第2話

 かつては市民の憩いの場だったのだろう。家屋の群れの中にぽっかりと長方形に空いた広場の地面にはタイルが敷かれ、中央にはささやかな噴水も設けられているが、長い間手入れされていないらしい。ひび割れや錆などが目立っている。

 アウグストはなんとか呼吸を落ち着けながら、恐る恐る周囲を見回した。

 武器を手にした男女は、全員がそろいの黒い服を着用していた。左腕には腕章を巻き、なにやら模様が描かれているがよく見えない。人相が分からないようにか、中には目元を布で覆い隠している者もいる。

 ――目を布で……。

 はっと顔を上げ、アウグストは自分の腕をつかんだまま放さない褐色の少女に目を向けた。彼女もまた、彼らと同様に目を隠している。

「追いかけっこはそろそろ終わりにしよう」

 集団の中から一人が歩み出てくる。体格と声色から考えて壮年の男だ。重厚なローブをまとい、フードを被ったうえで目に布を巻いているため表情は判然としない。

「我々の手を煩わせるな。お前は〝器〟として調整されねばならない」

「やだ! だって痛いことするんでしょ!」

 むすっと少女は頬を膨らませて拒絶した。男はふん、と胸を張り、軽く右手を掲げた。その途端、待機していた全員が一斉に武器を構える。

 ――おいおい、待ってよ。まさかここでナイフやら斧やら振り回すつもり?

 アウグストが怯えるのと同様に、少女も恐ろしくなったのだろう。アウグストの腕をつかむ手に力がこもった。

 男が再び手を動かせば、集団は迷うことなく襲い掛かってくるだろう。目的は一切分からないが、少女を捕らえるために。

 となると連れ回されているアウグストもただではすまない可能性が非常に高い。

「…………ッ!」

「ひゃっ」

 アウグストは手首を返して少女の腕をつかみ返し、今走ってきた路地に飛び込んでがむしゃらに駆け出した。

「ねえ、なんで戻っちゃうの?」

「あのまま正面突破しようとしてたのかよ、お前は! 無理に決まってるだろ! だったら物騒なものを振り回しにくい狭いところに逃げ込んだ方がいい!」

 本当は少女を置いて逃げるつもりだったが、見て見ぬふりをして痛い目に遭ったばかりだ。面倒くささは拭えないが、置き去りにするよりはいい。

 アウグストの狙い通り、集団は路地に入ってこようとしているが、手にしている武器の相性もあってなかなか上手くいっていないようだ。とはいえ小回りの利く刃物を持っている者だとか、そもそもなにも携帯していない者は易々と追いかけてくる。

「確かここに……あった!」

 空いている右手で上着のポケットを探り、目当てのものを取り出して「これ!」と少女に渡す。

「なにこれ?」と彼女は不思議そうにしながら受け取ってくれた。上部をひもで結んだ手のひらほどの大きさの小さな包みだ。「なにに使うの?」

「ひもをほどいてあいつらに投げつけたらいい!」

「よく分かんないけど、分かった!」

 説明するやいなや少女は包みのひもをほどいて、後ろに向かって投げつけた。

 その瞬間、真っ白い粉がぶわっと路地いっぱいに広がる。

 もし暴漢や猛獣に襲われたときのために、と持ってきた粉だ。目くらましになるだけでなく、あらゆる動物のフンを混ぜたような激臭がするため、吸い込むと涙がにじむこと間違いなしだ。

 想定通り、主に集団の先頭にいた者たちが粉をまともに食らって立ち止まり、そこへ後続が次々に押し寄せて渋滞が起きた。粉は風上にいるアウグストたちには流れてこず、こちらが被害を受けることはない。

 どれくらい効果が出たのは確かめたい気持ちはあったが、今のうちにできるだけ遠くへ行かなければ。しかし同じような建物が林立し、かつ道も複雑に入り組んでいるため、下手をすれば元居た場所に戻ってしまうかもしれない。

「僕が先に走るよりお前が……って、ああ! お前も『ここどこ?』とか言ってたよな! 二人そろって道が分からないとか、最悪だよ、もう!」

「あのね、でもね、どこかでロメリアが待ってるはずなの。そこに行けばいいと思う!」

「誰なんだよそれは!」

 しかも「どこかで」とは。あまりに情報が曖昧過ぎて、ロメリアとやらが本当にこの近辺で少女を待っているのか、それすら怪しい。

 後ろから追ってきた者たちは撒けたが、頭上から足音が降ってくる。恐らく先ほどと同じように建物の上からこちらの動向を知らせる一派がいるのだろう。

「お兄さん! さっきのやつ、もう一回やってみたい!」

「おもちゃじゃないんだぞ! 限りだってあるし乱発できるわけない! お前こそ、上にいるあいつらをどうにか出来ないのか!」

「んー、無理!」

 少女が答えた直後、ひゅっとアウグストの眼前を黒い影が通り過ぎた。え、と思わず足を止めると、地面に一本の矢が突き刺さっていた。

「嘘だろ……!」

 頭上を仰ぐと、矢を放ったであろう人物が見て取れた。

 仰天している場合ではない。アウグストはすぐに己を取り戻し、少女の手を引いて再び走った。

 大通りに出ることも考えたが、人の往来が激しい中で矢を放たれては無関係な誰かが怪我をするかもしれない。かと言ってずっと路地ばかりを進み続けていたのでは消耗する一方で、手詰まりというほかない。

「せめてどこかの家に隠れられたらいいんだけど……!」

 周囲の民家の中には路地に面した箇所に扉や窓を設けているが、それらをいちいち叩いて「すみません、追われているので匿ってくれませんか」などと訴えている暇などない。だいいち助けを求めたところで不審がられるだろうし、関わり合いになりたくないと思われるだろう。事情を説明している間に捕まったらおしまいだ。

 こんなことになるなら家出をしなければよかったと後悔しても遅い。誰がこんな騒動に巻き込まれるなど予想できようか。

「さっきの集団も、回り道して前から来るかもしれないし……っていうか、なんでお前あいつらに追われてるわけ! あいつらはなんなの?」

「んー、よく分かんない」

 少女は唇をつんととがらせて首を傾げている。これだけ走っているのに、彼女の息は一切乱れていない。

「分かんないってなんだよ、家族ではなさそうだなとは思ったけど! なに、お前まずいことでもやってたの? 痛いことがどうのとか言ってたけど」

「そうなの、ひどいの! 朝起きてから夜に寝るまでずーっと痛いことしてくるのよ。だから嫌になったの!」

「つまり逃げてきたってことで合ってる?」

「多分! あっ」

「あっ?」

 なにか見つけたのかと思っていると、不意に家屋の扉が開いた。

 ――まずい!

 扉は通路をふさぐようにして開いている。このままでは間違いなく激突するが、かといって急に止まることも出来ない。

 顔面から突っ込む覚悟でどうにか踏みとどまれないか、と思ったのだが。

「――――ぐぇっ」

 首に強い衝撃を感じたかと思うと、間もなく体が横から叩きつけられた。

 どうやら床に倒れこんだらしい。しかし、何故。

 扉が閉まる音がする。動転しながら体を起こすと、隣には少女が立っていた。倒れる拍子にアウグストが手を放したらしく、彼女が転ぶことはなかったようだ。

「まったく。心配したんだよ、どれだけ待っても来ないんだから」

 少女のものではない女性の声が聞こえた。逆光で分かりにくいが、扉の前に誰か立っているようだ。

 ごめんなさい、と少女がしおらしく謝る。その頭を誰かは優しく撫でるが、手つきと反対に「私と離れたら周りの人にも迷惑がかかるんだよ」と口調は少々厳しい。

「誰か追われているみたいだって適当な名前で通報はしたし、治安部隊が来たら追手も消えるだろうけどね。いつまでもここに留まっているわけにもいかない。あいつらがいなくなった隙に次の行動に移らないと」

「うん、分かった。ロメリアは? 無事だったの?」

「怪我をしているように見えるかい」

「ううん、全然」

「あなたも服が破れた以外は無傷なようでなにより」

「ちょ、ちょっと」

 アウグストは控えめに声を上げて、少女と女性を交互に見やった。

 忘れてた、と女性はこちらに向き直り、視線を合わせるようにしゃがみこむ。おかげではっきりと顔立ちが分かった。

 年は四十代半ばといったところか。目元に多少のしわが見て取れる。くせのない黒髪は首回りで切りそろえられ、動きやすそうな旅装に身を包んでいた。

 意志の強そうな瞳は瑠璃色に輝いている。なんとなくどこかで見たような、と目を瞬いていると、不意に違和感がよぎった。

 ――なんだ?

 ――目の色がぐるぐる変わってるような……。

「さて坊や。この子と一緒にいたようだけど、あなたはどこの誰なんだい」

 じっとアウグストを見つめる瞳は、まがまがしい金色に変わっている。

「追手の一味か、それとも別の……例えばこの子に一目ぼれして無理やり連れそうとしていた不埒な輩か」

「はあ?」ふざけるな、とアウグストは思いきり眉間にしわを寄せた。「僕は巻き込まれただけの一般人だ! いや、僕は僕で追いかけられてたし、たまたまそこの女の子が潰してくれて助かりはしたけど、でもそこからは完全にもらい事故だ!」

 苛立ちまかせに立ち上がって畳みかけるように訴えると、女性はなぜか驚いたように目を丸くし、「うーん」と首を傾げた。その瞳はいつの間にか瑠璃色に戻っている。

「今のは上手くいったと思ったんだけど、不発だったか」

「は?」

「こっちの話だよ。気にしなくていい」

「いやいや、気になるんだけど……」

 女性は顎に手を当てて考え込んでいる。アウグストは追求しようとしたのだが、ノックの音がそれを遮った。

「あ、いけない。あなたたち、ちょっとそこの棚に隠れていなさい」

「はーい」と少女は声を潜めて返事をし、困却しているアウグストを壁際に備え付けられている棚に引っ張っていった。ちょうど少女の背丈ほどのそれは中が空洞になっており、二人入って扉を閉めると少し、というかかなり狭くて厳しい。おまけに暗い。

 さらに出来るだけ隙間をなくそうとしてか、少女はアウグストを抱きしめている。彼女の肩あたりに鼻が押しつけられる格好になり、息苦しいことこの上ない。

 力を緩めてくれ、と哀願しようとした矢先、扉を開ける音に続いて「少し失礼します」と慇懃な声が聞こえた。

 ――この声、さっき〝器〟がどうのとか言ってた男じゃないか?

「どちらさまですか?」と答えた女性の声は困惑に彩られている。

「ああ、これは失敬。私はとある宗教の神父をしている者です。実は教会で管理している生贄の獣が逃亡してしまいまして、お見かけしていないか付近の方に聞いて回っているとこなのです」

「まあ、それは大変ですね。その獣はどういった見た目をしているんです?」

「普通の獣とは少し違うのです。角が生えておりまして、凶暴性を持っている」

「ごめんなさい、私は見かけていないですね。凶暴な獣なんて、このあたりで見たことも聞いたこともありませんし」

「そうでしたか。ところで……ずいぶん殺風景なご自宅ですね」

 男は扉から顔を突っ込んで中を見回しているのだろう。口調から睥睨の様子がうかがえた。

「ええ、実は引っ越してきたばかりでして。この家に着いたのも昨晩で、以前までの住人が残していった家具以外はなにもありませんし、これから見繕うつもりなんです」

「ほー……ああ、そうだ。もし困りごとなどありましたら教会にお越しください。いつでも力になりますよ。港から南に進んだところにありますので」

「それは大変ありがたいお話です。いろいろ片付きましたらぜひ行かせてもらいます」

 その後も一言二言交わして、男はようやく去っていった。しばらく棚の中で待機させられて、出てきてもいいと判断されたのは五分近く待ってからだ。転げるように床に倒れて深呼吸を繰り返すアウグストの隣で、少女は大きく伸びをしている。

「狭いところでお疲れさま。あら坊や、ずいぶん顔色が悪いよ」

「あんなところに押し込められて気分が悪くならないわけないでしょ!」

「結果的に助かったんだから良しとしなさい。さて、お茶でも飲んで――と、その前に」

 女性に手を差し伸べられて掴むと、強い力で立ち上がらされた。そのまま強く手を握られ、爽やかすぎる笑みを向けられる。

「どうやら坊やに危険はないみたいだし、自己紹介をしておこうか。私はロメリア、そっちの女の子はマスベルだ。坊やの名前は?」

「……アウグスト……」

「そう。よろしくね、坊や」

 名前を聞いておいてなお〝坊や〟呼びか。不満げなアウグストに気づいているのか、気づいたうえで無視しているのか、女性――ロメリアはふふん、と笑った。

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