5.夜更けに私の正体を
目を覚ますと枯れ井戸の底にいた。私は薄い満月を見上げていた。
壁面に触れると、湿ってこけむしたいやな感触が手の平に触れた。井戸は深く、登れそうな高さではなかった。
暫く空を見上げたが、何一つとして変わりはなかった。
私はそっと蹲る。
彼女を助けられず、深い深い井戸の底。失望感に苛まれ、このまま朽ちるのかもしれない、と怖くなる。
けど、私の舌に残された記憶は確かだ。
一緒に美味しいご飯を食べよう――彼女の言葉だ。
……ダメだ。ここから脱出しなければ。
そのとき私の足下をかさかさと這い回るものが見えた。小さな蜘蛛だ。
私はそれをつまみ、頬張った。
じつは彼女に隠れ、空腹を誤魔化すため何度か口にした。口にふくんだ蜘蛛は私に抗おうと四肢をあばれさせたが、奥歯で胴体を引きちぎると大人しくなった。毛虫のようにざらついた感触と、蜘蛛のお腹から溢れてくる卵を噛み砕いた、その時――
私はふと、手の平の間にねばつく感触を覚える。自分の手を見る。
指の合間に、蜘蛛の糸のようなものが見えた。
試しに石壁に手をつくと、ねちゃ、という音とともに吸い付き、私の身体を支えた。
私は壁を這い上がり井戸を出た。想いは一つだった。
彼女を、助けなければ。
そう祈りながら飛び込んだ先は屋敷の洗面所だった。
薄暗い部屋に、トイレと手洗い場そして鏡があり、薄汚れた鏡が――二足歩行をしながら六つの手をもつ私の姿を映していた。
……。
私は、赤いフードを脱ぐ。
人間に酷似していたが、頭の部分は黒く、小さな口がついていた。
ローブをはだける。お腹を見下ろすと、館の化物達とおなじ大きな口がついていた。
おぼろげに思い出す。
私は唇の化物として、屋敷に生まれた。
私は人間に近いせいか、館で疎ましがられひどく苛められた。
だから私は館から逃げだし、森を抜けた先で、横転した馬車を見つけ……メイを拾った。
初めて見た人間はとても素敵だった。
ふっくらとした唇といいきれいな目鼻立ちといい、全てが完璧に整えられていた。目尻と頬をゆるめて笑うと、きっと可愛いだろうなと想像した。
私は――彼女と、友達になってみたいと思った。
館で友達がいなかったから。
私は気絶した彼女をゆすり、館から盗んだサンドイッチを分けた。
彼女は驚きながら「ありがとう」と微笑み、それに応えようとして――被っていたフードがはらりと落ちた。
彼女が何かを言うより先に、私は、日の光を浴びて身体と記憶を焼かれた。
鏡を見る。なんと醜い化物だろう。
私は彼女に、嫌われるだろうか。
八本手足の唇人間なんて。
……それでも彼女を助けようと思った。
大した理由ではない。
彼女は記憶を失い倒れた私を介抱してくれた。
彼女は私の正体に気付いたはずだ。それでも黙って手を握った。
白くてふわふわのサンドイッチは美味しかった。
友達と一緒に食べるご飯は、美味しい。
それ以上の理由が必要だろうか?
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