を買い忘れてしまいまして、スーパーへ出かけてきます」

「判りました。葉山先生が早めにお帰りなら伝えておきますね」

「お願いします」

 誠一は画材を見に外出中だ。

 秋子がいなくなってから二十分後、客人を知らせるブザーが鳴った。いつもは秋子が出るが、今は咲一人だ。

 どうしようかと悩むが、何度もブザーが鳴る。画面を覗き込むと、そこには意外な男が映っていた。

「中村さん?」

 中村兼義がいた。時折回りを見ながら、様子を気にする素振りをする。

「中村さん、どうなさったのですか?」

『……白神か?』

「ええ、そうです。どうしてこちらに?」

『お前がここにいるって聞いて、ちょっと寄っただけだ』

「そこでお待ち下さい。今出ますね」

 住み込みで働いていることと、画家の名前で検索してきたのだろう。葉山誠一の家はいやでも目立つ。城が建っているようなものだ。

「こんにちは。暑かったでしょう? こちらをどうぞ」

「悪いな」

 買っておいたペットボトルをそのまま渡すと、中村は美味しそうに喉を鳴らす。

 大きな喉仏にも当時は心が弾んでいた。

「こんな暑い日に外に出るなんて、ご予定があったのですか?」

「まあ……そうだな。車は近くに置いてある。家主はいないのか?」

「今は外出中です。もうじき帰ってくるかと思いますが……葉山先生にご用ですか?」

 中村は決まり悪そうな顔をして、ペットボトルの蓋を閉めた。

「何してたんだ?」

「私……ですか?」

 中村は質問に答えず、質問を返してきた。

「枝豆をもいでいました。中に家庭菜園があって、野菜がたくさん実っているんです」

「絵画修復士として働いていたんじゃないのか?」

 少し怒ったように、語尾を強めた。

「今、料理も教えてもらっていて、菜園のお世話は私が自ら手伝いたいと名乗りました。絵画修復士として働いてますし、お給料も頂いてますよ」

「ふうん」

 それっきり、中村は何も喋らなくなってしまった。

 蝉の音が暑さを倍増させ、首筋を通る汗がひんやりと感じられた。

「それでは私、そろそろお暇しますね」

 玄関に暗証番号を入れようとすると、右手を掴まれた。

 怒り狂ったような強い力だ。優しさの欠片もない、身勝手な痛みを与えてくる。

「なん、ですか?」

「ネットでいろいろ調べたんだけどよ、葉山って画家、男をひっきりなしに家に呼んでとっかえひっかえしてるらしいぜ」

 狼狽えたわけではないが、言葉がつっかえて出てこなかった。

 彼の情報源はどこからくるものなのか。男を家に呼ぶのはモデルとして描きたいからだ。仮にもっと深い意味があったとしても、咲が来てからは一度も連れ込んだことはない。

 掴まれた腕が嫌な音を立てて軋む。玄関を通るには暗証番号を入力して開けるか、内から開けてもらうしかない。だが今は無人だ。

 暗証番号を見られる可能性もあるし、咲は迷った。

 迷った挙げ句、腕を振りきって走った。浴衣ではなく良かったと心底安堵する。

 追ってきているのか恐怖で振り返れなかったが、咲、と呼ぶ声が恐怖に蝕まれていく。

 必死で地面を蹴った。息を切らしても倒れても走らなければならなかった。

 向かう先は事前に住所を聞いていた『しんかい診療所』だ。展覧会の後、誠一に何かあったら伊織を頼れとも言われている。信頼のおける仲なのだろう。伊織の名を口にする誠一は、頼りきった顔をしていた。

 診療所は開いている。勢いよく飛び込むと、ちょうど伊織はロビーにいた。

「咲か? どうした?」

「どうも、なにも……ないです……」

「何もないって顔じゃないぞ。真っ青じゃないか。奥へ来い」

 本日二人の男から腕を掴まれたが、伊織は安心して任せられる掴み方だった。

 診察室へ行くと、ベッドに横になるよう指示される。

「熱中症の疑いがある。点滴を打つからな」

 断れる雰囲気ではないので、素直に頷いた。

「先ほど……中村さんが家にやってきて……」

「中村?」

「同級生だった人です……私が、とても好きになった人で……」

「なるほど。恋した相手がなぜか家に来たのか。なんでお前の居場所知ってたんだ?」

「少し前に同窓会があって、そこでお互いの近状を話しました。腕を掴まれて、捻られて……」

「こっちか」

 伊織が掴んだのは右手、中村が掴んだのは左手だが、左にはしっかりと赤い痣が残っている。

「一応、湿布を貼って取れないように包帯を巻いておく」

「そんな大袈裟な……」

「ちょっと待ってろ」

 伊織は一度部屋に行くと、しばらく帰ってこなかった。

 点滴の落ちる水滴を数え、暇を潰した。

 戻ってきたのときには湿布を持っていた。

「葉山先生にとって、私はどんな存在なんでしょうか……」

「付き合ってたんじゃなかったのか? 少なくとも見守ることしかできなかった少年を手に入れ、誠一は嬉しくて小躍りしてるだろうよ。やっと手に入れたんだからな」

「やっと?」

「子供の頃からお前を大事に思ってきたんだ。当然だろ?」

 誠一から何も聞いていない話が飛び出し、困惑した。

 幼少期に何度か会ったとは言っていたが「大事に思ってきた」という部分は抜けている。

「お前はそのまま寝てろ。俺は仕事に戻る」

「はい。ありがとうございました」

「後で迎えが来るからな」

 小さな爆弾をいくつも残して去っていく。

 眠気が襲ってくると勝てなくて、白い天井を見たまま寝息を立てた。

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