大口真神 二

「――で、夜明けに見つかったんですね」

 小太りの村長は汗を拭き吹き頷いた。ほほぉ……と訳知り顔で頷くわたしを、御手洗さんは五月蠅いと言いたげに睨んでいる。

「山の中腹に、開けた場所がありましてね。すぐ下は崖なのですが……。昌平さんはそこに倒れていました。山狩りの連中の発見が早くて、命に別状はなく、病院に担ぎ込まれてから一度は、意識も回復して、先の話を私どもにしたのです。しかし、その夜に容体が悪化しまして――今朝、とうとういけなくなりました」

「外傷は?」

「それが、何もないのです。ただひたすらに衰弱して。まるで、日に日に生気を吸い取られていくかのようで、最期の方は顔なんかもう紫色で――。あ、そうそう、外相と言うわけではないのですが、山中で昌平さんを見つけた奴が言ってましたが、昌平さんは俯せに倒れていて、その背中に大きな足跡が付いていたそうです」

「足跡――獣のものですか」

 御手洗さんが訊いた。村長は頷いて、

「犬のようだったと言っていました。しかし、それにしちゃ大きすぎる。まるで熊のもののようだったと。かなり強い力で、上から押し付けられたようで、背中にしっかり付いていたようですよ」

「山犬ですか」

 狛市と言うんです。村長は怯えた視線を背後に走らせながら言った。

「狛市、ですか」

「山に住む大きな犬で、昔から神の化身だと言われてきました。昌平さんが倒れていた山の中腹は、狛市の塒に当たる場所で、村では禁足地として知られています。昌平さんももちろん知っていたはずですから、誤って足を踏み入れてしまったのでしょう」

「それで、狛市の怒りに触れた――と」

 御手洗さんの冷静な相槌。訝し気な表情一つ見せない御手洗さんを、村長は、マジかこいつ――みたいな目で見ている。そりゃぁ、そうだろう。山犬の神様だなんて話を持ち込まれたら、普通は正気を疑う。大マジに受け取ってくれるのは、わたしたち、八百万人事課の人間くらいのものだ。

「あの――疑わないんですか?」

「あなたの話をですか? 嘘を言いに、わざわざこんなところまで人を呼びつけやしないでしょう。旅費も交通費もそちら持ちなんだから。酔狂にしちゃあ度が過ぎている。それに、昌平さんがどのような風に死んでいたかは、少し村を歩けば簡単に知れること。すぐにバレる嘘を吐くほど愚かでないでしょうし、そもそもそんなことをする理由もない」

「ならば、本当に狛市なんて神様がいると――」

「あなたもいると思ったから、我々にコンタクトを取ったのじゃないのですか」

 餅を喉に詰まらせたような顔で口ごもる村長。一瞬の逡巡があってから、村長はおずおずと、

「儂はただ、どうしていいか判断に迷って、県庁に相談したんです。そうしたら、これこれこういうところがあるから、とにかく電話してみなさいと勧められたので、それで――」

 まあ、そんなところだろうと思った。

 御手洗さんはひとり肩を竦める。村長がいつまでも恐縮しきっていて話が進まないので、御手洗さんはやれやれと首を振り、いかにも面倒くさそうに、

「それで、村ではどうなっていますか」

「それが――昌平さんが亡くなったのをきっかけに、村では不満の声が上がりまして……山狩りをして狛市を追い出してしまえと、そういうことになっています。おっしゃる通り、神様かどうかはともかくとして、山の中に危険な獣がいることは事実ですから。もう我慢がならん、そいつをとっ捕まえて、殺してしまえと、皆いきり立っているんですよ」

「もうってことは、これまでにも何回か、同じことがあったんですか」

 これはわたしの問いかけだ。村長は、汗を拭いながら、はて……と曖昧な返事。

「儂が知る限りではないのですが、古老に聞けばあるかもしれません。狛市の禁忌の話は、村の者なら誰でも知っていますからね」

「何にしても――駒市とやらが本当に大口真神であるならば、村との衝突はなるべく避けたいところですね。宜しい、やれるだけのことは、やってみましょう。ただ、村の中で駒市における反感が強く、抑えが効かないようならば、我々が何をやっても無意味です。それだけは了解しておいてください」

 はあ――と気のない返答。まったく納得していないどころか、そろそろこっちの正気を疑ってくる頃合だ。半信半疑どころか、ほとんど疑の心で、他に頼るあてもないしという気持ちで連絡してきたのだろう。あの人としては、山神なんてものの存在を否定し、村にもそれを納得させるためのアドバイスなり何なりが貰えると思っていたはずだ。それが、目の前に現れた相手は神様を否定するどころか、その可能性を一度も否まない上で、何かやろうとしている。あてが外れたどころのガッカリレベルじゃないかも知れない。それこそ、霊感商法に引っ掛かった、くらいに思ってるんじゃなかろうか。

「それじゃ、一つよろしく。あの、この部屋は自由に使っていただいて構いません。旅費は三日分ですが、その間はお近くの菊水という旅館にお泊りください。それでは――」

 と早口で言うと、さっさと出て行ってしまった。

 ぱたんと閉じた戸。白けた空気漂う部屋の中で、わたしはソファーに深く座り込む御手洗さんを見た。目を閉じて眠っているのかと思いきや、わたしの視線を感じたか、大きな溜息をついて、いつもと変わらぬ様子で呟いた。

「厄介なことになりそうですね――」

「村長さん、だいぶ訝ってましたよ」

 そりゃそうでしょうね、と御手洗さんは嗤って、

「お犬様なんて迷信だ、そう言ってほしかったでしょうから」

 わたしは窓の向を見た。不穏な雨雲を頭にいただく、くろぐろとした峻険。あれが、問題の山らしい。

「御手洗さんの仰っていた、大口真神って何ですか?」

 ニホンオオカミのことですよ、と御手洗さんは言った。

「生物としてのニホンオオカミは絶滅していますから、山犬の神という意味で言ったのですがね。御神犬とも言います」

「やっぱり、狼の神様があの山にいると――」

「話を聞いただけですが、禁足地があり、足跡が背中についていたとなると、可能性は高そうです。村長の前で明言は避けましたが、間違いなく八百万人事課の管轄ですよ」

「じゃあ、いつものようにお迎えに上がるんですか?」

 そこなんですよね――と御手洗さんは物憂げに呟いて、膝の上に肘をつく。

 どうしたんだろう。いつもの御手洗さんらしくない。

 いや、いつもだって快活ってことはないけれど、今日の御手洗さんはずっと、何か重いものが頭にのしかかっているような、そんな気だるい感じをずっと出している。

「御手洗さん、熱あります?」

 御手洗さんはわたしを睨んで、熱があるように見えますか、と聞き返す。見えません、と小さく答えるしかないわたし。

「でも何だか様子が変で。山犬の神様に、何か思うことでもあるんですか」

「思うことはないんですが……単純に、気が重いだけです。厄介なんですよ、獣の神は」

「はあ――」

 現場を歩きながら話しましょうか、と御手洗さんは腰を上げる。えっ? 今から行くの? とギョッとした時には遅く、わたし目掛けて雨合羽が飛んできた。

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