大口真神 一
降りしきる雨、濡れた石に足を取られて転びかける。
咄嗟に伸ばした右手が、だらりと垂れさがっていた枝を掴んだ。身体が大きく沈み込んだかと思うと、ぐっと持ち上がって体の向きが立て直る。ふっと息を吐いて、額を濡らす雨だか汗だか分からないものを拭った。一歩でも足を踏み外せば、下にぽっかり口を開けている闇の中に真っ逆さま。生きて帰りたければ、足場だけはしっかり確保せねばならない。
身体は冷めきって、節々が痛む。疲労で目が霞む。気ばかりが急くが、そう速くも長くも歩けない。目の前にあるのは、鼻を抓まれてもわからない闇で、背後にあるのは、首の後ろをどやされても分からない闇。懐中電灯なんか、何の役にも立たない。
勝手知ったる山だと、うぬぼれていた。雨が全てを変えてしまう。勘だけで歩みを進めているが、道が正しい自信はどこにもない。
これは不味いな――思わず、そう独りごちた。
こうなる前に、雨宿れる場所を探すべきだったのだ。だがもう遅い。動いていないと、身体がどんどん冷えてゆく。気力が削られてゆく。
身体が後ろ向きに傾いだ。上り道――なのだろうか。意地の悪い疲労が、じわじわと足を突く。
ここを登らねば死ぬ――そう自分に言い聞かせながら、歩き続けた。
十分? 一時間? いや永遠とも思われる道のりの果て、ようやく道が平坦になった。
気づけば、小降りになっていた。しとしとと草を騒がす夜雨。
懐中電灯で辺りを探った。どうやら、だだっ広いところに着いたようだ。
光の中に現れる範囲は、せいぜい三歩先くらいまで。とりあえず濡れた草の他、見えるものは何もない。四方に光を送ると、ぐるりと一巡したその先、つまり自分のすぐ真下に、何かを見つけた。
屈みこんで、光を当ててみる。何かの祠のようだ。丸みを帯びた石が、不思議な規則性の下に積まれている。
その真ん中に、足を踏み込んでいた。
――仕舞った。
禁忌を犯したと悟った。背中がゾッと冷たくなった。雨のせいではなかった。心臓を鷲掴みにされたようで、息が吐かなかった。
――ここは、狛市の縄張りだ。
逃げなければ――。しかし、足は悪戯に笑うばかりで、まったくその場から動こうとしない。まるで祠に吸い寄せられているかのようで、一寸たりとも持ち上がらないのだ。
遠くに灯が見えた。二つ。雪のように蒼い。
それが次第に近づいてくる。大きくなっていく。
雨そぼ降る中で、激しく燃え揺れている、二つの双眸。
もう駄目だと分かった。ぎゅっと目を閉じる。
その先は、もう、何もわからなかった。
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