大口真神 五

 雨のそぼ降る中、私たちは無明を前に立っていた。

 私たちの後には、灯りを携えた大勢の人。少子高齢化著しい上、場所が場所なので集っているのは50歳を超える男の人ばかりだ。

 みんなを従えるようにして山野を突っ切ってきた御手洗さん。旅館を出たはじめは、みんな別々の方向を探していたのに、自然の全ての足先がこの山を向いていた。誰よりも足が長く、足が速い御手洗さんがいつの間にか先頭に立ち、大勢の人たちを率いて、この山に殴り込みをかけたような形になってしまっていたのだった。

 殴り込み――本当に、そんな感じがする。背後からじわじわと、すっごく剣呑な気配を感じるのだ。

 ――狛市の塒に攻め込む時だ。

 そんな覚悟さえ伝わってくるのだ。それを止める術は、わたしたちにはない。ひょろりとした蜻蛉と、箸より重いものなんて持ったことがないお嬢なんて、村人たちの防波堤になんかなれるはずがない。

 もし、栄太君が戻らなかったら――。

 それだけは避けたい。何人かが猟銃を携えている今この状況では、むしろ最悪の事態にこそなりやすい。

 それを止められる人がいるとしたら――。

 わたしは目前を急ぐ、細い背中を見た。誰にも行き先を告げず、ただ前へ前へ進む御手洗さん。彼だけは、何かに気づいている。何かを掴んでいる。

 止められるとしたら、この人しかいないんだ。

 わたしには何もできない。ただついて行って、御手洗さんを信じるしかない。

 無力だと、自分を責めたって何にもならない。

 きっと事態はもっと、大局で動いているだろうから。

 わたしがそこまで考え至った瞬間、御手洗さんの背中が鼻の先に来た。

 びくっとして足を止める。御手洗さんは山道の只中に立って、まっすぐ前方を見ていた。

 何があるのだろうと、首を伸ばして覗き込んで、わたしは息をのむ。

 燐光に白い毛並を淡く輝かせた、真っ青な目の狼がいたのだ。

 大きい。熊ぐらいありそうだ。雪のような真っ白な毛は、雨に濡れてもへたれることなく、ピンと張っている。そこに雨粒が当たるたびに光が小さく爆ぜて、きらきら瞬きながら落ちていくのだった。すらりと長い鼻。眉間は青い炎に覆われている。海の底を思わせる輝きを帯びた双眸は、対峙する御手洗さんを真っすぐ、静かに見つめていた。その背中には、ぐったりと俯せに倒れる一人の子供――。

「――栄太ッ!」

 夜の帳を突きさす叫び声。村人の何人かが銃を構え、御手洗さんよりも前に出ようとする。

 御手洗さんは右手をさっと広げ、村人の足を止めた。苛立たしそうに御手洗さんを睨んだ、その男の人は、逆に御手洗さんに睨み返されて、さっと顔色をなくす。御手洗さんは狛市から視線を外すことなく、静かに言った。

「動かないで――。動くと、全てが危険に転びます」

 有無を言わせぬ気迫。日頃のわたしへの罵倒なんて、全然甘いものだったんだ……と、そんなどうでもいいことを思い知らされる。

 御手洗さんが一歩前へ出た。狛市が歯を剥いて唸る。御手洗さんはゆっくりと身を屈め、狛市と同じ高さに目線を据えた。そうして、ゆっくり頷いて見せる。

 狛市はじっと、御手洗さんを見つめている。蒼光を放つ双眸で、御手洗さんの、子心の奥底まで見透かすかのように――。だが、やがて狛市はふんと鼻を鳴らし、首をぐいと引いてみせた。それがわたしには、こっちに来るようにという合図のように見えた。

 御手洗さんの目にも、そう見えたのだろう。御手洗さんはゆっくりと腰を上げ、一歩、また一歩と狛市に近づく。そして、その大きな背中に横たわる栄太君の身体を、そっと抱え上げた。あの瘦身のどこに、そんな筋力が隠されていたのだろうかと目を見張るほど、軽々と持ち上げている。そして栄太君を抱えたまま、一歩、また一歩と退いた。

 元の位置に着くと、狛市はふんと鼻を鳴らして踵を返し、そのまま闇の中に帰ってゆく。後を追おうとする者はいなかった。目の前に現れた狛市――大口真神の姿に気おされて、動く気になれないのだった。

「狛……市――」

 小さく呼ぶ声が聞こえた。見ると、目を瞑ったままの栄太君が、寝言のように呟いたものらしかった。その身体は冷えてこそいたが、外傷はどこにもない。父親らしき、大柄な男が水っ洟を垂らしながら近づいてきて、御手洗さんから栄太君を受け取った。



「――さあ、説明してくださいよ」

 宿に帰り、やっと二人きりになったところで、わたしは御手洗さんに詰め寄った。

 栄太君は両親の手に返された。寒い雨夜、山の中にいた割には衰弱も思ったほどではなく、明日の朝には問題なく起き上がれるだろうと診たてだった。栄太君が無事に帰れば言うことはない。村の人々も帰っていて、旅館「菊水」には、わたしたち以外の旅客の姿はない。

 すっかり冷めた夕食。女将さんは温め直すと言ってくれたけれど、無理強いして断った。今は栄太君の傍にいるべきだ。場所さえ教えてくれたら、自分たちで何とかすると言って、汁物とご飯だけ温めて、夕食の続きを取った。

 すっかり遅い時間で、給仕も悉く断っているからがらんとしている。周りに人気はない。その方が、好都合だった。遠慮せず、御手洗さんに詰問できる。

「説明と言ってもね……見た以上に語ることはないのですよ」

 御手洗さんは涼しい顔。ただ、事がうまく運んで若干上機嫌なのがわかる。いつもの仏頂面が、二百倍くらいに希釈されていて、わたしの我儘に付き合うゆとりすらあるようだから。

「御手洗さん、どこまで察していたんですか? 栄太君が山で迷って、狛市に助けられるところまで、全て読んでいたんですか?」

 確信があったわけではないですよ――と前置きしつつも、深く頷く御手洗さん。自分の瞳が、水を吸ったように膨らむのが分かった。

「御手洗さんって――エスパーなんですか?」

 随分と古い言い方ですね、と眼鏡を上げながら皮肉る御手洗さん。

「長くこの仕事を続けていると、見えてくるものがあるんです。今回は、それが非常に役立った」

「何が見えたんですか」

 神と人との縁ですよ――と、御手洗さんは答えて冷えた茶をすする。

「栄太君はね、狛市の神子なんです」

「神子――」

「神子、巫女、かんなぎ――まあ呼び方は何でもいい。神世と人世を繋ぐ存在です。我々の仕事においてはもう少し分かりやすい定義があって、その神様にとって一番縁深い人を神子と呼んでいます」

「栄太君が、その神子だったんですか? でも、なぜ――」

「神子になる基準はありません。家計が物を言う場合もあれば、何かしらの霊的きっかけによる場合もあります。ただ、栄太君の場合はもっとシンプルでね。少子高齢化著しいこの村で一番、狛市を慕う人間が彼だったというだけです」

 そうか、だから――。

 だから栄太君は助け出された時にまず、狛市って呟いたんだ。

「神子の役割にも決まったものはありませんが、その神が人世において何らかの変をきたす場合に、大きな役割を果たす場合が多いのですよ。本人の意識とは無関係にね。栄太君が山に行った表向きの理由は、山で飼っている虫たちのことが心配だから――でしたが、この雨夜に危険を冒してまで山にいく理由としては弱い。本当は、神子としての役割を果たしに行ったのです。もちろんそんなことは栄太君自身も、そして狛市も、まったく自覚していないでしょうが」

「え? 狛市に呼ばれたからじゃないんですか」

 違います、と御手洗さんは言下に否定した。

「神子を動かす原動力は、神様よりさらに大局に位置するものなんです。到底、人の知の及ばないところ。便宜上で良いなら、この八百万の世界そのものの理の力、そう言って良いでしょうね」

「それが今回、どんな風に働いたんでしょう。栄太君の、神子としての役割って――」

 簡単ですよ、と御手洗さんは言った。御手洗さんにとって簡単なことに、わたしはいつまでも引っ掛かっている。もどかしさで、頭をがりがり掻き毟りたい気持ちだ。

「狛市をこの村に――この村の人に繋ぎ止める。それが栄太君の役割です」

「繋ぎ――とめる……」

「狛市の塒で人が亡くなったことで、村では狛市の存在が脅威となった。このままでは、山狩りに発展しかねない。事実、もう火ぶたは切られたも同然でしたから。村が神殺しに挑めば、より悪い結果になったでしょう。それを止めるためには、村にとって狛市が脅威ではなく、むしろ有益であるということを理解させるしかない。それを栄太君は、身を以て示したのですよ。山に迷い込んだ栄太君の命を、狛市は守った」

 御手洗さんはふっと息を吐いて、天井を見上げる。

「神子だから当然と言えば当然のことですが、本来、大口真神――神格化された山犬は、何かを守る術に長けているのですよ。送り狼ってあるでしょう? あれも元々は夜道を歩く人の後をつけ、害獣から身を護る存在なのです。転ぶと襲ってくるなど、扱いは難しいのですがね。狛市も大口真神、そして彼は、この山全体の守り神でもある」

「でもその狛市が、どうして昌平さんを殺したのでしょう」

 あれですか、と御手洗さんはため息をついて、眼鏡を上げる。

「そう、それが全ての災難の始まりでしたね。あの件に関してですが、狛市はかかわっていません。むしろ狛市は、彼を助けようとしたのですよ」

「どうして、そんなことが――」

「昼間、狛市の塒に足を運んだでしょう。あそこで見つけたものが証拠です」

 そう言って、御手洗さんはスマホの画面をわたしに見せた。いつ撮ったのだろう。そこに映っているのは、禁忌と言われる狛市の塒。全景じゃなく、一部分をアップにしたものだが、そこに赤い笠のキノコが映っている。

「このキノコ……なんですか。今日の食卓にありましたっけ?」

 あったら大変なことになります、と御手洗さんは大まじめに返した。

「見た目は可愛らしいですが、このキノコには神経に障る毒があって、食べると錯乱状態に陥ります」

「毒キノコ――ですか」

「また強心作用もあるのですが、これがあまりに強すぎて、逆に心臓を圧迫してしまい、ある程度の強い外傷や刺激などが命取りになりかねないのです」

「じゃ、じゃあ、昌平さんはこれを食べて――」

 御手洗さんは頷いた。

「想像してみてください。夜の雨道。冷え切った身体、頂を削る疲労。そんな中で思わず口にしたこいつによる錯乱状態。道を踏み外し、身体を強打して心臓に負荷がかかりすぎて助からない――これが一番自然な成り行きではありませんか」

「でも背中には、狛市の足跡があったそうですよ」

 助けようとしたんですよ、と御手洗さんは言った。

「毒キノコを食べたせいだと、狛市は知っていたのでしょう。だから背中を強く圧迫して、キノコを吐き出させようとした。結局、無理だったようですが」

「狛市も、そのキノコのことは知っていたんですか」

 貴女は自分の家に何があるか、把握できていない人ですか? ――そう御手洗さんは聞いた。意地の悪い聞き方だ。一応首を横に振ったが、本当のこと言うとイマイチ自信がない。

「キノコのことは狛市だって知っていますよ。むしろ狛市は、神通力を以てあのキノコの繁殖を食い止めていたのですから」

「どうしてそんなことが分かるんです?」

「麓から狛市の塒に至る道に、キノコが一つもなかったからです。恐らくキノコは、山の頂上から塒に至るところに繁殖しているのでしょう。塒より下に行かないのは、狛市が抑え込んでいるからですよ。だからあの場所は、誰も立ち寄ってはいけなかった」

「――」

「おそらく昔から、そういう意味での禁足地だったのでしょう。しかし時代と共に、その部分が受け継がれなくなって、単純に神の降ります場所だから、という理由だけでの禁忌となっていた。そりゃあ反感を持つ者だって出てきます。でも狛市には、どうしようもなかった。山犬に、事情の説明なんてできませんからね」

「じゃあ、狛市があの山から追い出された場合の最悪の結末って――」

「あのキノコの繁殖力はものすごいそうです。狛市の抑えが消えた瞬間、盛大に繁殖して麓まですぐに辿り着くでしょう。そうなるとこの山から、人も獣もいなくなる。だからね、今回、何があっても狛市には、この山にとどまってもらうしかなかった。そして村人たちに、それを納得させるしかなかったのです」

「――」

 わたしは長らく、口を開くことができなかった。合点がいくというのは、こういうことを言うのだろう。だが、合点がいってすっきりした、なんて気分にはとてもなれず、むしろ判明した真相の重みに胸が詰まって、何も言えないのだった。

 これが、神の理――。わたしたちには見えていなかった、理由。

「このことを――村の人たちには」

「栄太君を探しに、一緒に山に入った人たちには話しました。おっとり刀の村長に説明して半信半疑な顔をされるより、我々と一緒にいて、我々が見たものを一緒に見た人たちに理解してもらう方が絶対に良い。昌平さんの死の真相も話しましたよ。もちろん最初は中々納得してもらえませんでしたが、運よく司法解剖の結果が送られてきましてね。胃の中に例のキノコが見つかったということで、僕の説明とぴったり一致する。それで、漸く納得してもらえたようです」

「じ、じゃあ、狛市は――」

「今後もこの山の主として塒に棲み続けるでしょう。栄太君という神子もいる。たとえ一人と一柱の間のみのちっぽけな縁だとしてもそれがある限り、神様はこの世で必要とされ続けますから」

「そう――ですか」

 よかった、と呟いて、わたしは深く息を吐いた。御手洗さんは首をごりごり鳴らして言う。

「今回は大口真神という人語でコミュニケーションが取れない神様だからこそ起こった面倒でしたね。まあ人語が話せたとしても、神様のやることの全てを理解することなんてできっこない。我々がどんなに近しくても、その思考や価値観を全て理解し合えることが不可能であるのと同じようにね。キリスト教の聖書には、神の御業は謎めいている、とあります。神様の行い、その行動原理は凡そ、人間には計れないものなのだ、と。この八百万の国にあってもそれは同じです。まあ尤も、謎めいている、というのは人間の知見に立った文言ですけどね。我々からすれば謎めいていること、理不尽なことにおいても、神様の理に立ってみれば至極最もだったりするものです。それを分からないなりに解きほぐし、神様と人間、二つの理の狭間での折衷を見出して互いを円満に繋ぐこと――それも、八百万人事課の大切な仕事なのですよ」

 それっきり、御手洗さんは黙り込んで、目まで閉じてしまった。わたしも口を開かず、このぽつねんと寂しい、それでいて穏やかな夜のひと時に身をゆだねる。

 耳を澄ますと、外の小雨が聞こえてきた。都会であろうと田舎であろうと。どこで聞いても大して変わりはしない雨音。それが何故だか今宵は、目に見えぬ者たちが、囁きさざめているように、わたしには聞こえてくるのだった。案外御手洗さんも、わたしと同じものを、聞いているのかもしれない。

 森羅万象の声――。わたしたちが生まれる遥か昔から変わらぬ、同じ謡を。

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