第6話 深海伊織

 事前に展覧会のチケットをもらい、開場から少し遅れて入った。

 咲が修復した絵画も出ていて、すでに予約が入っていた。

 誠一の後ろ姿が見えて声をかけようと思ったが、ファンに囲まれていて話をできる雰囲気ではなかった。

 元々住む世界の違う人だが、こうしていると遠い世界の人だと実感させられる。

 入り口から順番に観ていき、一際人を集めている絵画があった。

「あ…………」

 出来上がりは秘密だと見せてはもらえなかった絵で、咲自身が映っている。

 座れは牡丹だと誠一が言っていたように、斜め後ろから映し出した咲は秘密を抱え、暴きたくなる雰囲気がある。

「すごい綺麗……」

「このひと、おとこのひと?」

「そうだよ」

 子供の純粋な疑問に、父親である男は答えた。

 肌を出しているのは背中だけとはいえ、絵であっても羞恥はある。

 子供がこちらを見ている。絵と見比べては不思議そうに顔を傾げた。栗色の髪は物珍しさがあり、絵と同じだと感じたのかもしれない。

 恥ずかしさでいられなくなり、後ろを振り返ると、見たことのある男性が立っていた。

 記憶を探るが、どうしても名前が出てこない。

「お前、あのときの……」

「失礼ですが、お名前をお伺いしてもよろしいですか?」

 盛大にため息をつかれてしまった。

「名乗った覚えはねえ。お前、誠一の家にいた奴だろ」

「……思い出しました。初対面のインパクトが凄まじかった方ですね」

「俺をなんだと思ってんだ」

 誠一に絵を描いてもらっていた人だ。全裸で堂々と歩く姿は食虫植物に近い。

「何でいるって言いたいが、関係者だからか。あの絵はお前だろ? 随分綺麗に描いてもらったんだな」

「葉山先生の目に映る私でしょうね。自分で言うのもなんですが、あんなに綺麗ではありません」

「まあ、そうだな。けどこの前よりも印象が変わった」

「どのあたりですか?」

「前は刺々しかったが、今は少し穏やかになった。まあいい。ちょっと付き合え」

「どちらへ?」

 背後を見やるが、誠一の姿はない。

「茶ぐらい飲めるだろ。どうせ誠一はまだ仕事中だ。あの分じゃしばらく離してもらえないぜ」

「しかし……」

 いきなり男に首へ腕を回された。

 咲の腕とは違い逞しく、日に焼けている。

「……さっき、お前の父親を駐車場で見かけた」

「──っ…………!」

「判ったなら来い」

 強引だが、今はついて行くしかないと判断した。

 だが疑問が残る。父との関係は墓場まで持っていくつもりで、誰にも話していない。男の言い方はまるで関係性を知っていると脅迫されているようで気味が悪い。

 父に会いたくないのもあるが、何を知っているのか知りたくなった。

 エレベーターで二階に上がると、カフェやレストランが建ち並んでいる。

 男は悩まずに入っていくので、後ろをついていった。

「あの……名前を教えて頂けませんか? 私は白神咲と申します」

「蘇芳さんの息子だとは聞いた。俺は深海伊織だ。職業、医者」

「お医者様だったのですか」

「誠一の家から近いぜ。何かあったらすぐ来い。一応、お前のことも任せられているしな」

「葉山先生からですか?」

「ああ。例えば、脇腹の傷の具合とか」

「……何を知っているんですか?」

「そう怖い顔するなよ。まず頼め。何か注文しろ」

 伊織はサンドイッチとエスプレッソを注文した。咲は紅茶を頼む。

 店員が踵を返したところで、誠一は口を開く。

「俺は医者だっつったろ。動きや歩き方で違和感を感じただけだ。この前会ったときにはしなかった仕草をした。横の腹辺りを庇うような振る舞いだ」

「恐ろしい職業病ですね」

「俺もそう思う。こういう職業だからこそ、人の噂も入ってくるんだ。たくさんの愛人に囲まれて過ごす白神蘇芳の噂もな。顔立ちの整った美少年を好きだという話も聞いたことがある。つまり女も男もいけるタイプだ。ましてやお前のその顔。いかにも蘇芳さんが好みそうな儚い容貌だ。あの人は女は気の強そうなのを好むが、男は真逆なんだな」

「脇腹の傷は……父とは関係がありません」

「俺は医者だって言ったろ。傷を見れば何の傷か判っちまうが。何かあったら診療所へ来い」

「……ありがとうございます」

 傷に直接触れられたわけではないのに、ズキズキと痛みが襲う。負った傷は身体だけではなく、心にも痛手を負ってしまっている。身体の傷とは違い、治る見込みは絶望的だ。

「傷のこと、誠一は知ってるのか?」

「モデルをしたとき、何かと聞かれました。浴衣の帯によるものだと説明しましたが……」

「信じてはいないだろうな。お前の目からどう見えてるか知らんが、あいつは昔から執着心が激しく、欲しいと思ったものは必ず手に入れる」

「そうは見えませんが」

「出さないようにしているだけだ。一見穏やかそうに見えるが、大事にしていたものを奪われたときの嫉妬は凄まじい」

「なら、私と似たタイプですね」

 伊織は意外そうな顔をした。すかさず、

「私も顔にはあまり出ませんが、嫉妬心が激しいですから」

 そう言うと、何も言ってはこなかった。

 伊織がサンドイッチを食べ終わるのを待ち、カフェを後にした。

「俺は裏口から出る」

「葉山先生と会っていかないのですか?」

「挨拶は済ませた。人が多いし、帰って寝る」

「いろいろとありがとうございました」

 伊織を見えなくなるまで見送ると、エレベーターを降りた。

 ロビーまで行くと、慌てた様子のこと、誠一が駆け寄ってきた。

「いなくなるから心配したよ」

「私がいることに気づいていたのですか?」

「もちろんだ。人が多くて近づけなかっただけだ。伊織と上に行ったようだが、何をしていたんだい?」

「カフェで紅茶をご馳走して頂きました」

「紅茶を? 咲はいつもコーヒーを飲んでいたが……紅茶が好きだったのか?」

「どちらかというと、ですね。でもコーヒーも好きですよ」

 一時的なものではあるが、同棲していて隠す必要はない。むしろ話すべきだ。

「あとはお菓子によって変えたりします。羊羹を食べるときは、緑茶が多いですがコーヒーにもよく合います」

「それは判る。餡にはコーヒーがよく合う。咲と過ごしていても、知らないことばかりだな」

「お互い、これから知っていけばいいと思います」

 勇気を声に出してみると、誠一は大輪の花を咲かせたように笑顔を見せた。

 普段、人を花に例えて褒め称える誠一だが、彼こそ特別に咲き誇る花だ。普段は微笑むくらいの微笑だが、こうして声に出すのは珍しい。

「この後、取材があって一緒には帰れない。先に帰っていてもらえるかい? 夕食は一緒に食べよう」

「はい。待っていますね」

「それじゃあ、また」

 誠一は咲の髪に触れ、すぐに離れていった。

 だが触り足りないのか、頬に手を擦り、首、肩、鎖骨と下りていく。そしてまた頬に上ってきた。

 咲も大きな手に頬を擦り、愛情を示した。まだ気持ちに答えられないが、あなたをとても好いていますと精一杯の愛を込めた。

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