薬師は未来をつかめるか―彼方に集う獣たち―
小野寺かける
第1話
薄暗い袋小路で、アウグストは眼鏡の奥で深い紺色の瞳を丸く見開いて固まっていた。
――な、なにが、起こったんだ。
二人組の男に追われていたのが数秒前のこと。港からここに至るまで、二時間以上もしつこく追い回された。
地元ならともかく、ここは初めて踏んだ異国の地だ。地の利などあろうはずもなく、表通りの賑わいが聞こえなくなった時にようやく「逃げているのではなく追い込まれているのでは」と気が付いたが、遅かった。三方を高い壁に囲まれ、背後は下卑た笑みを浮かべる男たちに閉ざされている。
ああ、終わった――――と思った直後、事態は急転した。
男たちが急に倒れたのだ。
より正確に言うなら、潰された。
壁の上から人影が降ってきたからだ。片方の男は背中にそれなりの衝撃をくらったらしく白目をむいて気絶しており、それに乗りかかられたもう一人の男はなんとか抜け出して立ち上がろうともがいている。
アウグストは依然ぽかんとしたまま、人影をじっと見つめた。
背の高い女だ。地面につきそうなほど長い金髪は三つ編みでまとめられているが、毛の束が揺れているはずの先端はなぜか布に包まれている。目を引くような若葉色のワンピースは所々が破けて、裾からちらりと見えた褐色肌の足は靴を履いていない。
こちらに背を向けているため、顔は分からない。だが、それでも。
――この女……人間じゃない。
そう確信させる証しが左の側頭部にあった。
ねじれた角が、耳の上あたりからにょきっと伸びているのだ。
お前いったい何なんだ。心の内の問いに答えるかのように、女はゆっくりとアウグストの方をふり返った。
時はアウグストが〝見聞を広めるため〟という名目での家出を決意した日にさかのぼる。
その日、家には大勢の親戚が集まっていた。「ゼクスト家の次期当主をどうするか」という話題について結論を出すためだ。先代当主が若くして亡くなって以来アウグストの母が代理を務めてきたが、そろそろ誰か正式に決めた方がいい、と数年前から問題になっていた。
お前も話し合いの場に来い、と言われていたが、アウグストが向かったのは喧々諤々と意見が交わされている大広間ではなく、さわさわと草のさざめきだけが満ちる庭の薬草園だった。
「僕には関係ないし……選ばれることもないだろうし……」
ぶつぶつと呟いて、目についた薬草を手折っては腰に下げた袋に入れていく。
「あ、これ枯れてる。土の状態が良くなかったかな。姉さんに相談……はしないでおこう。面倒くさい。そういえばケシの花が咲きそうだって聞いたな。どこだっけ」
「おいおい、こんなところで悠長に薬草採取ですかぁ? 次期当主候補さまはさすが気楽なもんだな」
不意に背後から聞き覚えのない声が聞こえた。びくっと肩を震わせたまま固まっていると、声の主はアウグストの正面に回りこんできた。
「えーっと……誰だっけ?」
「当主の座につくかもってのに、ゼクスト家に属する奴の顔なんかいちいち覚えてねえのか」
忌々し気に吐き捨てたのは、まだ幼さの残る少年だった。アウグストと一回りほど年が違うだろうか。まとう衣装と今の台詞から、どうやら身内の誰からしい。しかしどれだけ考えても名前は出てこないし、顔にも見覚えはない。恐らくこれが初対面だろう。
面倒くさそうな奴に絡まれた。アウグストは小さくため息をこぼし、立ち上がって少年に背を向けた。そのままさっさと歩き出すと、「あっ、おい!」と彼も律義に追いかけてくる。
「まだ話は終わってないぞ!」
「悪いけど僕はお前と和やかに話をする気はない。忙しいんだ」
「草をぶちぶち千切ってるだけじゃねえか。それのどこが忙しいって?」
「……お前、本当にゼクスト家の人間なの?」歩みを止めることなく振り返り、じとりと少年を睨みつける。「薬草の採取と研究がどれだけ大切なことか知ってるはずだけど」
「そんなことしなくても、
「あ、そう。それはそれは。便利な力を持つと楽が出来ていいね。それじゃ」
「おい、まだ話は終わってねえ!」
無理やり話題を打ち切ろうとも少年はずっと話しかけてくる。もしかして喧嘩を売っているつもりだろうか。あいにく買ってやるほどアウグストは優しくない。
早くどこか行かないかな、と辟易していると、少年は「噂に聞いた通りの落ちこぼれかよ」といくらか残念そうに言う。
「……なんだって?」
思わず立ち止まって問うと、少年は眉間にしわを寄せて腕を組んでいた。
「ゼクスト家次期当主候補だってのに、肝心の本人は薬草にお熱の落ちこぼれかって言ったんだよ」
「…………」
「反論もしねえのか」
「別に……お前が言ったことは全部事実だし。『先代当主は素晴らしい人だったのに、その息子がコレか』とか『魔術師なのに神力のない落ちこぼれ』なんて、今まで散々言われてきてるし」
アウグストの生家であるゼクスト家は〝魔術師〟として長い歴史を誇る。神が人を作った名残である〝神力〟を宿していることが魔術師の絶対条件だが、アウグストには生まれながらそれが備わっていなかった。
だからゼクスト家のもう一方の面――薬師としての腕を磨くことに注力してきたのだ。
「確かに神力があればどんな傷でも病でも瞬く間に治るだろうけどさ、使う人の得手不得手によって効果も当然変わる。神力だって、世代を経るごとに僕みたいな落ちこぼれが増えていく可能性がゼロじゃないんだ。それが分からないほど馬鹿なわけ」
「だから薬草千切って、煎じて、潰してってちまちました作業を続けてるってのか。非効率極まりねえな」
「薬づくりなんてそんなものでしょ。だいいち、大半の魔術師が処刑されたのにゼクスト家が今も残ってるのは薬師としての腕が認められたからだよ。はい、話は終わり。もういいから、どこか行って……」
「この際だからはっきり言っておくぞ。俺はゼクスト家当主になりてえんだ」
突然の告白に、アウグストはしばし固まった。少年はなにやら夢を見るような瞳で熱く語りだす。
「だって偉大な魔術師の筆頭に立てるんだぞ。大勢の下っ端を率いることが出来る! 尊敬されるし憧れられる! 最高じゃねえか!」
「……当主だから尊敬されるわけじゃなくて、尊敬されるから当主になるんじゃないのかな……」
「なんか言ったか」
「別に何も」
「その割に気に食わなさそうな顔してやがるな」
仕方がないだろう。ゼクスト家にいる家族同然の大勢の弟子たちをひとくくりに下っ端呼ばわりされて、不愉快に思わないわけがない。
「俺だけじゃねえぞ。落ちこぼれのお前を蹴落として当主についてやろうって奴は大勢いる。一番障害になりそうだったお前の姉貴も家を出たしな。絶好の機会だってみんな言ってる」
「……好きにすれば。そもそも当主なんて、僕はなりたいわけじゃないし。薬師であると同時に魔術師であれって決まりもあるんだし」
今度こそ少年から距離をとれたが、面倒ごとは次々に現れた。同じような言葉を口にする者たちが沸いて出てきたのだ。下は幼児、上は老人まで、世代はばらばらだが台詞はほとんど最初の少年と同じで、アウグストより自分こそ当主にふさわしいと訴えてくる。十人目を超えたあたりから頭が痛くなってきた。
親戚たちはしばらく議論のためにほぼ毎日やってくるという。代理当主である母はアウグストに後を継いでほしいようだが、あんな奴らを取りまとめる立場になりたいなどと思うはずがない。
――いっそのこと出てってやればいいかな。そうしたら「あいつに当主の資格はない」って判断されるでしょ。
決断した翌日、アウグストはいつも通り薬草を採取すると見せかけて脱走した。一応部屋に出ていく旨を記した紙は残してある。母や弟子たちに申し訳ない気持ちが全くないわけではなかったが、自分こそ当主にふさわしいと訴えられる日々を過ごしたくはない。気が滅入るだけでなく薬草の調合まで滞るのはごめんだ。
出来るだけ家から遠ざかろうと、アウグストは海を渡る選択をした。徒歩や馬車を乗り継いで港に向かい、適当な船に乗って異国に向かう。立派な客室ではなく、広い空間に大量のハンモックがぶら下がり、空いているそれを寝床に、持ってきた本を読みながらのんびり過ごせば一、二日で到着するだろう。
ここまでは順調だった。
うっかり興味本位で船内の散策をしたのが問題だったのだ。
叔父が船旅嫌いだったこともあり、アウグストは今まで海を渡った経験がない。当然船に乗ったこともなかった。ただハンモックに揺られているだけも暇だし、少しだけ見て回ろうとふらついた先で、見てしまった。
縄を手にした男たち数人と、彼らに縛り上げられる女性を。
――え、いや、なに今の。どう考えてもただ事じゃない。
――……人さらいとか、そういうの?
誰かに助けを求めた方がいいだろうか。けれどアウグストは人と話すのが得意ではない、というか出来るだけ他人と話したくない。
考えあぐねた結果、見捨てるという最低な結論を下して身をひるがえしたのだが、どうやら男たちはアウグストに気づいていたらしい。
船を降りてすぐ、「お前は俺たちを見逃してくれたようだが、俺たちはお前を見逃すわけにはいかない」と捕まえようとしてきたのだ。
どうしてこんなことに。船での所業を見てしまった時点で乗組員たちに報告していれば事態は変わっていただろうか。遠く離れた国に因果応報という言葉があるらしいが、まさしくその通りになっていないか。
せめて「助けてくれ」と誰かに声をかけられれば良かったのだろうが、人と話すのが苦手なくせが邪魔をした。さらに運の悪いことに、同じ船に密入国者がいたようで、アウグストが追いかけられているのは密入国したからだと周囲に思われており、不審者を捕まえようと男たち以外にも手を伸ばしてくる人々がいた。
どうにかかいくぐり必死に逃げ続けたが、たどり着いたのは行き止まりだ。
「ちょこまかと逃げ回りやがって」
「怖がらなくていいぞ坊ちゃん。良いご主人さまに巡り合えるようきれいな〝商品〟に仕上げてやるからよ」
この直後、男たちは上から降ってきた女に踏みつぶされたのだ。
「んー?」
自分が何をしたのかいまいち分かっていないのか、女はきょとんと首を傾げながらアウグストの方に振り返る。
その瞳はなぜか布に覆われていた。
「お、お前……な……」
何者なんだ、と聞いたはずの声はかすれていた。走り回って荒い息を繰り返していたせいだ。
「くそっ、なんだんだよ、退け!」
まだ意識がある方の男が女に訴える。彼女は初めて自分の足元に人がいることに気が付いたのか、「わっ、ごめんねー」と謝っているものの、退いてはいない。
「ねえねえ、そこのお兄さん」
「……え、僕……?」
「うん、そうだよー」と笑う声はあどけない。どことなく幼さを感じさせた。「ここってどこなんだろう?」
「はぁ?」
そんなのこちらが聞きたい。アウグストが困惑に首を振っていると、「いたぞ! 見つけた!」と威勢のいい声が聞こえた。頭上からだ。
アウグストを追っていた男たちの仲間だろうかと思ったが、違うらしい。反応を示したのは女だった。
「わっ。追いつかれちゃった!」
彼女はおろおろと慌てた調子で踏みつけていた男たちの上から飛びのき、なぜかアウグストの方に近づいてくる。
かと思うと。
「えっ、なんで!」
アウグストの腕をつかんで、風のように走り始めた。
「ねえねえ、あなた道案内して! どこ行ったらあたしは大丈夫になる?」
「意味わかんないんだけど! っていうか誰なんだよお前!」
放してくれと手を振っても、口で訴えても、彼女が聞き入れた様子はない。そのうちに抵抗する気力も体力も尽きてきて、アウグストは半ば人形のごとく女の思うがままに連れ回された。
人に追われているのなら大通りに出た方が助けを求めやすいだろうに、女はなぜか狭い路地ばかりを選んで走っている。意図的に避けているのだろうか。次第に「こっちだ!」「そっちの道に入っていったぞ!」と彼女の動向を伝える声が一つ、二つと増えていく。
アウグストが疑問に感じたのは、女の様子だ。いつ追いつかれて捕まるとも知れない状況なのに、彼女は時おり楽しそうに「あははっ!」と無邪気に笑っている。アウグストと違って色々と余裕があるのだろうか。
だが間もなく彼女からもそれが消えた。
十分以上走り続けてようやく明るく開けた場所に出たと思ったのに、そこでは大勢の男女がどう考えても堅気ではなさそうな雰囲気を漂わせて、武器やら縄やらを片手に待ち受けていたからだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます