大口真神 四

「御手洗さん、ひとつ伺ってもいいですか?」

 御造りまで並んだ豪華な夕食を囲みながら、わたしは聞いた。御手洗さんは箸を止めて、何でしょう、と眼鏡の奥でわたしを見る。

「狛市に対して、どう対処するつもりですか? 狛市は常世の国に迎えるべき神様なんでしょうか。それとも既に――」

 祟り神にはなっていませんよ――と、御手洗さんはわたしを遮って言った。

「人に禍を成すからと言って、それ即ち祟り神とはなりません」

「でも現に、狛市は人を襲ったのでしょう。村の人たちの印象だって、最悪だし――」

「及川さん――」

 御手洗さんは肩を竦めてわたしの名を呼んだ。こういう時は、少し長めのお説教とご高説が来る。わたしは背中を丸めて覚悟を決めた。

「神様にもね、そうせねればならない理由はあるのです。ただ、その理由ってやつが、人間の考えるそれとは異なっているだけなのですよ」

「はぁ――」

「今回の神域に足を踏み込んだ件ですが、それをやむなしとする神様もいれば、それが絶対に許せない神様もいるということです。大口真神のような自然神なら猶更だ。我々の目には山の中腹に開けた空間にしか見えずとも、狛市にとっては、そこを構成するもの全てが非常に大切なものだったかも知れないのです」

 たとえば、と言いながら御手洗さんはお茶をちびりちびり飲む。

「及川さん、ある日どこからともなく男がやってきて、庭に飾ってあった植木鉢をひっくり返して行ったら、どんな気持ちがしますか?」

「そりゃ……故意か過失かで違うんでしょうけど、少なくとも心穏やかではないですね」

「じゃあひっくり返したのが、三日三晩かけて積み上げていた空き缶タワーだったら?」

 そんなもの作らねえよと思いつつ、

「まあ、さすがにぶん殴りたくなりますね」

「庭に遊んでいた、可愛い可愛い我が子だったら?」

「ぶん殴りますね」

「そうでしょう。狛市も同じですよ。ただ、その狛市が大切にしていた対象が、我々の目には見えないだけでね。だからこそ、神域なんですよ」

「なる――ほど」

「一見理不尽に見える神の振舞であっても、そこに一定の理があるのか、あるは祟神の所業なのかを見極める目は絶対に必要です。そこを見極めきれずに排除に及ぶと、それが原因で祟り神になることもある。だからね、今回みたいなケースでは、我々、八百万人事課のような第三者の視点が絶対に必要だったのですよ」

「それで、御手洗さんの結論は?」

「結論は簡単です。狛市は祟り神ではない。そして彼の神域で犠牲者が出なければならなかった明確な理由も存在しています。さらに言うと、その理由は、今の村人には見えていないだけで、人間の理を定規として考えても十二分に納得のいくものです」

 いつになく熱のこもる御手洗さんの言葉。わたしは相槌も打てずに聞いていた。

 やはりこの人は、分からない。が、侮れない。誰も――この村に長年住んでいる人たちでさえ気づけていない真実に、たった一人、辿り着いている。

「問題は、それをどのような形で伝えるかです。一般の人のほとんどは、信心深いとはいえ、自分たちの生活の間近に神様の存在が本当にあると、あまり信じたくはない。狛市も、神格と切り離して、ただの山犬と見做したいようですからね。それを覆し、神様の存在とその意義とを伝え、振り上げた手を下ろしてもらうのは容易なことではない。だが――」

 御手洗さんは足を崩し、うんと伸びをした。一足分の足音が次第に近づいてくる。

「今回に限っては、存外、上手く事が運びそうですよ」

 がらりと戸が引かれて、青い顔をした旅館の仲居さんが現れた。この旅館の息子――栄太君を、どこぞで見なかったか、という問いだった。



 嫌な予感がした通り、彼は夕暮れ時に山に行ったきり、まだ戻っていなかった。今、村の人総出で探しているとのこと。

 わたしたちも手伝います、と御手洗さんはすぐさま立ち上がった。もちろんわたしも、協力する気満々だった。雨は小降りになっていて、傘もいらないくらいだった。

 道を行く人は松明やら懐中電灯やらを持ち、列をなして進んでいる。そのうちの一人曰く、やがて霧が濃くなると懐中電灯の光はあまり役に立たないのだろう。昔ながらの松明が、一番迷子の目を引くそうだ。

 村の人たちの顔は、夜でもわかるくらい青い。また狛市にとられたか――と毒づく人もいる。栄太君のお母さんは、卒倒寸前で旅館の玄関で介抱を受けている。どんな理由であっても、ここで栄太君が戻らなければ、山に――狛市に対する村人の心象は、もう回復不能なまでに悪化するだろう。

 何とかしないと――。わたしは奥歯を噛みしめた。

 わたしたちは一回、栄太君とすれ違っている。あの時に、もっと本気になって止めていたら……こんなことになならなかったかも知れないのに。

 しかし御手洗さんの背を追って、湿っぽい闇の中に足を踏み入れた途端、わたしはアッと声を上げそうになって手を抑えた。頭の中を電気が走り抜けたようになって、いつもは鈍いはずの頭が異常に冴えわたるのを感じた。この感覚を、わたしは二年に一回くらい経験するのだ。

 何故――止めなかったのだろう。

 すべてを知っているのは御手洗さんだ。今あの山が危険なのかどうか、その答えを握っているのは御手洗さんただ一人。その彼は、わたしと一緒に栄太君とすれ違い、その行き先も聞いていたはず。

 ――こうなると分かっていたら、絶対に止めたはずだ。

 いや、あるいは……

 こうなると、分かっていたから止めなかったのか。

 御手洗さんの心が読めないまま、彼を追って畦道を走った。今回の仕事の決着を、まるで見いだせないままに。狛市の行く末も、村人の決断の行方も、わたしたちがどうすべきかの答えも、全ては射干玉の中に埋もれ、その中をひた走る、ただ一人の男の中に委ねられているのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る