辻神 三

 ゆらりと大きく揺れた。現れた神様が、ふわふわ漂いながら、ゆっくりこっちに向かってくる。周囲はすっかり闇が立ち込めて、人どころか虫の気配すらない。

「御手洗さん……」

 思わず小声で、横にいる上司の名を呼ぶ。できることなら、その枯れ枝のような腕でも良いから縋りたい。それくらい、嫌な空気だった。どんよりとして、底知れなく、うすら寒く、喉をぐっと締め上げてくるような――、近づいてくれば近づいてくるほど、それがどんどん濃くなって、やがて闇が形を持って、本当に首を絞めてきそうな、そんなゾッとするような感じがする。

 御手洗さんは何も答えず、前方の神様を見つめているばかりだった。普段と特に変わった様子はない。違うと言えば、眼鏡の奥の目が、いつもより若干、見開かれているということくらい。それが何を示すのかが分かるほど、上司に通じているわけではないわたし。ただただ、成り行きを見守るばかりだった。

 辻神――だっただろうか。ここに来る寸前に、御手洗さんから名前だけ教えてもらったのだ。そして御手洗さんは、今回は神様に灸を据えに行くと話していた。

 こんな神様相手に――灸を据えるというんだろうか。

 八百万人事課に就いて間もないけれど、こんな禍々しい気配を漂わせる神様に出会ったのは初めてだった。ここにいるのは危険だと、本能が警告していた。悪しきモノがその身体から立ち上らせる「瘴気」というものがあるそうだが、それを実際に見たのは、これが初めてだった。

 逃げなければ――と、呟きそうになって、慌てて口をおさえた。

 しかし、もう遅い。相手の神様は、もう目前まで迫っていた。身にまとう襤褸を風になびかせて、二つの目を赤々と輝かせて。闇が周りに立ち込めていて、どれだけ近づいても表皮の様子とか、そういった細かい部分は見えない。ただ、首に、汚れた枝を組み合わせた、何らかの印のようなものを下げているのだけは、闇の中でもはっきりと見止められたのだった。

 ――怖い。

 もう見ているのに耐えられなくなって、顔をそむけた。視線の先に、また御手洗さんの顔が現れた。さっきと変わっていないようで、息が少し速くなっている。鼻から吹き出す白い息でそれと分かったのだ。春の夜に、凍てつく空気――? 御手洗さんがどう動くのか、何も聞かされていないわたしは、固唾を呑んで見守るしかなかった。

 ぎしぎしと軋む音がして、神様が、だらりと垂れた手を伸ばしてくる。腐った木切れで作って泥を塗り固めたような、気味の悪い手。それが、ずずずと伸びて――

 ――わたしの顔を触ろうとしてくる。

 ひっと叫んで、思わず飛びのいた。その瞬間だった。

 ばしぃっ! という鋭い音とともに、わたしと神様との間に閃光が走ったのだ。

 眩しさに目を覆った。そこから寸時待たずに、地の底から響いてくるかのような、おぞましい叫び声が耳をつんざいた。

 全身の毛が逆立つ。ゾッとするというのは、こういう時に使うのだろう。

 叫び声は、長く尾を引いて消えていった。その後に訪れる、静寂。

 長いこと、手で目を覆ったままだった。あるいは、そんなに経っていなかったのかもしれない。何が何だか分からず、目を開くのが怖くて、地蔵のようにずっと固まっていたのだ。

「――及川さん、済みましたよ」

 御手洗さんの声だ。落ち着いた声の中に、僅かな疲れを滲ませていた。

「済んだって……あれはいったい、何だったんですか」

 辻神です、と御手洗さんはこともなげに言った。

「辻神――」

「こういう四辻や三叉路のように道が交わるところは、魔の生ずる起点になりやすい。その代表が辻神です。まあ、神とは名ばかりで、悪霊の類に近いものですけどね。真夜中、こうした辻道を通るものに取り憑き、悪さをさせるんです。別に、通り物と呼ばれる怪魔がありますが、それとも近い存在ですね」

 そんなものに灸を据えに来たって……まんまエクソシストじゃん。

 とは言わなかったが、顔に出ていたのだろう。御手洗さんは嘆息して、まだ勘違いしているのですね、と呟いた。

「今回、我々が灸を据えに来たのは、辻神じゃありませんよ。そもそも相手は、妖怪の類ですからね。八百万人事課の管轄ではありません」

「――へ?」

 肝心要の部分を見逃すからそうなるんですよと、御手洗さんは冷たく言い放つ。そうして膝を折り、傍にある縦長の石に手をかけた。

「魔が生じ、悪さをするのを避けるため、丁字路の突き当りなどには、こうした石敢當と呼ばれるものが置かれています。これはいわゆる賽の神の一種で、辻神などの悪しきものから、この近辺を守ってくれると言われているのです」

 そうですよね? と呼びかけた瞬間、石が靄のような鈍い光を出した。その光が次第に人の形を取っていく。禿頭で古めかしい着物を着た、人の良さそうな老人の姿――わたしの目には、そう映った。

「人事課の方へ来た依頼は、数ヶ月前から、この近辺に良くない気配――瘴気が立ち込めることが儘あって、それをどうにかしてほしいというものだったんです。そこで現地に赴いてみると、石敢當があって、ここを守護する存在がいるということは分かった。それなのに怪しい存在がうろついているということなら、帰着すべき結論は一つ――ここの賽の神が怠けているとしか考えられない」

 怠けるって……。本当に? という目で石の上に浮かび上がった顔を見ると、向こうもわたしを見て、恥ずかしそうにちょっと頭を下げた。

 いや、図星かよ。そう心に呟く。御手洗さんも老神を睨んで、

「信仰が廃れて怪魔を抑えられない――そういう状況であったなら大変だったのですが、実際に見ても石敢當は手入れされているし、打ち捨てられている気配もない。むしろ、ここまで丁寧に祀られているのに、それに応えないとは何たることかと、それを伝えに来たのですよ」

 やるべきことはやってください、と神様相手に何の臆面もなく言い放つ御手洗さん。改めて、とんでもない人だと思う。老神も恐縮仕切りで、まったく言い返す言葉を持たないようだ。わたしはおずおずと、

「御手洗さん、いつから分かってたんですか。ここに来る前から、灸を据えに行くっておっしゃってましたけど」

「初めから、だいたいこうだろうなと読んではいました。この近辺に瘴気が出だしたのが、数ヶ月前から急に、とってところが気になりましてね。信仰が廃れて神力が衰え、魔所化する場合、もっとゆっくりと状況が悪くなっていくものなのですよ。それまで何の翳りも指さなかったところに瘴気が生ずるなんてことは稀です。そこから推測できる選択肢も、それほど数はない」

 なるほど、と、分かってもいないくせに頷くわたし。御手洗さんはフッと息を吐いて、

「とにかく、これで仕事は終わりです。帰るとしましょうか」

「え? これから灸を据えるんじゃないんですか?」

 もう終わりましたよ、と事も無げな御手洗さん。見ると、さっきまで石の上にいたはずの老神が、きれいに逃げ帰っていた。

「灸を据えるって言っても、滾々と説教するわけじゃありませんよ。我々がやるべきは、あの怠け者の神様に自分の本分を思い出させること。それがそのまま、この場所に救う魔を撃退することになる」

「ってことは――」

「辻神が撃退された時点で、我々の役目は終わりです。その後でちょっと物申したのは、個人的なイヤミです」

「イヤミ、ですか。そうですか――」

 頷きはしたものの、何となく納得がいかないわたし。遠路はるばるこんな所まで来て、あまりにもあっさり仕事が終わってしまったからだろうか。いやいや、けっこう怖かった。辻神の瘴気は本物だったし、御手洗さんによると、あれは人に取り憑いて悪さをする悪霊とのこと。そいつは確実に、わたしを狙って手を伸ばしてきたのだから……。

 ……ん? ちょっと待て。

「御手洗さん、もしかして、わたしを囮にしました?」

 そそくさと立ち去ろうとしている御手洗さんの背中に、わたしは問うてみた。御手洗さんは振り返り、眼鏡をくいっと上げて、

「はい。その通りです」

 といつもの冷静口調。はあぁ!? と頭の中で吠えるわたし。

「今回、及川さんは大活躍でしたね。ああいう通り悪魔って類は、冷静沈着なタイプを避ける傾向があるのです。ちょっとくらい、情緒不安定な人の方が、取り憑きやすい。その点、及川さんは私と比べても感性に富んでいるようなので、辻神にとって格好の獲物だったんでしょうね」

 悪びれ、という言葉をこの人は知っているのだろうか。さも当たり前のように、けっこう危ないことを、この人は言っている気がするのだが。

「じゃ、じゃあ――さっきの神様に本来の役目を思い出してもらうための釣り餌のようなものだったんですか? わたしって」

 あの激しい光は、賽の神の神力なのだろう。あれで助かったから良かったようなものの、もしあいつ……いや、あの神様がどこまでも図太い怠け者だったなら、今頃、わたしはどうなっていたことか。

 釣り餌なんてとんでもない、と御手洗さんは否定した。

「さすがのわたしでも、部下を悪霊の手に渡すほど冷酷ではありません」

 冷酷という自覚はあるようだ。御手洗さんはどこからか護符を出して、

「いざという時の対策も織り込み済み。そうでなきゃ、海千山千の神様なんて相手にできませんからね。信じてもらわなくても良いですが――及川さんの身の安全は保証されていましたよ。今回の仕事ではね」

 行きますか、と踵を返し、すたすた歩いていく御手洗さん。わたしは、ぐぬぬ……と、漫画みたいな声を出して、唇を噛み締めた。

 結局、都合よく使われただけのわたし。わたし自身は相当怖かったんだけど、御手洗さんからしてみればそれも織り込み済みで計画を立てていたんだろう。

 わたしは別にあの人のことを冷酷だとも思わないし、信じていないわけでもない。御手洗さんは御手洗さんなりに、仕事として、私の安全を完全に保証できる状況を考えてくれているはずだから。

 でも、でもなあ……。

 わたしは深々と嘆息して、頭をぽりぽり掻いた。そうして御手洗さんの、だいぶ小さくなってしまった背中を追いかけつつ、夜の闇に向かって呟く。

 ――君は僕が守る、とか、そういう臭いセリフの一つや二つ、言えないのかなぁ……。

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