大口真神 三

 子供の頃って、雨がけっこう好きだった。ちょっとくらいの小雨なら、傘なんかささずに、ピッチピッチチャップチャップランランランとか歌って歩いていた。

 今? 雨なんて嫌いだ。

 特に泥濘んだ山の中を、早足の御手洗さんの背中を追いかけて歩く今現在、雨が百年の敵に思えてきてならない。

 山の中を歩いて、もう三十分にはなるだろう。その間、御手洗さんは一度もわたしを休ませてくれず、事件があった「狛市の塒」とやらを目指して進み続けた。この人は針金細工みたいな体してるくせに、とにかく足が速い上に持久力も半端ない。本人曰く、フィジカルな強さはこの仕事に就いてからの賜物らしいのだが、その恩恵がわたしに与えられることは、未来永劫なさそうだ。

 雨合羽を着ていても、長靴を履いていても、雨は普通に入り込んでくる。長靴の中で、靴下がぐじゅぐじゅと水音をたてる不快さったらない。早く宿に帰りたかった。山に行く途中に、わたしたちが泊まる「菊水」という宿が建っていて、それはもうとんでもなく素敵な旅館だった。しかし、わたしたちが菊水に足を落ちつけるのは、だいぶ後のことになりそうだ。何せ、往路だけでもう三十分なのだから。

 散々な獣道だったのが、少しなだらかになってゆく。御手洗さんは歩速を緩め、わたしが追いつくのを待ってから話し始める。まったく息切れしている様子がない。何者なんだ、この人は。

「大口真神――狼ってのは、聖獣の中では最も古くからいらっしゃる神様で、火難や盗難よけとしても多くの信仰を集めました。大和国の飛鳥にある真神原には古狼がいて、万葉集にも詠まれていたほど知られていたんです。今でも秩父の神社を中心に、狼が描かれた神札や護符が頒布されているくらいで、その信仰は微塵も廃れていません」

「つまり――お迎えにいくような神様ではない、と」

「我々が普段お迎えに上がるような理由で、お会いする神様ではないですね。ただ、大口真神の信仰は全国的に盛んというわけではありません。この村のように、狛市という別名を与えられて畏れられている神と、秩父の神社の御神犬を一緒にするのは、いささか乱暴ではあります」

 忠犬ハチ公と、そんじょそこらの野良犬を一緒にするな、ってことだろうか。確かに、今でもハチ公の周りには人が集まるけど。

 まあそうは言っても――と、御手洗さんは肩を竦めた。

「格式の違いだけで、本質はそう違ったものじゃありませんけどね」

「もし狛市が村に害を及ぼしているようなら――どうやって異動してもらうんですか?」

 さあ、そこなんですよ、と御手洗さんは嘆息する。わたしも嘆息する。歩き疲れた。早く帰りたいと、さっきからそればっかり考えている。

「御犬様には言葉が通じない。それが一番厄介なところです」

 へ? と素っ頓狂な声が出た。が、すぐに、そりゃそうだと思った。相手は犬だ。神様とて犬だ。犬であって、神様だ。人の言葉を喋り、それを理解してくれるなんて保証はどこにもない。

 これまでに会ってきた神様が、みんな人の形をしていたから、勝手に思い込んでいただけだ。

「じゃ、じゃあ、どうするんですか?」

 どうするんでしょう、と御手洗さんは真面目な顔で言う。腹が立つところだが、わたしはむしろ戦慄していた。こんな時に冗談なんか言う人じゃない。このひとが、どうしようっていう時は、本当にどうしようなんだ。

「獣の姿をした神との折り合いの付け方ってのはね、場合によっては神様との付き合いの中で一番むつかしいことなんですよ。言葉によるコミュニケーションができないから、互いの真意を伝えることも、互いの譲歩の一線を確認することもできない」

「……」

「たとえば今回の件もそうです。村の人を襲ったのが狛市だったなら、何故、狛市はそうしたのか。村人は、被害者が禁足地に足を踏み入れたからだと答えを見つける。しかしその事実に、狛市の真意があるかは分からない」

「神様の――真意ですか」

「人間同士であっても、同じ目線で物事を見ているわけじゃないでしょう。村の人は今、狛市に対して憎しみを向けています。自分の塒に足を踏み入れただけで、ここまで報復されなければならないのか。それじゃあ自分たちはずっと、狛市を恐れながら生きていかなければならないのか、と。山犬の足跡なんて面倒な証拠まで出てきたものだから、もう後には引けない。神であろうが何であろうが、とにかくやっつけてしまえと、そういうことになる。でもね――」

 と、そこで言葉を切って、御手洗さんは鉛色の空を見上げた。

「人には人の、神には神の都合ってものがあるんです。狛市がそうしなければならなかった理由――私たちの推し量りがたいところに、大口真神の真意が隠されているのかもしれません」

 御手洗さんがそこまで言った時、急に視界が開けた。緑色の、背の低い草に覆われた、十メートルもない空間が広がったのだ。その空間のへりは、そのまんま崖になっている。その際まで立って見下ろせば、遥か真下に、わたしたちが訪れた村が見えるだろう。

 背後を振り返り、目線を上げていくと、わたしたちが通り抜けてきた木々の上はそのまま、ごつごつした山肌の険しい崖になっている。山の中腹に、ぽつねんと生じた空間――なるほど、特別感がある。

「ここが、狛市の塒ですね」

 御手洗さんは足元の石を見た。わたしの膝小僧くらいまであって、何やら書かれている。

「ここから先は、行かぬ方が良いでしょう。なに、ここからでも十分わかります。やはり――そういうことだったんですね」

 誰に向かって言っているのだろう。御手洗さんは満足そうに何度もうなずいている。いつもながら何もわかっていないわたしは、御手洗さんの一歩後ろで、いつ現れるとも知れぬ山犬の陰に怯え、身を縮こませて周りをきょろきょろ見回しているしかないのだった。




 山を下りて旅館に行く途中、一人の子供とすれ違った。名前を栄太と言って、わたしたちが泊まる旅館「菊水」の女将の子らしかった。わたしたちが来た方――つまり山の方に向かって行くから、呼び止めて、どこにいくのか聞いてみたら、山の中で捕まえて飼っている虫たちが気になるのだという。雨が本降りになりそうなので危ないと止めたのだけれど、勝手知ったる山だからということで、そのまま行ってしまった。仕方がないと首を振り振り、わたしたちは旅館「菊水」の暖簾をくぐった。

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